風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

シュタイナーがみた「クリスマスツリー」の意味

2017-12-04 17:08:31 | 隠された科学
プラントハンター西畠清順氏が企画した「世界一のクリスマスツリー」をめぐって議論が続いている。
ネット上ではさまざまな批判や分析が行われ、「中止を求めるキャンペーン」にも現時点で18,000人もの人々が署名しているらしい。

西畠さんは「議論になることが僕の願い」と言っていたらしいが、少なくともこのプロジェクトが多くの人々の感情を揺り動かしたことは確かだ。
ぼく自身もこの出来事にはどこか心をかき乱されるものがあった。
そこで、ぼくにできることとして、「そもそもクリスマスツリーとは何か?」という観点から、この出来事を自分に引きつけて考えてみたいと思う。

シュタイナーは、ヨーロッパで「クリスマスにもみの木を飾る」のは、せいぜいが200年程度の近代における新しい習慣だという。そこに彼は近代の人々の一種の「逃避願望」を見ている。
何からの逃避かというと、「キリスト体験」からの逃避なのだという。

いうまでもなく、クリスマスは「キリスト生誕」のお祭りである。
キリストが伝えたことは、一言でいえば、「一人ひとりの人間のかけがえのない価値」である。神であるキリスト自身がひとりの人間として生き、十字架にかけられ、父なる神に向かって「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と言って息をひきとる。そこには信じていた父親に裏切られた息子の姿がある。その後の「復活」は、神の復活ではなく、あくまでもひとりの人間の復活である。キリストはいわば「人間の代表」として死を通過し、永遠の生命に至ったのである。シュタイナーは、キリストの復活を経て、すべての人間が輪廻転生を経ても失われない「永遠の個性」を持つに至ったのだと考えた。つまり、人間は生まれ変わりを通して「進化」することが可能になったのである。

そのような考え方を受け入れるかどうかはともかく、本来のクリスマスとは、キリストが成し遂げた仕事の始まりを祝うお祭りであり、その先には生の喜びだけではなく、悲しみや苦しみ、そして十字架の上の死が待っている。それは単なる象徴ではなく、誰もが体験する死であり、一生の中にも「死」の体験は何度となくあるだろう。人生の価値は、一人ひとりが孤独と闇の中で、自分だけの明かりを見出し、心の中に灯すことにある。そのような生と死が重なり合った体験が、「キリスト体験」なのである。
そのため、クリスマスは「冬至」という、一年の中で冬の寒さと闇がもっとも深まる時期に行われる。

けれども、そのような「個」の体験は楽なことではない。それはいわば「大人」になることであって、できればいつまでも子どものままでいたいし、守られた状態でいたい。それが個が確立されていく近代になって、「天国への憧れ」として人々の中に現れた。そのために、人々の意識はキリスト生誕の日である12月25日よりも、前日24日のアダムとイブの祭り、すなわち「クリスマスイブ」に向かうようになった。それが天国に生えている「生命の木」(クリスマスツリー)を飾る習慣にもつながっているというのである。

シュタイナーは、この「天国への回帰願望」を民族主義や国家主義の台頭の中に見ている。天国は「人類の起源」だが、「個」として立つことを恐れ、そこから逃げる人たちは民族や集団の起源を美化し、そこに回帰しようとする。そこに自分たちが個人として責任を問われない「集合体」をつくり、その中に隠れようとする。そして、その集合体の権力によって他者を抑圧したり、あるいは人々をその集合体の中に吞み込もうとする。それをシュタイナーは擬似的な「ヤーウェの原理」と呼んだ。

天国とは、キリストではなく、父なる神ヤーウェが働く領域である。そこは美しく調和に満ちているが、自由はなく、人間は神に従属している。
それに対して、キリストがもたらしたのは、神からも自由な人間の意識だった。彼は「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな」という。「平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのである」と。そこでは個人は家族や民族を離れていったんは孤独になるが、そこから意識的に相互につながることができる。そこから民族や人種の違いを超えた、「個を基盤とする人類的な連帯」が可能になる。

しかし、その道を厭う人々は、家族や民族を強調し、一人ひとりの個人の自由を抑圧することによって集合体の統制を図ろうとする。多くの近代国家は、個人による連帯ではなく、民族による連帯に依拠しているために、そこに働くのはキリスト原理ではなく、擬似的なヤーウェの原理なのだとシュタイナーはいう。その背後には個人によるキリスト体験から逃避し、天国に回帰しようとする人々の衝動があるのだと。

そして、シュタイナーはクリスマスツリーをめぐる伝説を紹介する。
アダムとイブには、カインとアベルのほかに、セトという第三子がいた。アダムが死の病に瀕したとき、アダムはセトを天国に遣わせた。セトは天国の門の前に立ち、大天使ケルビムに許されて中に足を踏み入れる。そこで見たのは、生命の木と知恵の木が絡み合っている姿だった。大天使ミカエルはそこから三粒の種(話によっては一粒の種)をセトに与える。セトが地上に戻ると、アダムはすでに死んでいた。セトはアダムの口にその種を入れ、埋葬した。後に、アダムの墓から木が生え、その木がソロモン王の神殿の門になり、キリストが治癒の奇跡を起こした「ベデスダの池」にかかる橋となり、キリスト自身が磔になった十字架になったという。

ここで重要なのは、「生命の木と知恵の木が絡み合っている」というイメージである。
シュタイナー思想の中で最も重要な考え方の一つは、「生命力と思考力は同じ力の二つの現れである」ということだろう。物質に生命を与え、成長、増殖、生殖といった作用を可能にする力は、物質を離れると、今度は内面の思考力となって働く。仮に、その同一の「力」を精神と呼ぶとすれば、この精神は目に見える物質次元では「生命」として、目に見えない内面の次元では「思考」として働くということである。この発想が、シュタイナー教育にとっても、アントロポゾフィー医学にとっても、最も重要な出発点になっている。これは実は「生と死」の関係である。

「地上における死は、霊界における誕生である」という表現があるが、私たちは誕生と死を繰り返しながら、二つの世界を行き来しているといえる。けれど、「この世」と「あの世」は同じ一つの世界の裏と表にすぎない。私たちの意識は死後、いわば宇宙思考となって普遍的な広がりを持ち、この世に誕生すれば身体の神経系に自己を映して「個別」の自分を意識する。そこにあるのは同一の意識、または精神である。私たちの意識はいずれにせよ、常に宇宙に広がっているのだ。しかし、死後は普遍が意識され、誕生後は個別が意識される。地上における個別の人間の死は、霊界における普遍の人間の誕生であり、それはかつては個別意識の解消を意味していた。

けれども、キリストの復活によって、地上の個別意識は死後も解消されるのではなく、その時々の人格へと変容を遂げながら、一つの統一体を持つことが可能になった。「わたしの前世は誰某だ」ということができるようになったのである。それとともに、地上にありながら、死者と交流すること、いわゆる「死者との共同作業」も可能になった。キリストが成し遂げた仕事とは、「普遍と個」を一致させることであり、それが天国における「生命の木と知恵の木の絡み合い」によって表現されていると言える。

近代の人々がそこから逃避しようとしている「キリスト体験」とは、一人ひとりの「個」を徹底させることによって、再び普遍的な「知恵」にまで到達する可能性を見据えることだろうと思う。私たちの個別の意識は、神のような普遍的な叡智を持ち得ない。けれども、個に立脚することによって、家族、民族、人種といった「血脈によるつながり」に依存しない、「個を基盤とする人類的な連帯」の可能性が生じ、対等な関係の中で知識を共有し、共に考えることができるだろう。それがシュタイナーが見ていた「新しい人間の知恵」としての人智学、アントロポゾフィーなのだろうと思う。

しかし、そのような方向に逆行する流れが、シュタイナーが生きた当時から世界各地で強まっている。それに対して、シュタイナーは「クリスマスツリーを飾る習慣」に新しい意識で向き合うことを提案し、7つのシンボルを示した。

クリスマスツリーの一番下には地水火風、および人間の四つの構成要素(肉体、生命体、感覚体、自我)を示す「正方形」が置かれる。その上には、人間の高次の三つの体(霊我、生命霊、霊人)を示す「三角形」が置かれる。その上には、世界の始まりから終わりまでを解き明かす78枚のタロットカードのシンボルである「タロック」の記号がくる。その上には、始まりと終わりの記号であるアルファ(Α)とオメガ(Ω)が並ぶ。そして、その上にはいわゆる「エジプト十字架」が置かれるが、これは嵐や波の怒号、稲妻や雷鳴の中から人間に語りかける「自然の言語」としての「タオ」のシンボルである「T」の文字と、すべてを包括する父なる霊を表す「円」が合体したものである。最後に、「進化する人類」を表す五芒星が、私たちの道を照らす光としてツリーの頂点に置かれる。

