風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

村本大輔氏と東浩紀氏の「棄権」について

2017-11-13 03:22:05 | 隠された科学
2017年10月の衆院選では、いろいろなことを考えはしたけれど、選挙の前に何か自分の考えを書き留めておこうとは思わなかった。
ただ、それが過ぎたときに、何かを書き始めようと思っていた。

最初に記しておきたいのは、「棄権」についての考えである。
東浩紀氏が「積極的棄権」を唱えて賛同者の署名を募ったときも、
ウーマンラッシュアワーの村本大輔氏が「自分は選挙に行かなかった」とツイートしたときも、
ぼくも最初は御多分に洩れずショックを受け、憤慨した。
しばらくして、村本さんに関してはその体を張った覚悟を感じて、
おそらく彼は選挙に行かない人たちの側にあえて身を置こうとしたのだろうと思った。
そして、最近ハフィントンポストに掲載されたインタビューを読んだ。
そこで彼が述べている「やっぱり内側から変えないとダメなんですよ」という言葉に、
彼が眼差しを向けている先を感じたように思った。
なかでもぼくが共感したのは、次の部分である。

「どうやったらモヤモヤが消えて、『愛ある一票』を入れられますか?」という問いかけに、村本さんはこのように答えている。

「僕らが、『自分は馬鹿だ』と言うことを自覚することから始まると思います。
『俺は知っている』という奴らがいるから、自分の無知を言いにくくなっているところがある。お父さんが子どもに、『俺もわからないし、お前もわからないと思うから、政治の話、国の話を一緒にしてみないか』『みんなわからないから、みんな一緒に考えていこうよ』みたいなことを言わないと。政治を知ってるってウソをついてもダメです。」

これは村本さんなりの、現在の状況に対する具体的な解答なのではないかとさえ思う。
重要なのは、関心をもってもらうことだ。
そのためには「俺は知っている」という振る舞いをまずやめて、いっしょに考えようという。
村本さんは、投票に行くという「正しい行動」を取って「俺にはわかっている」という側に立つより、迷う側、ときには考えることさえしない側に身をおき続けることを選んだ。
そこから「内側からの変化を起こそう」と試みている。

それに対して、東浩紀氏の「積極的棄権」はなかなかその真意が理解できないところがあった。
というのも、彼が書いている「『ルール』そのものへの懐疑の意識を広めたい」という言葉からは、単純に考えれば、そもそも「憲法」もルールなのだから、むしろ自民党と同じように、彼は憲法という枠組みに対してもそれを疑う立場なのだろうかとも思えたからだ。
もう少しその意図を理解したいと思って、彼の最初の著作である『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』にも当たってみた。

デリダが展開した脱構築という知的営為と、後年の政治的なラディカルな行動との関係、または「目と耳のあいだの空間」に注目したこの本は、今読んでもいろんな意味で興味深かった。
(たとえば「再来するもの」としての「幽霊」、また「亡霊」「幻霊」「憑霊」という四語の訳し分けなどは秀逸だと思った)。
ただ、ぼくが東浩紀氏の「積極的棄権」との関連を感じたのは次の箇所である。

この90年代の末に書かれた本について、東氏は「あとがき」のなかで自分は「自己言及的な罠」に捉えられてしまったと述べている。
この本が扱う「なぜデリダは奇妙なテクストを書いたのか」という問いは、「なぜ僕はその奇妙なテクストに惹かれるのか」という「自己言及的な問い」でもあったのだと。
彼はもう自分は二度とこのような本を書くことはできないだろうし、書くべきでもないと締め括っている。

自己言及的であることは若者の特権であり、東氏はそこから離れたのかもしれない。
ぼくはこの箇所を読んで、シュタイナーが『ゲーテの世界観』の中で述べていることを思い出した。
ゲーテは「自己の探求」に懐疑的だった。
「自分とは何かなどという問いを探求すれば、人は霧の中に迷い込んでしまう。大事なのは、世界の中に出て行って行為することだ。そのなかで自分とは何者なのかも見えてくる」というようなことを述べている。
この姿勢について、シュタイナーはそこにゲーテの限界があったと書いた。
もしゲーテがその観察の眼を植物だけではなく、自分自身にも向けていれば、「生命のメタモルフォーゼ(変容)」の認識から、「魂のメタモルフォーゼ」の認識にも到ることができただろうと。

まったく文脈が違うように思われるかもしれないが、ぼくはここに村本大輔氏と東浩紀氏の姿勢の違いを見ている。
村本氏はどこまでも「自己言及的」であろうとし、そこから「投票に行かない人々の内面」に寄り添おうとしている。
彼が求めるのは「愛のある一票」なのだ。
それに対して、東浩紀氏の眼差しは「ルール」に向かう。そして立憲民主党をはじめ、今努力している人々に対しても冷ややかである。

