風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

“原発再稼働”に抗する意志

2015-08-10 01:59:51 | 隠された科学
鹿児島の川内原発が明日にも再稼働される見通しだ。
8月10日に制御棒の検査が行われ、翌日には運転を再開するという。
住民の避難対策の不備をはじめ、さまざまな問題が指摘されてきた。
9日には原発のある川内市の久見崎海岸で2000人規模の反対集会が開かれ、
毎日新聞などの世論調査でも、「反対」が「賛成」を上回ったというが、
それでも県と九州電力、そして政府の姿勢は変わらない。

私が問題にしたいのは、彼らの「意志」だ。
なぜそこまでして原発を推進したいのか?
もちろん、「経済優先」の発想だからと言われるかもしれない。
けれど、原発が本当は「経済的」ではないことは明らかにされている。
本来の経済ではなく、一部の人々の「利権」なのかもしれない。
けれど、いわゆる「原発村」の人々にも思考力があるだろう。
未来の子どもたちにどれほどの負の遺産を残すことになるかは、彼らだってわかっている。

今の安保法制への動きも、沖縄の米軍基地も、原発推進も、すべて一つにつながっている。
素朴な感覚でいえば、彼らは日本を滅ぼしたいのだとしか思えない。
けれど、そこに働く「意志」とは何なのか?
日本を属国にしておきたい米国の意志だろうか?
だとすれば、その意志は何を目指しているのか?

私は、そこには破壊衝動があると思う。
それも、「個人の意志」に対する破壊衝動である。
この世界には、一人ひとりの個人が自分で意思決定をし、
尊厳をもって生きることが我慢ならないと感じる勢力があるのだ。

そして、その勢力にとって、
たとえば日本政府が、本当に国民一人ひとりの生活のことを考え、
日本独自の政策を打ち出したりすることは、到底認められないだろう。

この勢力は、私たちのなかにも「衝動」として働いている。
子どもが反抗したり、
弱い立場の人が誇りをもって自己主張したりするとき、
それをまっすぐに受け止められず、苛立つのは、この衝動のゆえである。
この衝動が働くのは、自分がより強い立場にいるときだ。
生活に困窮している人、難民と呼ばれる人たち、
弱者の立場にある人たちが立ち上がろうとするとき、
自分の立場が脅かされたように感じ、怒りや苛立ちをもって反応する。
それは「権力」の作用である。

私が言いたいのは、
この「権力」は一種、霊的な作用である、ということだ。
そして、さらに注意を促したいのは、
この権力という霊的作用が攻撃するのは、
一人ひとりの個人の自立や自発性だということだ。

戦争への流れも、米軍基地や原発の問題も、
そこに共通しているのは、お金という力で現地の人々の意志を縛るという構造である。
あるいは、力で相手を圧倒したり、さらには生命を奪ったりする。
それでいて、責任者が不明なのだ。
戦争では(死刑でも)、殺す側も、殺される側も、個人性を奪われている。
戦争で人を殺しても罪に問われないのは、そのためだ。

自民党の憲法草案では、
13条の「すべて国民は、個人として尊重される」という文言を、
わざわざ「人として尊重される」として、
「個」という一語を外している。
そこに見られる「個」に対する拒絶感は、今の政府の動きの本質を示している。

私は、今の政治的・社会的な流れに抗するには、どうしても「霊的」な観点が必要だと思う。
核エネルギーの「霊的」本質とは何だろうか?
それは「原子核」の破壊である。
原子とは英語でアトムというが、「分割できない」という意味である。
個人を英語でインディヴィジュアルというが、これも「分割できない」という意味である。

20世紀になって、原子はもはや物質の最小単位ではなく、
電子やクオークからできていることがわかってきた。
分割不可能なはずの原子が、電子と原子核に、
さらにその原子核を構成する陽子と中性子、
さらにその陽子と中性子がクオークへと「分割」されていったのだ。

それは物理学の発展過程の出来事だが、
その過程で「原子爆弾」が、そして原子力発電所がつくられたことを忘れてはならない。
物質のもとであったはずの原子が分割され、
原子核が破壊されて、解き放たれた膨大なエネルギーが、
爆弾として人々を殺傷し、
放射線として私たちの生体を蝕むことになった。

分割不可能な原子の破壊によって、
分割不可能な個人が攻撃されている。
そこに私のいう「霊的」な意味がある。

シュタイナーは、
放射線とは「物質が霊化」されたものだと言ったが、
およそすべてのエネルギーは霊的である。
私たちの活動はすべてエネルギーによって可能になる。
私たちの存在そのものがエネルギーである。

さて、原子と個人(アトムとインディヴィジュアル)の違いは、
原子は物質の単位として、すでに生成されたものであり、
個人は一人ひとりの人生を通じて、未来に向かって生成されていくものだということだ。

私たちの個人もまた、無数の要素によって構成されている。
つまり遺伝子をはじめ、さまざまな環境要因がそこには働いている。
けれども、それらをつなぎ合わせて、私たちは個人を出現させていく。
それが「生命」ということだ。

原子力が危険だということは確かだ。
けれど、脱原発や核廃絶への動き、
そして脱戦争への動きは、一人ひとりの個人の生成によって裏打ちされなければならない。
なぜなら、原子力推進派が攻撃しようとしているもの、
あるいは米軍基地に固執し、戦争への道を着々とつけている人々が破壊しようとしているもの、
それは一人ひとりの個人の意志だからだ。

戦争でいちばん傷つくのはいつも女性や子どもたちだと言われる。
その人たちはみな個人なのだ。

私たちのなかにある「原発再稼働」に抗する意志、
安保法制や沖縄の米軍基地に抗する意志は、個人の意志である。

私たちは、なによりも自分が自分であるために、
この一連の時代の流れに対抗しようとしている。
そして、そこに唯一の被爆国としての日本の本来の使命があると思う。

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