この五芒星は、現在の一人ひとりの個別の人間の象徴であると同時に、宇宙の広がりを満たす普遍的な人間の象徴である。それはかつてキリストが歩んだ道、そして今この瞬間も歩き続けている道を表している。クリスマスに「生命の木」のシンボルであるクリスマスツリーを飾るとき、私たちはかつて自分もそこに安らかに身をおいていた天国の思い出に浸るだけではなく、そこから歩み出て、孤独に人生を生きながらも、個を基盤として他者と出会い、新しい社会を形成していこうと決意することができる。大人たちがそのような決意を持ってクリスマスを祝うとき、子どもたちは人生の峻厳さだけでなく、かけがえのないひとりの個人として生きることの祝福を感じることだろう。そのとき、私たちは、クリスマスツリーをこれらの七つの記号で飾りながら、生命の木と知恵の木を絡み合わせているのだ。

西畠清順氏の「クリスマスツリー」のプロジェクトは、確かに多くの人々の意識を揺さぶった。そこには仕掛けられた危うさもあるだろう。けれども、重要なのは、衝撃を受けた側がそこにどのような意味を見出し、どのように応答するかだろうと思う。
ぼくには、西畠清順氏が神戸港に運んだ巨木が生田神社の鳥居になることも、ソロモンの神殿の門のイメージと重なるのである。それがいわば民族的な「回帰」につながるのか、それとも一人ひとりの個人が自分の人生を生き、自分の十字架を担うことへの勇気づけにつながるのか。そのような問いかけとして受けとめたいと思う。そして、ぼく自身はクリスマスツリーに新しい意識で七つの記号を飾ることで、揺さぶられた無意識に、自分なりに応答したいと思う。

政治と生まれ変わり

2017-11-24 20:15:26 | 雑感
先に、これからの課題は「無投票層」の人たちの衝動に耳を傾けることではないかと書いた。ここではSekitoさんから投げかけられた問いを中心に、この数日間に自分に見えてきたことを書いておきたい。

たぶん誤解は避けられないと思うのだが、ぼくはもし戦争へ突き進む道をぎりぎりのところで回避できるとすれば、「霊的なこと」(スピリチュアリティ)についてストレートに語っていくことでその僅かな可能性が開けるのではないかと思うようになった。
もちろん、これまでも霊的なことについてはいろいろな場面で語ってきたけれど、それはどこかシュタイナーが言っていることの紹介であったり、自分の見解を「ぼくにはこう見えます(が、ほかの人から見れば違うかもしれません)」という留保付きで述べることであったりした。

でも、おそらくもっと批判されたり非難されたり、おそらくは嘲笑されたりすることを表明していく必要があるのだ。そして何よりもぼくが出会った個々の人々がそれぞれの感性と知性を働かせるうえで刺激となるように自分の言動のなかで心がけたいと思う。ずっと以前、真木悠介さんという人の話を聞いたとき、「伝達のコミュニケーション」と「触発のコミュニケーション」ということをおっしゃっていたのが印象に残っているが、これからは「伝達」よりも「触発」が自分の仕事なのではないかという気がしている。

でも人を触発するということはいわば自然発生的に起ることであって、意図してできることではない。ぼくはたぶん、自分自身が触発されることを求める中で、他の人々のなかにも触発は起るのではないかと思っている。
そこで「感覚」ということを考えるのである。自分が感じるためにはー、それも自分にとって未知のことを感じとるためにはー、つねに自分自身の中に新しい感覚を育てる用意がなければならない。ゲーテやシュタイナーと共に語るなら、新しいものとの出会いは、つねに新しい感覚の萌芽を呼び覚ます。問題は、そのことに気がついて、芽生えかけた新しい感覚器官を自分のなかで育てていくことができるかどうかだ。そこに他の人々や他の文化、およそすべての未知なるものとの出会いの可能性がかかっている。

この関連でぼくが重要だと思うのは、シュタイナーが「オイリュトミー」という新しい舞台芸術について述べたことである。オイリュトミーは実は
「表現」ではなく「聞くこと」なのだという。人は耳を傾けるとき、つねにオイリュトミーを行なっている。この考えの背景には、喉頭という発声器官は、他者の語りとともに動いているという彼の直観があった。オイリュトミーは喉頭の動きを全身に広げたものである。オイリュトミーとは「身体で聞く」ことなのである。私たちが語ることができるのは、聞くことができるからである。そして語りは、聞くことがあって生まれる。
私が耳を傾けたとき、おそらく他者は語ることができるだろう。そのとき、他者が実際に言葉を発するかどうかはその人の自由である。けれど、私が聞いていることが、相手の語りを引き出す。シュタイナーの言い方でいえば、対話の中では、相手が私の中で語り、私が相手のなかで語っている。シュタイナーは現代において「聞く力」が衰えつつあるからこそ、教育の中のオイリュトミーを重要視したのである。

選挙における投票も声を発すること、表現活動である。もしいわゆる無投票層の人々に選挙に行って欲しければ、まず耳を傾けなければならないだろう。選挙がなぜ必要かとか、国民の義務だとか説得するのではなく、普段から、生活のさまざまな場面で出会う人たちに耳を傾けていなければならない。そのうえで、相手がどのように行動するかはその人の自由に任せる。それがさしあたり、私たち一人ひとりにできることなのだと思う。

聞くということは、感覚を働かせることだ。相手を感じること。それが語りが、およそすべての表現活動が成立するための条件である。そして、そこにシュタイナーが法律・国家・政治を心臓や呼吸器のある「胸の領域」(リズム系)に対応させた意味があるとぼくは考えている。

政治とは、言葉を使って仲介し調停し、調和をもたらそうとする活動である。その基本は「聞くこと」でなければならない。言葉巧みに「説得」することではないのだ。感じること、聞くことができたとき、相手に届く言葉が自ずと生まれてくる。

シュタイナーは最初の著作である『ゲーテ的世界観の認識論要綱』の後半でほんの数行であるが「憲法」に触れている。彼は憲法とは、「国民の無意識にあるものを感じとって言葉にしたもの」だと書いた。同様の考えを、彼は『自由の哲学』のなかでも法律に関して述べている。
法律とは本来、なんらかの個人の考えを述べたものではなく、人々のなかに生きている願いや衝動を感じとり、それを理念として言葉にしたものだ。本来の法律は聞くことによって生まれる。

以上の考え方からも、ぼくにとって「誰が憲法を書いたか」は本質的な問いではない。重要なのは、憲法の条文を書いた人々、具体的には戦後、GHQの中で憲法作成に携わった人々がどれだけ日本の人々の願いや衝動を感じとっていたか、そして「個人」としてではなく、いわば「人類の代表」としてそれらの条文を書くことができたかである。たとえばベアテ・シロタ・ゴードンさんの手記などを読めば、いかに彼女が当時の日本人、特に日本の女性たちに思いを寄せて「男女平等」の理念をそこに書き入れたかがわかる。

そして、もっといえば、いったん憲法として言葉になったものに対しては、それに向き合う私たちが「主体」になる。
ぼくは矢部宏治氏の『日本はなぜ、「原発」と「基地」を止められないのか』や『知ってはいけない隠された日本支配の構造』などの著作は、日本の政治の現実を見つめる上で本当に重要な役割を果たしていると思うけれども、一点、憲法については見解を異にしている。9条をはじめとする日本国憲法の理念は単なる平和主義の理想ではなく、連合国の意図によって書かれたものだと彼は指摘する。けれど、書かれた言葉はそれ自身で独立している。そこにどんな意図があったとしても、それは条文として発表されてからは、書いた人の意図から自由になる。それをどう受けとめ、どう活用するかは私たち次第である。連合国の意図があったからといって、それをもって憲法を否定するのはむしろ不自由であり、主体的ではないと思う。
問うべきは、その憲法の言葉そのものが本当に私たちを不自由にしているのかどうかだ。むしろ、今の憲法は立派に権力者の側を縛ってきていると思う。

当時の連合国、そして現在の米国(米軍)の意図を明らかにしたとき、それに抗するためにも彼らが用意した憲法を否定するのではなく、むしろそれを逆手にとって私たちの自律の幅を広げていくことに力を注ぐべきではないのか。
何より、私たちが現行の憲法を否定することで一番喜ぶのは現在の米軍や権力者たちだろう。