少なくとも、東浩紀氏は「俺は知っている」という人々のひとりである。

その彼が眼差しを自分自身に向けたとき、何が見えてくるのだろうか。
もちろん、文学者であるゲーテに自分が見えていなかったなどというのは極論だし、『詩と真実』のような自叙伝的文学はゲーテから始まったとさえ言われる。
シュタイナーがいうのは、ゲーテがあえて見ようとしなかった一点があるということだろう。
同様に、東氏だって自分のことはよくわかっているに違いない。
それでも彼が自分に関してあえて触れることを避けている一点があるのではないか、というのがぼくの感想である。

ちなみに、シュタイナーのいう「魂のメタモルフォーゼ」とは輪廻転生のことだ。
ぼくなりの解釈で言えば、「自己言及の罠」は「神秘主義やオカルトの罠」にもつながるものだろう。
でも、それをただ回避するだけでは、本当に人々の内面に生きているものから離れることになる。
自分自身からも。
国家や憲法をめぐる問いは、私たちが「そこに生まれた」という事実を前提にしている。
選挙権は先人が努力のすえに獲得した権利だから無駄にするなという言い方もあるが、本当はその「先人」と「私」はひとつにつながっている。
本来、すべての人のなかに、社会形成に参加したいという欲求があるはずなのだ。
なぜなら、この社会は私たちが輪廻転生を通じて共につくってきたものだからだ。

村本氏は、政治家に向かって「選挙に関心を持てるようにしろ」という。
けれど、その要求は教師たちに向けられるべきだ。
子どもたちの中に政治への関心を呼び覚すことができるのは、教育現場にいる人たちのはずである。
でも、彼らが授業でリアルな政治を取り上げることはますます困難になりつつある。
そこが一番の問題なのではないか。

ぼくは今、日本の文脈のなかで「教育の自由」を扱う可能性を考えている。
日本国憲法の条文がアメリカ人によって作成されたことは明らかだけれど、まさに東氏やデリダをはじめとする人々が考えてきたように、すべての言葉はパロール(声)であると同時にエクリチュール(文字)である。
そしてエクリチュールである限りにおいて、それは作成者のもとを離れ、いくらでも新たに解釈され、意味づけされる可能性を持っている。
重要なのは、憲法を誰が作成したのかではなく、
その言葉に自分がどう向き合い、どう解釈するかなのだと思う。
ちょうど東氏が引用しているガダマーの言葉にあるように、「伝承の運動と解釈者の運動が相互に働きあう」ことによって「私たちを伝承と結びつける共同性」が立ち上がるとすれば、それが日本国憲法というテクストをめぐって起こることをぼくは願うものである。

そして、その可能性は保育園、幼稚園から学校にいたるまで、保育者や教師たちの言葉に向かう姿勢にかかっていると思う。
日本人の真の自立は、アメリカ人が作成した憲法を忌避することによってではなく、目の前の言葉をどのように受け止め、それを自分自身の主体性によって解釈し、そこに生命を吹きこんでいくか。それによって実現するのだと思う。

今回、東浩紀氏や村本大輔氏が提起した「棄権」をめぐる問いは、結局は「言葉」をめぐる問いなのだと思う。
ドイツ語の一票Stimmeは「声」という意味である。英語のvoteは誓いや願いを意味する。
一票を投じることのなかに国民の声と願い、意志がある。
だれもが発するべき声を持っている。
けれど、その声が聞こえない、発せられない状況の背後に何があるのか。
そこを村本氏は揺さぶろうとしている。
東氏はそれよりもルールそのものが無効ではないのかと訴えた。

このふたりの問題提起を受けて、ぼくは日本に生きるひとりとして、人間の言葉は輪廻転生を基盤にしていることを自分なりに明らかにしていきたいと思った。
社会形成の原動力は、個々人のなかの輪廻転生を通じて活動するスピリチュアリティである。
これまでは避けてきたことだけれど、そこにはっきり目を向けることから、権利でも義務でもなく、個々人の欲求としての投票を含めた社会参加の可能性が見えてくるのではないか。
そのように今は思っている。


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1 コメント

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棄権へのコメント (sekito)
2017-11-13 06:38:44
村本氏と東氏の政治に関する発言について気にはなっていたのですが、リフレクトする余裕もなく、村本氏には敬意を、東氏には疑問を抱いていたのですが、ブログのお記事を拝見して、とてもすっきりしました。ただ、最後の輪廻転生の視点を組み込むことによるという視点と、言葉を一人一人が自分にとって生きた言葉として解釈していくという作業との関係が見えにくい印象があったので、そのあたりについて、もう少し展開してほしいと感じました。
私としては、「言葉は、人間よりも賢い」というシュタイナーの指摘の方に依拠して、論を展開する方向もあるのではと感じました。記号としての言語から言霊としての言語へと意識的に帰還する方向で論を立てる道もあるかと思ったのです。私としては、余裕があれば、その方向でちょっと考えたい気持ちになりました。貴重なお考えから、触発された次第です。、

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