風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

アントロポゾフィー指導原理 (56)

2008-11-05 23:51:02 | アントロポゾフィー指導原理
56.
死から新たな誕生までの間に、人間のカルマの総体が形成される期間がある。この期間について記述するためには、霊性研究の結果を踏まえなければならない。ただし、つねに意識にとどめておく必要があるのは、その記述は理性にとって納得できるということである。理性は、感覚によって捉えられる「現実」をあるがままに考察するだけでよい。そうすれば、その「現実」が霊性を指し示していることに理性は気づくであろう。それは死体の形態が、そこに宿る生命を指し示しているのと同じことである。(訳・入間カイ)

56. Die Daseinsepoche zwischen Tod und neuer Geburt, in der das Karma des Menschen gestaltet wird, kann nur auf Grund der Ergebnisse geistiger Forschung dargestellt werden. Aber es ist immer im Bewußtsein zu halten, daß diese Darstellung der Vernunft einleuchtend ist. Diese braucht nur das Wesen der Sinneswirklichkeit unbefangen zu betrachten, dann wird sie gewahr, daß dieses ebenso auf ein Geistiges hinweist, wie die Form eines Leichnams auf das ihm einwohnende Leben. (Rudolf Steiner)


この56項で注目したいのは、
「形態」(フォルム)ということばです。

形態というのは「かたち」のことです。
「形あるものは壊れる」とも言いますが、
実は、かたちそのものは壊れようがありません。

たとえば、四角い物体があったとして、
その物体を破壊したとしても、
四角という「かたち」そのものを壊すことはできないのです。
べつに四角いものを造れば、
そこに四角という「かたち」は再び現れます。

実のところ、
三角とか四角という幾何学的な「かたち」そのものが、
そのまま地上の物質として現われることはありません。
私たちの脳が、もしくは精神が、
物体のなかに、四角とか、三角とか、円といった
「かたち」を読みとるのです。

だから、
「かたち」とは、実は霊的なものだといえます。

シュタイナーが
「死体の形態」というのは、
人間が死んで、生命が抜け落ちた後の「からだ」には、
いわば人体という物質のなかに、
人間の「かたち」が現われているからです。

死体のなかに、もはや生命はないけれど、
逆にいえば、
この「かたち」がなければ、
そこに生命が宿ることもできないのです。

人体という「かたち」は、霊的なものです。
ちょうど、
四角い物体や、三角の物体をあるがままにみることで、
「四角」や「三角」という概念を見出すことができるように、
そして四角や三角という幾何学的な概念そのものは、
目にはみえない「霊的」なものであるように、
人体をあるがままに見ることによって、
人間の「かたち」を見出すことができます。
そのかたちは、
幾何学の概念と同じように
本来は目にはみえない霊的なものです。

だから、古代より、
人間の身体は、大宇宙に対する「小宇宙」とか、
人間の霊性が宿る、「神殿」といわれてきたのです。
はっきりいえば、
人体のかたちは、
人間の霊性そのものなのです。

アントロポゾフィーの考察は、
つねに「目に見える次元」から出発します。
なぜなら、
目にみえる世界、あるいは
「感覚によって捉えられる現実」のなかに
目にみえない、霊的な現実が映し出されているからです。

だから、霊学を語るときは、
「人間は生まれ変わります」とか、
「カルマというものがありまして」というふうに、
唐突に、目にみえない理論から始めるわけにはいかないのです。
それでは「理性」は納得できないし、
実のところ、本当の「現実」を見ていることにもならないからです。

目にみえる、あるいは聞いたり、触ったりできる
「感覚によって捉えられる現実」をあるがままに見つめること。
そこから、ちょうど三角形の物体のなかに、三角という「かたち」を見出すように、
「目に見える現実」が指し示す「目にみえない現実」を見出していくこと、
それがアントロポゾフィー霊学の考察方法なのです。

だからこそ、
アントロポゾフィーにとって
理性が納得できるということ、
考えて理解できるということが、
非常に重要な前提になるのです。

ちなみに、
ドイツ語の理性(Vernunft)は、
Vernehmen(感じとる)ということばから派生しています。
理性は、ただ冷たいだけの、頭のなかで完結するだけの能力ではなく、
現実をあるがままに感じとる力です。
そして、思考というものも、
実は、目に見えない概念や理念を「感じとる」知覚能力なのです。

霊学はけっして、
勝手な思いつきを膨らませたり、
現実から切り離された想像を積み上げていくことではなく、
つねに「あるがままの現実」から出発するということ。

そのことが、
カルマという目にはみえない、
しかし、人間にとって非常に重要な事柄を考えるときに、
必ず確認しておかなければならない、大前提なのです。

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1 コメント

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Unknown (shouko)
2008-11-06 00:49:40
言葉をきちんと理解すると、謎が解けるのですね。
理性という言葉の意味を、たぶんすり込みか、
何かの考えもせず鵜呑みにした解釈の結果、
「感情を抑える働き」と
勘違いをしていた自分を知りました。

理という意味はきっと「あるがままの状態」を指す言葉なのかしら?・・・
などと、初心に返って、
意識して言葉を読み取ることの楽しさを、
頂きました。
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