最後に、言語について書いておきたい。
シュタイナーが「精神生活や経済生活には霊的背景があるが、国家・法律・政治だけは純粋に地上のものだ」と考えたのは、言語とは地上における「人間性の身体」といえるからではないだろうか。
私たちが生まれ変わりを繰り返すとき、私たちは地上の個々の身体のなかに「受肉」すると同時に、特定の言語圏の中に生まれることになる。
国家の本質は法体系であるとすれば、国家の本質は言語だということになる。ある特定の国家の中に生まれることと、ある特定の言語圏に生まれることとは必ずしも一致しないし、国家と言語の関係もさまざまに議論されるところではあるが(だから母国語ではなく母語という言い方をするわけだが)、国家が言語によって成り立っているということは言えるのではないだろうか。

そしてそこに最初は英語で書かれた憲法をもつ日本という国家の運命もあるのだと思う。それをただ否定するのではなく、日本という国家、そして日本語という言語の個性として見つめたいと思う。

本来、国家が言語を規定するのではなく、言語の中から国家が生まれる。私たちはなんらかの母語の中に生まれ、おそらくはなんらかの国家のなかに生まれる。もちろん、国家が存在しないところに生まれることもある。けれど人間の子として生まれるかぎりは、なんらかの言語のなかに生まれるのだ。そしてその言語を使って他の人々と共同生活(つまり社会生活)を営むうちに、決まりごとが生まれ、それが法律となってやがては小さな国家が成立するだろう。

言語と国家は同じものではないけれど、相互に支えあったり、影響しあったりして、地上の社会形成に寄り添っている。
Sekitoさんの問いかけの文脈でいえば、社会とは「社会有機体」というように地球上の生命体なのだと思う。それは生きている以上、成長したり衰えたりする。完全に死んでしまうこともあるだろう。人は自分の身体の中だけでなく、社会有機体のなかにも受肉する。ただ社会有機体は複数の人々と共有する「身体」である。

人間は、この社会という身体を地球上で形成する。生まれてきては社会形成に関与し、また霊界に還っていく。社会形成は、この地上でしかなしえない仕事である。私たちは社会を先人達から受け継ぎ、自分たちで少しずつさらに(できればよりよい方向に)形成し、そこに生まれてくる子どもたちを受けとめ、また次の世代に託していく。

男性に生まれることも、女性に生まれることも、またGLBTに生まれることもあるように、私たちはさまざまな国、文化、言語の中に生まれ変わる。そうやって自分が関わる社会の中に少しずつ多様性と普遍性を実現していく。

そのとき、きわめて意識的に、自由、平等、友愛への感覚を自分の中に育てていく必要があると思う。人が何かを創造するとき、そこには自由がなければならない。人が相互の創造作品を認め合い、それらを流通させるとき、そこには友愛が働いていなければならない。そしてお互いを偏見なく認め合い、作品を交換するための基盤が、言語による平等な関係である。

シュタイナーは、12年間の教育を通して、この自由、平等、友愛への感覚を育てようとした。幼児期の「模倣」は自由の基盤となり、学童期の教師が演ずる「愛される権威」という役割は平等の基盤となる。そして思春期の性愛を含む「人類愛」の目覚めと「真実」との取り組みは、友愛の基盤となる。

そのような精神生活(文化)の中に自由、法律の中に平等、経済生活の中に友愛の原理が働く社会は単なる理想であり、複雑で深刻な現実に対してはなんの力も持たないと思われがちである。
けれど、社会は人と人の関係から成り立っている。私たちが他者の自由、平等、友愛に対して感覚を働かせるとき、それはその人のなかのそれらの原理を目覚ませるきっかけになる。

何より、乳幼児の保育に関わる人たちは、子どもが立ち上がり、言葉を発し、考え始めるプロセスの中に自由、平等、友愛の萌芽をみることができる。そして、それらを認め、支えようとする大人の側の意志によって、社会は形成されていく。

子どもの自我は、周囲の大人が見守り、耳を傾ける中で、目覚めていく。聞くこと、感じることが変化を引き起こす。まずは自分が知ろう、理解しようと努めることが、他者のなかの意志を、さらには物質の中の意志に働きかける。それをシュタイナーは「魔術」と呼んだ。

社会に絶望する前に、今一度、人間の中の自律性、すなわち自由、平等、友愛の感覚に意識を向けたいと思う。なぜなら、私たちはこれまでもずっとこの地上の社会形成に携わり続けてきたからだ。社会こそ、私たち人間の共通の作品である。

死後の世界と、生まれる前の世界を考慮に入れて、社会を見つめてみたい。なぜなら、死後の世界と生まれる前の世界は一つにつながっているからだ。この世を去った死者たちは、「未来」において私たちの子どもになる。そして、子どもたちは死者たちのいた「過去」からやってくる。
それがシュタイナーが教育の基礎としての「一般人間学」の出発点に据えた、教育による社会形成の基本理念であった。

以上、きわめて大雑把ではあるが、ぼく自身はこのような考え方をもって「国民の意志」に、また無投票層の中の衝動に向き合っていきたいと思う。子どもの発達、自律性に寄り添い、つねに死者との共同作業を意識しながら、この地上で出会う人々の自由、平等、友愛に感覚を向けていきたい。そこから改めて、自分なりの新しいアントロポゾフィーの歩みを始めたいと思う。

村本大輔氏と東浩紀氏の「棄権」について

2017-11-13 03:22:05 | 隠された科学
2017年10月の衆院選では、いろいろなことを考えはしたけれど、選挙の前に何か自分の考えを書き留めておこうとは思わなかった。
ただ、それが過ぎたときに、何かを書き始めようと思っていた。

最初に記しておきたいのは、「棄権」についての考えである。
東浩紀氏が「積極的棄権」を唱えて賛同者の署名を募ったときも、
ウーマンラッシュアワーの村本大輔氏が「自分は選挙に行かなかった」とツイートしたときも、
ぼくも最初は御多分に洩れずショックを受け、憤慨した。
しばらくして、村本さんに関してはその体を張った覚悟を感じて、
おそらく彼は選挙に行かない人たちの側にあえて身を置こうとしたのだろうと思った。
そして、最近ハフィントンポストに掲載されたインタビューを読んだ。
そこで彼が述べている「やっぱり内側から変えないとダメなんですよ」という言葉に、
彼が眼差しを向けている先を感じたように思った。
なかでもぼくが共感したのは、次の部分である。

「どうやったらモヤモヤが消えて、『愛ある一票』を入れられますか?」という問いかけに、村本さんはこのように答えている。

「僕らが、『自分は馬鹿だ』と言うことを自覚することから始まると思います。
『俺は知っている』という奴らがいるから、自分の無知を言いにくくなっているところがある。お父さんが子どもに、『俺もわからないし、お前もわからないと思うから、政治の話、国の話を一緒にしてみないか』『みんなわからないから、みんな一緒に考えていこうよ』みたいなことを言わないと。政治を知ってるってウソをついてもダメです。」

これは村本さんなりの、現在の状況に対する具体的な解答なのではないかとさえ思う。
重要なのは、関心をもってもらうことだ。
そのためには「俺は知っている」という振る舞いをまずやめて、いっしょに考えようという。
村本さんは、投票に行くという「正しい行動」を取って「俺にはわかっている」という側に立つより、迷う側、ときには考えることさえしない側に身をおき続けることを選んだ。
そこから「内側からの変化を起こそう」と試みている。

それに対して、東浩紀氏の「積極的棄権」はなかなかその真意が理解できないところがあった。
というのも、彼が書いている「『ルール』そのものへの懐疑の意識を広めたい」という言葉からは、単純に考えれば、そもそも「憲法」もルールなのだから、むしろ自民党と同じように、彼は憲法という枠組みに対してもそれを疑う立場なのだろうかとも思えたからだ。
もう少しその意図を理解したいと思って、彼の最初の著作である『存在論的、郵便的ージャック・デリダについて』にも当たってみた。

デリダが展開した脱構築という知的営為と、後年の政治的なラディカルな行動との関係、または「目と耳のあいだの空間」に注目したこの本は、今読んでもいろんな意味で興味深かった。
(たとえば「再来するもの」としての「幽霊」、また「亡霊」「幻霊」「憑霊」という四語の訳し分けなどは秀逸だと思った)。
ただ、ぼくが東浩紀氏の「積極的棄権」との関連を感じたのは次の箇所である。

