風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

子ども時代ふたたび~安保法制と幼児教育~

2015-08-25 07:43:19 | 十字架に眠る幼子
たぶんこの夏ほど、地上が死者たちで混み合った時はなかった。
外を歩くと、空気がひどく濃いのだ、
ひしめく彼らがいて、
私はその重たい感情に押しつぶされる。

私は粘液のような空気のなかで手を動かし、
彼らの居場所を確かめる、
彼らの声を聞こうとする。

わかっていたはずだ。
アルブレヒトもこの声を聞いたのだ。
聞いて問いかけたのだ、
あの暗くて冷たい独房のなかで。
ただひとりの神と、
無数の私に向かって。

なぜこの地上では、
起こるべきではないことが起こり続けるのか。
なぜ不条理が条理を踏み潰すのか。
神よ、あなたはどこにいるのか。

私はここにいる、と言いたい。
でも、その私は神と呼ぶにはあまりにも情けない。
できれば、神はこんな私であってほしくない。

この世には無数の神がいる。
人の数だけ神がいる。
死んでしまえば神になる。
この世では、死者に発言権がないように、
あの世の神はこの世では無力だ。

神が無力だから、
道理が引っ込み、無理が押し通される。
今回の原発再稼働のように、
安倍政権のあからさまな横暴のように。

今、必要なのは、
この世の神に力を与えることだ、
死者たちの声をこの世で聞き届けることだ。

そうすれば見えてくるだろう、
子どもたちがそれでも生まれてくる理由が。
どれほど世界が悲惨でも、子どもたちはやってくる。
私はずっと知りたかった。
なぜ彼らはあきらめないのか、
彼らは何を地球に見てやってくるのか。

そして、私は胸を打たれる、
ずっとわかっていたことに驚愕する。
子どもとは死者のことだ。
かつて死んでこの世を去った人が、
ふたたび子どもとなって生まれてくる。

子どもたちが生まれてくるのは、
私たちがあきらめていないからだ、
この地球は素晴らしい場所だと、
この自分は決して捨てたものじゃないと思っているからだ。

死者たちは、
子どもたちのなかに生きている。
私もかつては子どもだった。
誰もがみな子どもだった。

死者と語らうことは、自分のなかの子どもに向き合うことだ。
この世の神に力を与えることは、
この世の子ども時代に最大限の重きをおくことだ。

子どもとは、
人間の人間に対する希望なのだ。
子どもたちはその希望を今生きている。

多くの人が子どもを愛するのは、
子どものなかに証を見るからだろう、
私たちはまだ人間を信じていい、
私はまだ自分を信じていい、という証を。

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ぼくは今、自分がかかわる幼児教育という仕事を新しく捉え直したい。
幼児教育とは、死者の声を聞くことだ。
子どもたちの意志は、
かつてこの世を去った死者たちが地球の未来に託す願いだ。
私たちが教えるのではない。
子どもたちとの触れ合いのなかで、私たちが学ぶのだ。
人間とは何か、
人間にふさわしい生活とはどのようなものか、
私たちは何を目指して生きるのか。

だから、幼児教育は、幼児を教育することではない。
「教育とはすべて自己教育だ」とシュタイナーは言ったが、
だとすれば、幼児教育者とは、
幼い子どもたちとのかかわりのなかで自己教育に努める人のことだ。
そして、そういう大人たちとの生活のなかで、
子どもたちはそれぞれの自己教育を行うだろう。
それがきっとシュタイナーのいう「内的運命に即した自己教育」ということだろう。

そして、今、国会で議論されている「安全保障」は、
ほんとうは子育てや保育の問題だ。
「国民の生命と平和な暮らしを守る」というのなら、
第一に守られるべきは子どもたちだろう。

「保育」という語には、
「養護」と「教育」という意味が含まれるという。
子どもたちを養い、保護し、育てていく。
その生活環境の大前提を法的に保障する、安保法制。

でも、思うのだ。
すべての根底に安全、安心ということがある。
英語でいえば、セキュア、セキュリティ。
(安全保障も英語ではセキュリティという。)

保育者たちも、子どもたちの安全と安心のために努力する。

ところが、今の安保議論はすべて不安から発している。
「積極的平和主義」というけれど、
その本質は、きわめて消極的、否定的だ。
他国から攻められたらどうするか、
米国の協力なしに、自国を守れるのか、
米国の戦争に協力していかなければ見捨てられるのではないか,,,

今の日本は、自国のことも、隣国のことも信じられない。
ただ、昔、自分を開国させ、ひどい目にあわせた米国に依存するしかない。
アメリカと日本の関係を、男と女にたとえる人もいるが、
ぼくは、それ以上に「親子の関係」に似ていると思う。