この90年代の末に書かれた本について、東氏は「あとがき」のなかで自分は「自己言及的な罠」に捉えられてしまったと述べている。
この本が扱う「なぜデリダは奇妙なテクストを書いたのか」という問いは、「なぜ僕はその奇妙なテクストに惹かれるのか」という「自己言及的な問い」でもあったのだと。
彼はもう自分は二度とこのような本を書くことはできないだろうし、書くべきでもないと締め括っている。

自己言及的であることは若者の特権であり、東氏はそこから離れたのかもしれない。
ぼくはこの箇所を読んで、シュタイナーが『ゲーテの世界観』の中で述べていることを思い出した。
ゲーテは「自己の探求」に懐疑的だった。
「自分とは何かなどという問いを探求すれば、人は霧の中に迷い込んでしまう。大事なのは、世界の中に出て行って行為することだ。そのなかで自分とは何者なのかも見えてくる」というようなことを述べている。
この姿勢について、シュタイナーはそこにゲーテの限界があったと書いた。
もしゲーテがその観察の眼を植物だけではなく、自分自身にも向けていれば、「生命のメタモルフォーゼ(変容)」の認識から、「魂のメタモルフォーゼ」の認識にも到ることができただろうと。

まったく文脈が違うように思われるかもしれないが、ぼくはここに村本大輔氏と東浩紀氏の姿勢の違いを見ている。
村本氏はどこまでも「自己言及的」であろうとし、そこから「投票に行かない人々の内面」に寄り添おうとしている。
彼が求めるのは「愛のある一票」なのだ。
それに対して、東浩紀氏の眼差しは「ルール」に向かう。そして立憲民主党をはじめ、今努力している人々に対しても冷ややかである。

少なくとも、東浩紀氏は「俺は知っている」という人々のひとりである。

その彼が眼差しを自分自身に向けたとき、何が見えてくるのだろうか。
もちろん、文学者であるゲーテに自分が見えていなかったなどというのは極論だし、『詩と真実』のような自叙伝的文学はゲーテから始まったとさえ言われる。
シュタイナーがいうのは、ゲーテがあえて見ようとしなかった一点があるということだろう。
同様に、東氏だって自分のことはよくわかっているに違いない。
それでも彼が自分に関してあえて触れることを避けている一点があるのではないか、というのがぼくの感想である。

ちなみに、シュタイナーのいう「魂のメタモルフォーゼ」とは輪廻転生のことだ。
ぼくなりの解釈で言えば、「自己言及の罠」は「神秘主義やオカルトの罠」にもつながるものだろう。
でも、それをただ回避するだけでは、本当に人々の内面に生きているものから離れることになる。
自分自身からも。
国家や憲法をめぐる問いは、私たちが「そこに生まれた」という事実を前提にしている。
選挙権は先人が努力のすえに獲得した権利だから無駄にするなという言い方もあるが、本当はその「先人」と「私」はひとつにつながっている。
本来、すべての人のなかに、社会形成に参加したいという欲求があるはずなのだ。
なぜなら、この社会は私たちが輪廻転生を通じて共につくってきたものだからだ。

村本氏は、政治家に向かって「選挙に関心を持てるようにしろ」という。
けれど、その要求は教師たちに向けられるべきだ。
子どもたちの中に政治への関心を呼び覚すことができるのは、教育現場にいる人たちのはずである。
でも、彼らが授業でリアルな政治を取り上げることはますます困難になりつつある。
そこが一番の問題なのではないか。

ぼくは今、日本の文脈のなかで「教育の自由」を扱う可能性を考えている。
日本国憲法の条文がアメリカ人によって作成されたことは明らかだけれど、まさに東氏やデリダをはじめとする人々が考えてきたように、すべての言葉はパロール(声)であると同時にエクリチュール(文字)である。
そしてエクリチュールである限りにおいて、それは作成者のもとを離れ、いくらでも新たに解釈され、意味づけされる可能性を持っている。
重要なのは、憲法を誰が作成したのかではなく、
その言葉に自分がどう向き合い、どう解釈するかなのだと思う。
ちょうど東氏が引用しているガダマーの言葉にあるように、「伝承の運動と解釈者の運動が相互に働きあう」ことによって「私たちを伝承と結びつける共同性」が立ち上がるとすれば、それが日本国憲法というテクストをめぐって起こることをぼくは願うものである。

そして、その可能性は保育園、幼稚園から学校にいたるまで、保育者や教師たちの言葉に向かう姿勢にかかっていると思う。
日本人の真の自立は、アメリカ人が作成した憲法を忌避することによってではなく、目の前の言葉をどのように受け止め、それを自分自身の主体性によって解釈し、そこに生命を吹きこんでいくか。それによって実現するのだと思う。

今回、東浩紀氏や村本大輔氏が提起した「棄権」をめぐる問いは、結局は「言葉」をめぐる問いなのだと思う。
ドイツ語の一票Stimmeは「声」という意味である。英語のvoteは誓いや願いを意味する。
一票を投じることのなかに国民の声と願い、意志がある。
だれもが発するべき声を持っている。
けれど、その声が聞こえない、発せられない状況の背後に何があるのか。
そこを村本氏は揺さぶろうとしている。
東氏はそれよりもルールそのものが無効ではないのかと訴えた。

このふたりの問題提起を受けて、ぼくは日本に生きるひとりとして、人間の言葉は輪廻転生を基盤にしていることを自分なりに明らかにしていきたいと思った。
社会形成の原動力は、個々人のなかの輪廻転生を通じて活動するスピリチュアリティである。
これまでは避けてきたことだけれど、そこにはっきり目を向けることから、権利でも義務でもなく、個々人の欲求としての投票を含めた社会参加の可能性が見えてくるのではないか。
そのように今は思っている。


共産党の信念について

2017-10-23 07:47:37 | 雑感
今回の衆院選で共産党が半数近く議席を減らしたという事実に震撼させられている。

立憲民主党が野党第一党になったことは、私たちにとってぎりぎりの希望だけれど、その一方で共産党が議案提出権を失うことになると思うと、大きな損失である。

今後、共産党内でも少なからぬ失望や執行部への批判が広がるのではないかと心配だ。
でも、昨日、ラジオの報道番組で小池晃書記局長が立憲民主党が躍進することを「率直にうれしい」と述べているのを聞いて、ぼくはそこに強くて高貴な信念を感じた。

共産党が選挙協力のために、もともと小選挙区で擁立していた64人もの候補者を取り下げたことは、たとえそれがどのような「建前」のもとであろうと、並大抵のことではない。今、共産党の人たちが感じている痛みは、外部の人間には計り知れないだろう。

彼らにそれだけのことができたのは、彼らの思想(おそらくマルクス主義)があったからだろうと思う。職場の同僚は「共産党って一種の宗教ですよね」と言ったが(マルクスが「宗教は阿片だ」と言ったことを思うと皮肉だが)、ぼくはむしろ「信念」という言葉を使いたい。

ぼくは唯物論者ではないので、共産党の人たちとは考え方は違うが、彼らが信念を貫いたことを本当に尊敬する。シュタイナーは幼児教育について語る中で、「幼い子どもたちにとって何よりも大事なのは、身近な大人たちの信念である。それは唯物論でも構わない。一つの信念を貫く大人の姿が、子どもたちを支えるのだ」というようなことを述べているが、今回の選挙は、そのような大人たちの信念を浮き彫りにしたと思う。

今回の選挙結果は、多くの人々を絶望させた。「国民はファシズムを選んだ」という言葉も目にしたが、実際にそのように言われても仕方がない状況である。だが、ぼくがぎりぎりの希望を見るのは、枝野氏や立憲民主党の人々が「理念」を掲げて戦っていることである。
今の野党と市民の協力は、何よりも「理念」における共闘なのだと思う。そして、そのような大人たちの姿が、どんな教育政策よりも、子どもたちを内側から支えるのだ。

ぼくは個人的には、共産党は名前を変えなくてもいいと思う。むしろ、彼らの名前、彼らの思想が今回の「大局を見据えた決断」を可能にした。今は、共産党は議席を大幅に減らしたが、それは日本の民主主義という共通の土壌を救うための価値ある犠牲であり、共産党自身が今後の日本においてさらに発言し、社会形成に大きく寄与することにつながると思う。

そして、日本の幼児教育に連なる一人として、ぼくは今回、共産党が貫いた信念は何よりも日本の子どもたちを救ったのだということを書いておきたい。

共謀罪と魂のこよみ

2017-05-19 09:27:45 | 隠された科学
5月19日~25日
強大な世界の光に引きつけられ、
私の自己が逃げ出そうとしている。
だから私の予感よ、
お前の権利を力強く掲げよ。
感覚のまぼろしのなかに
自己を見失おうとする
私の思考の力を補うがいい。
ルドルフ・シュタイナー

先週から、副園長が提案してくれて、シュタイナーの魂のこよみを幼稚園の玄関に置くことにした。
せっかくなので自分で新しく訳しているのだが、今週のこの言葉は、
共謀罪の法案が衆院の法務委員会で強行採決されようとしている今日の雰囲気に見事に合致しているように思えた。

ドイツ語の原文では、Macht(権力)、Kraft(力)、権利(Recht)という言葉が意識的に配置されている。
世界の光とは、感覚に訴える世俗の作用であり、それは権力のように力強く(mächtig)人間の自己を引き寄せる。
人間の自己は、権力に引きつけられると同時に、自分自身から逃げ出そうとする。
すると、人間の自立を支える思考の力も、感覚に映ずる現象だけを現実と思い込み、思考本来の働きを失ってしまう。
そういうときは、内面の仄暗い「予感」の働きだけが頼りだ。

ここでの「権利」(Rechte)という言葉は、日本語としては「本分」とでも表現した方がよいのだろうが、
あえて「予感がその権利を力強く掲げる」という意味合いを強調してみた。

共謀罪については、多くの人が反対する一方で、
国際犯罪の防止には不可欠だという人々もいる。

人々の行動を監視し、情報を収集することは「思考」の領分である。
本来、思考=知性は個人の自立を支える最も重要な心の働きだが、
強大な権力に対して、知性で立ち向かおうとするとき、
実は、知性そのものが権力と親和性を持っていることに気づく必要がある。

人間の心の働きの中で、知性は特権を持ち、
仄暗い感情や衝動を抑え込む傾向がある。

外界の権力に目がくらみ、思考が停止してしまうときは、
「予感」のような感情にも、思考と同等の権利があることを意識すべきなのだ。

人間の自立は、知性だけではなく、
感情や意欲を含む心の働きが一緒になって支えている。

共謀罪に対して、なんとなく嫌な感じがするのであれば、
その感覚を認めることから、
本来の思考が再び働き始めるだろう。

治安維持法の再来と言われる共謀罪の法案が成立してしまえば、
この国はいよいよ戦前への道を突き進むことになるだろう。
秘密保護法のときも、安保関連法のときも、
多くの人が絶望の淵に立たされたのではないか。

この危機を乗り越えることができるとすれば、
人間の知性を本当に働かせること、
そのためには正当にその権利を認められていない、
自分の中の「予感」に耳を傾けることが、実はものすごく重要なのではないかと思っている。





 

ユニクロと子どもの主体性

2017-03-15 11:06:23 | 雑感
連れ合いから教えられて、ネットのある記事を見た。そこで受けた衝撃は近年まれなほど大きく、あえて較べるとすれば、一昨年の大晦日にたまたま入れた「紅白歌合戦」で椎名林檎さんの「NIPPON」を聞いたときの驚きを上回っていた。この歌は、賛否両論いろんな議論を呼んだようだが、ぼく自身は、椎名林檎さんが「自分は職人としてこの曲を書いた」というようなことを言っているのを見て、それなりに納得した。ただ、それでも「いざ出陣、我ら時代の風雲児」とか、「混じり気のない我らの炎」とか、「我ら」という言葉遣いには依然として強い抵抗がある。こういった感性はどこまでも個人のものであって、それが「我ら」で括られた途端に全体主義の罠に陥ると思うからだ。

今回、ぼくが読んだのは、衣料品の製造小売業者ユニクロが打ち出した子どもと家族向けの体験サービス「MY FIRST OUTFIT」に関する記事である。このサービスでは、「子どもが親と離れて服を探し、コーディネートを考えて、試着した姿を親にお披露目する」という。ユニクロではこれを「服育」の取り組みとして提案しているらしいが、ぼくが衝撃を受けたのは、そのプレス説明会に乳幼児教育の研究者として玉川大学の大豆生田啓友さんが登場していたことである。記事のその部分を引用しておく。

…乳幼児教育を研究されている大豆生田教授によれば、「自分で考えて、自分で決めてアクションを起こせることが、これからの子どもにはとても大切」なのだそう。アクティブラーニングの導入推進など教育の変革期にあるいま、子どもが自分の意思でものごとを決める体験をたくさんさせてあげることが、子どもの自信や自己肯定感につながり、ひいては社会を生き抜く力になる、と大豆生田教授は語ってくださいました。

また、最近の乳幼児研究では、子どもには早い段階から「自分で決める力」「自分で育つ力」がそなわっている、つまり「子どもは自立したがっている」ことがわかってきている、とも。子ども自らが成長しようとする力を伸ばしてあげるには、親がなんでも決めたり与えたりせず、ときには見守る姿勢にスイッチすることが必要だと教えていただきました…

先ほどの椎名林檎さんの「我ら」という言葉遣いに対するのと同様の違和感を、ぼくは大豆生田さんの「自分で考えて、自分で決めてアクションを起こせることが、これからの子どもにはとても大切」という言葉に対して抱かずにはいられない。「アクションを起こさせる」という使役動詞は、そこには暗に母親や大人の意思が働いていることを示している。本当の自発性や主体性は、大人の意思や予想を裏切るものではないのだろうか?

子どもが「自立したがっている」のは当然である。子どもの中の「自立への意志」を認めることが、教育や保育の、そして子育ての大前提だろう。けれどその大前提がなし崩しにされつつある現代にあって、大豆生田さんをはじめとする研究者たちがメディアに登場することには大きな意味があると思っていた。今回も、もしかすると彼はあえて企業の戦略の中に飛び込んだのかもしれない。
けれども、ユニクロのこのキャンペーンは、子どもの主体性を欺くものだ。企業が煽るのは消費者の購買意欲であり、それをもって子どもの自立への意志を育てることになるということを、乳幼児教育の研究者が言うことは間違っていると思う。それは科学が企業に加担することでしかない。

ちょうど連れ合いが同じ時に教えてくれたもう一つの記事があり、これはイギリスBBCのニュース番組における「放送事故」の動画である。釜山大学のロバート・ケリー教授が自宅の書斎からオンラインで韓国の大統領弾劾について解説しているところに、幼児と赤ちゃんが立て続けに侵入し、それを母親が慌てて引きずり出そうとする。BBCのサイトではケリー教授夫妻のその後のインタビューが掲載されていて、それも興味深いが、ぼくはこれこそが子どもの「主体性」だと思うのだ。
ユニクロの「はじめてのコーディネート体験」というサービスも、あるいはそもそも私たちが幼稚園や保育園で提供しようとする環境も、結局はケリー教授の整然とした書斎のようなものだ。そこでは大人の都合と考え方に基づいてお膳立てがなされている。子どもの意志はそこから抜け出そうとする。あるいは大人が予想もしないことを持ち込んだりする。

最近の乳幼児保育の流れの中で、「主体的な学び」や「自分で考えて、自分で決める」ということが強調されるとき、ぼくが非常に危惧するのは、でもそのすべてのお膳立てをしているのは大人なのだという事実が見落とされていることだ。
研究者たちは「見落としてなんかいない」というかもしれない。けれども、例えばユニクロの記事で取り上げられた5歳の男の子は、このサービスを体験して青いパーカーとドラえもんのTシャツを選んだという。母親はこのようにコメントする。
「じつは、半年前にもドラえもんのTシャツを欲しがったのですが、そのときは別のキャラのほうがいいんじゃない? と誘導してしまって…。でも、今回またドラえもんを選んだってことは、ずっと欲しかったんだなって」
そして、この記事は「あらためて我が子の意思に触れ、思うところがあったご様子でした」と締めくくるのである。

「ずっと欲しかった」ということが我が子の意思とされている。でも、それは欲望や購買意欲と呼ばれるものだ。
ここでの子どもの意志は、母親についていくこと、言われるままに「体験サービス」に参加し、大人たちが見ているところで服を選んで着るということだ。それはすべて極めて受動的であり、期待に沿った動きでしかない。

それを乳幼児教育の専門家が、企業と一緒になって「子どもの自信や自己肯定感につながり、ひいては社会を生き抜く力になる」と言ってしまうことに、ぼくは激しい危機感を覚えた。
国家も企業もお膳立てをし、人々がその上で期待通りの行動をすることを求める。多くの母親が今回のユニクロの企画に共感し、大豆生田さんのコメントにも納得することだろう。けれど、本当の創造性はそんなところからは生まれない。
子どもの主体性は甘くはない。予想や期待を裏切られることは、大人にとっては痛みである。でもギリギリのところで、新しい何かが生まれるのだ。