本来の安全保障とは、
人々が安心して暮らせる基盤をつくることだろう。
あたりまえのことだが、
他の国々との信頼関係の構築こそが、一番の安全保障になる。

そのために必要なのは、日本が自立することだ。
虐待し、搾取する親を切り捨てることだ。
そうしなければ米国も、日本も、本当には自由にはならない。

米国は武器や力への依存から脱却し、
日本は米国による精神的支配から脱却しなければならない。

そのとき、「子ども時代」が新しい価値観になるのではないか。
米国も、欧州の国々も、イスラムの国々も、イスラエルも一神教が背景にある。

一神教と多神教、
そして日本のようにアニミズムを精神的背景にもつ国々は、
どのようにお互いに理解し合い、信頼し合うことができるのか?

ぼくは、憲法問題の根底にも、この「神の問題」があると思う。
先の文章でも書いたように、
欧米では「基本的人権」を最終的に与えるのは「創造主」である。
一神教の神なのだ。
そういった国々と、アジアの国々が共有できる価値観があるとすれば、
それは「子ども時代」なのではないか。

どんな文化の人でも、子どもたちを見れば、そこに「人間の希望」を見るだろう。
子どもが、子どもらしく、安全に、安心して暮らせること、
幸せな子ども時代を過ごすことに、人間にとってもっとも大切な価値を見るだろう。

そこから、子どもが子ども時代を過ごすのにふさわしい環境、社会のあり方、
さらには国際社会のあり方を考えていく。

それは「唯一絶対の神」に代わる、新しい価値観になるのではないか。

私たちは、だれもがかつては子どもだった。
だから、子ども時代はすべての人の精神的財産であり、生きる力の源泉である。
その価値は、宗教の違い、思想や文化の違いにかかわりなく、
すべての人に共有されるうるのではないか。

アメリカでは、大統領が神に祈りを捧げてから他国を侵略したりするが、
それも神への依存だし、不自由な態度だ。
これからの人間には、自分の行動を正当化するための神ではなく、
自分が自分を肯定し、自己決定するための価値観が必要だろう。

今、必要なのは、神に祈ることではなく、
自分自身が「大人になる」ことだ。
子ども時代の大切さを意識したとき、
私たちは自分が子どもに還るのではなく、
今、目の前にいる子どもたちを守る大人になる。

以前、「謝罪」について書いたが、
アメリカがもっとも謝罪すべきは、子どもたちに対してだと思う。
広島や長崎への原爆投下は、大人がやることじゃない。
武器開発も、原発推進も、対米追従も、自立した人間のすることではない。

いい大人なのに、研究に夢中になり、その責任を取りきれなかった科学者たち、
不安にかられ、自尊心や人種差別や辻褄合わせから行動した政治家たちは、
まずは子どもたちに謝るべきだ。
そして、かつて子どもとして大切な人生を始めたすべての人々に。

やっぱり問題は「神」にあると思うのだ。
ニーチェが「神は死んだ」といったその神は、いまもゾンビのように生きている。
国家、企業、共同体、家族、ありとあらゆる集団は、
個人を呑み込むかぎりにおいて「神モドキ」となる。
そこでは人間は、自分の名前ではなく、国家や企業の名のもとに行動する。
自分が決めたことだからではなく、
何かのため、誰かのためという理由で。
そのとき、人は責任の一端を「神」に委ねる。
その最たるものが戦争や死刑であって、
そこでは人はもはや個人の人格をもっていない。
国家の名のもとに人を殺すのだ。

謝罪は、相手のために行うものではなく、
自分自身が「変わりたい」という意志をもつこと、
そして、その意志をもつきっかけを与えてくれた相手にそれを伝えることだ。
謝罪とは、実は自立への意志なのだと思う。
それまで捉われていた状態を認識し、そこから脱却すること、
そのために日本もアメリカも、自分が虐げた相手に謝罪すべきだ。
本当の意味で独立するために。

真の謝罪は、大人が子どもに、
男性が女性に(あるいは男性性が女性性に)対してなされるのではないか。
それは一方が悪かったからお詫びをするというだけではなく、
真の自由を求める側が示す「認識の行為」であり、
その機会を与えてもらったことに対する深い感謝でもあると思う。

そのとき、たとえば未来の国際社会では、
神=創造主を根拠とするのではなく、
子ども時代に対する私たちの「認識」を根拠として、
子どもたちに生存、自由、幸福追求の権利を保証することができるだろう。
そして、子どもたちが安心して過ごすためには、
大人自身が安心して、自由に、幸せに生きている必要がある。

それがぼくのなかの「おんなこどもの知性」が行きついた、
「子ども時代」の価値観だ。

以上の考えを、
現在の不安きわまりない日本の状況のなかで、
自分自身の心に刻みたいと思う。

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