今、親たちに伝えることがあるとすれば、大事なのは良い親になったり、素敵なママやパパになることではなく、自分なりに考え抜いた精一杯の「お膳立て」(環境づくり)をして、その結果を引き受ける責任を持つことではないかと思う。そこにおいて、大人たちは何よりもお互いを励まし合うべきだ。企業や国家の提案に乗ることも、それを楽しむことも、支援を受けることもいくらあってもいいと思うけれど、その結果は親が引き受けざるを得ない。企業や国家も、保育園や幼稚園も、大人にできることはお膳立てだけである。そのお膳立てがどのような意図でなされ、どのような作用を持つものなのか、そこに意識を向けることが、研究者の責任ではないか。

こんなことを書くと、ユニクロの企画を素敵だと思ったお母さんたちから、自分がどんどん遠ざかってしまうようにも感じる。それでも、大豆生田さんという人はしっかり考えている人だろうと思っていただけに、どこかにぼくの考えを表現しておきたいと思ったのだ。
ぼくの考える教育の使命は、みんなが戦争に行かなければという雰囲気になったときに、一人でも「行かない」と言える人を育てることだ。

そこにぼくたちの未来がかかっているのだと思う。

アントロポゾフィーを改めて掲げる意味について

2017-03-14 13:33:02 | 雑感
「四大公害病」についての本を読んでいて、原田正純医師の名前が出てきたところで、心が激しく揺さぶられ、アントロポゾフィーのことを思った。ぼくは、2年ほど前に「一時期、アントロポゾフィーから距離を置くこと」を決めた。しかし、それには別の見方も可能なのではないかと思えてきた。

ぼくは、自分がアントロポゾフィーとして認識していることと、多くの人たちが「シュタイナー」や「アントロポゾフィー」の名のもとに行なっていることとの間に乖離を感じている。

具体的に言えば、ぼくにとってのアントロポゾフィーから見れば、STAP細胞の発見は生命の本質に迫るものであり、それがあそこまでの騒動と嘲笑にまで発展した背景には、現代の科学が抱える問題が如実に現れていた。

日本国憲法が成立した事情は、日本民族の運命及びアイデンティティと深く関わっており、憲法9条はまさに日本民族が持つ使命と直結している。つまり、ぼくにとってアントロポゾフィーを真に理解した人は、「護憲派」にしかなりようがない。

原発問題は、一方では「物質の本質」及びシュタイナーの言う「キリスト問題」と深く関連しており、ヒロシマ・ナガサキを経てフクシマにいたる運命の中で、日本人が個人として、また民族として人類の中で見つめるべき課題を示している。そこを考え抜くならば、アントロポゾフィーが原発推進を容認することはありえない。

以上は、これまでブログや講演などで再三語ってきたことではあるが、そこには常に自分の発言が「素朴にアントロポゾフィー/シュタイナーに関心を持つ人々」に迷惑をかけるのではないかという不安があった。
要するに、ぼくの考えるアントロポゾフィーは政治的であり、今日の科学のありように対しても批判的な発言を行うものなのだ。
その一方で、シュタイナー幼稚園やシュタイナー学校、あるいはバイオダイナミック農業やアントロポゾフィー医学、その他の領域でアントロポゾフィーに熱心に取り組んでいる人たちがいる。彼らにとって社会から認知されることは重要なことであり、それはぼくも共感し、理解しているところだ。そこにぼくが政治的な発言を行えば、彼らの活動の迷惑になるのではないかという思いがあった。
彼らにしてみれば、自分たちが求めているのは純粋に良い教育や医療であり、政治問題に関与するつもりがないということもあるだろう。そこにぼくがアントロポゾフィーに関わる一人として、政権批判などをすれば、せっかく積み上げてきたものが覆されるかもしれない。それをぼく自身が恐れていたのである。

けれど、そこに蓋をして、あるいはほのめかすような言い方に留めてアントロポゾフィーを語ることは、ぼくにとっては自分が理解したアントロポゾフィーへの不義を意味する。中途半端にシュタイナーやアントロポゾフィーを掲げながら、本当の問題を指摘しないならば、それはアントロポゾフィーを利用することでしかないと思った。自分のあり方がアントロポゾフィーを弱めているように思えてならなかったし、そのことが自分自身をも弱めているように感じていた。だから、アントロポゾフィーから距離をおき、あくまでも一人の個人として発言したり仕事をしたりすることで、自分自身のあり方にも、アントロポゾフィーとの関わりにも、新しい展開が望めるのではないかと思った。

けれど、先ほど、このように思ったのだ。ぼくの考え方、感じ方はむしろアントロポゾフィーを狭めていたのではないか。アントロポゾフィーを科学そのもののように広く深いものとして捉えるならば、そこにいろいろな考え方があってよいし、個々人が自分の考えるアントロポゾフィーを主張し、そこで議論が起こってもよいはずだ。

例えば、科学の世界にもいわゆる「御用学者」がいる。
客観的とされる研究者や医師たちが、例えば水俣病や原発事故の際に、国家や企業の側に立ち、本来の科学性を否定するような発言や行為をすることがある。彼らは科学の名のもとに偏向した発表をし、それに対して被害者の側に立つ医師や研究者もまた、科学の名のもとに真実を明らかにしようとする。御用学者がいるからと言って、真実を求める科学者が「科学」を離れることはないだろう。むしろ、「これこそが科学だ」という論争を挑むはずである。だとすれば、ぼく自身もまた自分が真実と思うアントロポゾフィーを、アントロポゾフィーという名のもとに語ってよいのではないか、むしろ語るべきなのではないかと思った。それは、他の人々が彼らのアントロポゾフィーを語ることを妨げることにはならないだろう。

ぼくが思うのは、シュタイナーの「アントロポゾフィーは《閉じた心》を許容することはできません」という言葉である。
アントロポゾフィーはひたすら開かれた人間の知性であるけれども、それが許容できないものもあるのだ。それが「閉じた心」である。したがって、他の民族を否定したり、他者を踏みにじるような政策、あるいは偏った科学、すなわち真実に心を閉ざすような態度を許容できるはずもない。
シュタイナーは、「本来なら、アントロポゾフィーという名称でさえ、毎週のように変えたいくらいだ」と言っていた。
だから、ぼくも自分の立場を「おんなこどもの知性」と呼んで、アントロポゾフィーという呼称から離れてよいのではないかと思った。けれど、シュタイナーが「アントロポゾフィー」という名前を使い続けた理由があったはずだ。
彼自身は「名前を始終変えたりすれば混乱するから」と言ったのだが、今、ぼくが思うのは、同じ名前を一貫して使い続けることで、一つの思想の「責任」と「進化」が可能になるということだ。

アントロポゾフィーを名乗ることは、自分だけが正しいとか、絶対に間違えないということではない。個人であれば、自分が過去に行った行為に対して、それが間違いあったと気づいた時点で謝罪したり訂正したりして、認識を改め、先へ進むことができる。アントロポゾフィーの名のもとに発言したり、行為したりすることは、アントロポゾフィーに思いを向ける人々と運命を共有することを意味する。そのことをぼくはずっと自覚してきたつもりである。けれど、逆に、ぼくの発言や行為が、そのつもりのない人々を巻き込むことをぼくは恐れた。

やはり、恐れだったのだと思う。ぼくが乗り越えるべきはこの恐れなのだ。
ぼくはいま、自分の認識を次のように整理しておきたい。

・アントロポゾフィーとは、一人ひとりの「個」を基盤に、多様な人々が性、文化、人種、生育環境、思想的芸術的傾向など、あらゆる違いを突き抜けて対話を試みることで、徐々に形成されていく人類共通の知性の、暫定的な一つの名前である。
・その対話は、一人ひとりが自分の思考、感情、意志に対して責任を持ち、他者の思考、感情、意志を尊重する中で可能になり、その過程での相互の承認、謝罪と間違いの訂正、和解、絶えざる認識への努力によって、アントロポゾフィーは人類の知性として進化していくことができる。
・すべての個人は、生まれながらにして人類の知性の形成者の一人であり、そのことを自覚した人は自分で自分自身を「アントロポゾフィーの担い手」(アントロポゾーフ/アントロポゾフィスト/人智学徒など)と呼ぶことができる。

この意味において、ぼくはふたたび自分自身をアントロポゾフィーの担い手の一人と見なしたいと思う。

アントロポゾフィーへの手紙

2015-11-10 14:10:58 | アントロポゾフィー
アントロポゾフィーへの手紙

シュタイナーからの旅立ちとか、アントロポゾフィーから距離をおくなどと言いながら、ぼくはずっと後ろめたさを感じていました。アントロポゾフィーには救いはないとか、答えはないなどという自分があまりにも傲慢で、かえって卑小にも思えました。ここまで来てそういう言い方をすることが卑怯にも感じられました。でも、自分にはそうするしかないことが直感的ですが、確信のようにしてあったのです。

今、ようやく自分の本心を言葉にできるような気がします。

ぼくにとって、あなたはひとりの女性なのだと思います。シュタイナーは、アントロポゾフィーは生きた本質であると言ったり、私たちの間を歩き回る青白い人間として思い描きなさいと言ったりしましたが、今、ぼくは改めてあなたは女性なのだと思います。もちろん、ぼくにとって、ではありますが。

ぼくはあなたに抱かれるようにして生まれ、あなたがいたからここまで生きてくることができました。空気のように、当たり前のことのように存在していたあなたを初めて「思想」として意識したときは、反発して離れたり、侮蔑したり、拒絶したりしましたが、その都度、心の内側から愛情のようなものが湧き起こってきて、あなたのもとに帰っていきました。ぼくは、シュタイナーという人の言葉を通してあなたを知り、よりよく理解しようと努めるようになりました。そして、あなたを知れば知るほど、シュタイナーという人を介してではなく、自分自身であなたと出会いたいと思うようになりました。そして、たぶん、一度だけ、ぼくはあなたを見かけました。

それは夢のなかのことでしたが、朝方、遠い海の彼方に、あなたがいくつもの色の光となって輝いているのが見えました。とても懐かしく、ぼくはそこを目指して生きるのだと思いました。

次第に、ぼくはあなたを「おんなこどもの知性」という名前で呼ぶようになりました。それがアントロポゾフィーという片仮名よりも、また人智学というどこか高邁な漢字よりも、ぼくが見かけたあなたの姿に近いと思ったからです。それでも、片方で、ぼくはあなたをアントロポゾフィーと呼び続け、シュタイナー思想を紹介したり解説したりする仕事を続けてきました。それが自分に求められていることだと思っていたのですが、あるとき、自分はあなたを利用していることに気づいたのです。あなたが「生きた本質」であるなら、ぼくはあなたの生命力を奪っている。あなたの生命力で、自分の中途半端な生き方を存続させていると自覚しました。

これからあなたと出会う人、今、あなたを知りつつある人、本当にあなたを必要とする人たちはまだ大勢います。あなたの限りある生命力はその人たちのために使われるべきです。ぼくが、今、あなたから離れるのは、けっしてあなたを否定するためではありません。子どもがいずれ親元を離れ、いつかふたたび人間同士として再会することを期待するように、あるいは配偶者を利用していただけの男が離婚を受け入れ、いつか対等な友人として再会できることに希望をつなぐように、ぼくはあなたとふたたび出会うこと、新しい出会いを目指して、いったん離れようと思うのです。今のぼくは、あなたの力を奪うことはできても、あなたに力を注ぐことはできない。今もあなたに依存しているからです。

そして、2年かかるか3年かかるか、あるいはもっとかわからないけれど、きっとふたたびあなたのもとに戻りたいと思います。そのとき、あなたのことをどういう名前で呼ぶかはわかりません。けれど、自分があなたの力になれると感じたとき、もう一度戻ってきます。

そのような思いをもって、今の自分が代表を務める協会の任期が終了する来年6月まで、いわば離婚の準備期間か、あるいは旅行の準備か、そのための時間を与えられたと考えて、今の自分にできることを精一杯やろうと思います。そのときまで、そしてそれから先も、ぼくは「おんなこどもの知性」と名づけたあなたへの思いを胸に抱いて生きていきます。

もう一つ、心に決めていることがあります。それは、もしあなたが、そしてあなたのアントロポゾフィーという名前、あるいはシュタイナーという名前に連なる動きが社会から批判されたり、非難されたりしたとき、ぼくは「自分には関係ない」という態度はとらない、ということです。それは、来年6月までも、それから先も変わりません。ぼくが書いたこと、語ったことを通してシュタイナーと出会い、あなたを知った人もいることでしょう。今の世界で、アントロポゾフィーとして知られていることに対しては、ぼくも責任を共有しています。だから、必要があれば、出ていきます。けれど、ぼくのほうから、あなたの名前を使って、自分の利益につながる活動はしないということです。少なくとも来年6月を過ぎたら、そして自分があなたの名前を出すことで、本当にあなたの力になれると感じられるその日までは。

以上は、ぼくが内面においてあなたに語りかけたことです。これを自分の風韻坊ブログの最後の記事にすることで、ぼくとあなたとの関係に関心を寄せてくれている一握りの人たちにも共有してもらおうと考えています。

最後に。ぼくは『隠された科学』というテーマで全19回のストーリーを週に一回語ることを始めました。これも直感的に始めたもので、最初は漠然と「巡礼」のようなものだと思っていました。でも、それは実はあなたとの別れの儀式なのだと気づきました。あなたとの本当の出会いを求めての別れの儀式です。次の3回目からは、その意識をもって一回一回に臨みたいと思います。









新しい神の名は、子ども時代

2015-09-14 11:08:29 | 十字架に眠る幼子
今、人間には、宗教や文化、思想の違いを超えて一致できる、
共通の価値観が必要なのだ、と思う。
新しい民主主義の基盤が必要なのだ。

自由と民主主義を掲げるアメリカ合衆国の原点、
1776年の「独立宣言」には、
「創造主が万人に自由と幸福追求の権利を与えた」とある。
創造主とは、神のことだ。
だったら、神を持たない人々、
無神論者や、万物の中に無数の神を見ているアニミズムの人たちには、民主主義の根拠がないことになる。

私たちには新しい「独立宣言」が必要だ。
一神教の神からの独立、
そして、一神教を信ずる支配者たちからの独立を宣言しよう。
神を否定しようというのではない。
私たちが成長し、親元を離れて独立するように、
神に対しても、
私たち自身が親であり、大人であり、
責任を持つべき子どもたちがいることを宣言するのだ。

古い民主主義の根拠が「神への信仰」であったとすれば、
新しい民主主義の基盤は、
私たち一人ひとりが、
子どもたちに対して持つ責任感だ。

人権は、神から私たちに与えられるのではなく、
私たちが子どもたちに認めるものだ。
子どもたちが等しく愛され、
一人ひとりの個性が尊ばれ、
幸せに、健康に生きて欲しい、
と私たちが願うから、
子どもたちには人権がある。

そして、私たちはみなかつて子どもだった。
だから、私たちには人権がある。

私たちがみな「子ども時代」を通って大人になる。
そこに新しい民主主義の基盤がある。

子どもたちは子ども時代を生きている。
そして、大人たちは子どもたちの「子ども時代」を守る責任がある。
その事実に、人種、民族、文化の違いはない。
これは頭で考え出した理屈ではなく、
人間の身体に根ざした衝動なのだ。

地球上、どこへ行っても、
大人たちは子どもたちの健やかな成長を願い、
新しい世代が古い世代を乗り越えていくことを喜んでいる。
それは人類進化の根本衝動に違いない。

新しい民主主義は、一人ひとりの内的な決意から始まる。
宗教や思想、民族や文化にはかかわりなく、
自分のなかの「子どもへの責任感」を、
「神への信仰」に代わる新しい民主主義の基盤に据えること。
自分はいかなる運命に対しても大人であり、
この自分こそが、子どもの人権を、そしてすべての人の人権を認める主体なのだと覚悟を決めること。

そこに多様な人間が共有する、
新しい価値観の発生を見届けたい。















子ども時代ふたたび~安保法制と幼児教育~

2015-08-25 07:43:19 | 十字架に眠る幼子
たぶんこの夏ほど、地上が死者たちで混み合った時はなかった。
外を歩くと、空気がひどく濃いのだ、
ひしめく彼らがいて、
私はその重たい感情に押しつぶされる。

私は粘液のような空気のなかで手を動かし、
彼らの居場所を確かめる、
彼らの声を聞こうとする。

わかっていたはずだ。
アルブレヒトもこの声を聞いたのだ。
聞いて問いかけたのだ、
あの暗くて冷たい独房のなかで。
ただひとりの神と、
無数の私に向かって。

なぜこの地上では、
起こるべきではないことが起こり続けるのか。
なぜ不条理が条理を踏み潰すのか。
神よ、あなたはどこにいるのか。

私はここにいる、と言いたい。
でも、その私は神と呼ぶにはあまりにも情けない。
できれば、神はこんな私であってほしくない。

この世には無数の神がいる。
人の数だけ神がいる。
死んでしまえば神になる。
この世では、死者に発言権がないように、
あの世の神はこの世では無力だ。

神が無力だから、
道理が引っ込み、無理が押し通される。
今回の原発再稼働のように、
安倍政権のあからさまな横暴のように。

今、必要なのは、
この世の神に力を与えることだ、
死者たちの声をこの世で聞き届けることだ。

そうすれば見えてくるだろう、
子どもたちがそれでも生まれてくる理由が。
どれほど世界が悲惨でも、子どもたちはやってくる。
私はずっと知りたかった。
なぜ彼らはあきらめないのか、
彼らは何を地球に見てやってくるのか。

そして、私は胸を打たれる、
ずっとわかっていたことに驚愕する。
子どもとは死者のことだ。
かつて死んでこの世を去った人が、
ふたたび子どもとなって生まれてくる。

子どもたちが生まれてくるのは、
私たちがあきらめていないからだ、
この地球は素晴らしい場所だと、
この自分は決して捨てたものじゃないと思っているからだ。

死者たちは、
子どもたちのなかに生きている。
私もかつては子どもだった。
誰もがみな子どもだった。

死者と語らうことは、自分のなかの子どもに向き合うことだ。
この世の神に力を与えることは、
この世の子ども時代に最大限の重きをおくことだ。

子どもとは、
人間の人間に対する希望なのだ。
子どもたちはその希望を今生きている。

多くの人が子どもを愛するのは、
子どものなかに証を見るからだろう、
私たちはまだ人間を信じていい、
私はまだ自分を信じていい、という証を。

*******************************************

ぼくは今、自分がかかわる幼児教育という仕事を新しく捉え直したい。
幼児教育とは、死者の声を聞くことだ。
子どもたちの意志は、
かつてこの世を去った死者たちが地球の未来に託す願いだ。
私たちが教えるのではない。
子どもたちとの触れ合いのなかで、私たちが学ぶのだ。
人間とは何か、
人間にふさわしい生活とはどのようなものか、
私たちは何を目指して生きるのか。

だから、幼児教育は、幼児を教育することではない。
「教育とはすべて自己教育だ」とシュタイナーは言ったが、
だとすれば、幼児教育者とは、
幼い子どもたちとのかかわりのなかで自己教育に努める人のことだ。
そして、そういう大人たちとの生活のなかで、
子どもたちはそれぞれの自己教育を行うだろう。
それがきっとシュタイナーのいう「内的運命に即した自己教育」ということだろう。

そして、今、国会で議論されている「安全保障」は、
ほんとうは子育てや保育の問題だ。
「国民の生命と平和な暮らしを守る」というのなら、
第一に守られるべきは子どもたちだろう。

「保育」という語には、
「養護」と「教育」という意味が含まれるという。
子どもたちを養い、保護し、育てていく。
その生活環境の大前提を法的に保障する、安保法制。

でも、思うのだ。
すべての根底に安全、安心ということがある。
英語でいえば、セキュア、セキュリティ。
(安全保障も英語ではセキュリティという。)

保育者たちも、子どもたちの安全と安心のために努力する。

ところが、今の安保議論はすべて不安から発している。
「積極的平和主義」というけれど、
その本質は、きわめて消極的、否定的だ。
他国から攻められたらどうするか、
米国の協力なしに、自国を守れるのか、
米国の戦争に協力していかなければ見捨てられるのではないか,,,

今の日本は、自国のことも、隣国のことも信じられない。
ただ、昔、自分を開国させ、ひどい目にあわせた米国に依存するしかない。
アメリカと日本の関係を、男と女にたとえる人もいるが、
ぼくは、それ以上に「親子の関係」に似ていると思う。

本来の安全保障とは、
人々が安心して暮らせる基盤をつくることだろう。
あたりまえのことだが、
他の国々との信頼関係の構築こそが、一番の安全保障になる。

そのために必要なのは、日本が自立することだ。
虐待し、搾取する親を切り捨てることだ。
そうしなければ米国も、日本も、本当には自由にはならない。

米国は武器や力への依存から脱却し、
日本は米国による精神的支配から脱却しなければならない。

そのとき、「子ども時代」が新しい価値観になるのではないか。
米国も、欧州の国々も、イスラムの国々も、イスラエルも一神教が背景にある。

一神教と多神教、
そして日本のようにアニミズムを精神的背景にもつ国々は、
どのようにお互いに理解し合い、信頼し合うことができるのか?

ぼくは、憲法問題の根底にも、この「神の問題」があると思う。
先の文章でも書いたように、
欧米では「基本的人権」を最終的に与えるのは「創造主」である。
一神教の神なのだ。
そういった国々と、アジアの国々が共有できる価値観があるとすれば、
それは「子ども時代」なのではないか。

どんな文化の人でも、子どもたちを見れば、そこに「人間の希望」を見るだろう。
子どもが、子どもらしく、安全に、安心して暮らせること、
幸せな子ども時代を過ごすことに、人間にとってもっとも大切な価値を見るだろう。

そこから、子どもが子ども時代を過ごすのにふさわしい環境、社会のあり方、
さらには国際社会のあり方を考えていく。

それは「唯一絶対の神」に代わる、新しい価値観になるのではないか。

私たちは、だれもがかつては子どもだった。
だから、子ども時代はすべての人の精神的財産であり、生きる力の源泉である。
その価値は、宗教の違い、思想や文化の違いにかかわりなく、
すべての人に共有されるうるのではないか。

アメリカでは、大統領が神に祈りを捧げてから他国を侵略したりするが、
それも神への依存だし、不自由な態度だ。
これからの人間には、自分の行動を正当化するための神ではなく、
自分が自分を肯定し、自己決定するための価値観が必要だろう。

今、必要なのは、神に祈ることではなく、
自分自身が「大人になる」ことだ。
子ども時代の大切さを意識したとき、
私たちは自分が子どもに還るのではなく、
今、目の前にいる子どもたちを守る大人になる。

以前、「謝罪」について書いたが、
アメリカがもっとも謝罪すべきは、子どもたちに対してだと思う。
広島や長崎への原爆投下は、大人がやることじゃない。
武器開発も、原発推進も、対米追従も、自立した人間のすることではない。

いい大人なのに、研究に夢中になり、その責任を取りきれなかった科学者たち、
不安にかられ、自尊心や人種差別や辻褄合わせから行動した政治家たちは、
まずは子どもたちに謝るべきだ。
そして、かつて子どもとして大切な人生を始めたすべての人々に。

やっぱり問題は「神」にあると思うのだ。
ニーチェが「神は死んだ」といったその神は、いまもゾンビのように生きている。
国家、企業、共同体、家族、ありとあらゆる集団は、
個人を呑み込むかぎりにおいて「神モドキ」となる。
そこでは人間は、自分の名前ではなく、国家や企業の名のもとに行動する。
自分が決めたことだからではなく、
何かのため、誰かのためという理由で。
そのとき、人は責任の一端を「神」に委ねる。
その最たるものが戦争や死刑であって、
そこでは人はもはや個人の人格をもっていない。
国家の名のもとに人を殺すのだ。

謝罪は、相手のために行うものではなく、
自分自身が「変わりたい」という意志をもつこと、
そして、その意志をもつきっかけを与えてくれた相手にそれを伝えることだ。
謝罪とは、実は自立への意志なのだと思う。
それまで捉われていた状態を認識し、そこから脱却すること、
そのために日本もアメリカも、自分が虐げた相手に謝罪すべきだ。
本当の意味で独立するために。

真の謝罪は、大人が子どもに、
男性が女性に(あるいは男性性が女性性に)対してなされるのではないか。
それは一方が悪かったからお詫びをするというだけではなく、
真の自由を求める側が示す「認識の行為」であり、
その機会を与えてもらったことに対する深い感謝でもあると思う。

そのとき、たとえば未来の国際社会では、
神=創造主を根拠とするのではなく、
子ども時代に対する私たちの「認識」を根拠として、
子どもたちに生存、自由、幸福追求の権利を保証することができるだろう。
そして、子どもたちが安心して過ごすためには、
大人自身が安心して、自由に、幸せに生きている必要がある。

それがぼくのなかの「おんなこどもの知性」が行きついた、
「子ども時代」の価値観だ。

以上の考えを、
現在の不安きわまりない日本の状況のなかで、
自分自身の心に刻みたいと思う。