風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

名前の由来(2) -風韻坊とは-

2009-04-29 10:06:22 | ごあいさつ
シュタイナー思想とか、シュタイナー教育とか、
あるいはアントロポゾフィー(人智学)とかにかかわっていると、
やがて直面するジレンマがある。

以下、ボクが「風韻坊」を名乗ることにした背景として、
このジレンマとの関連から述べていくことにする。

このジレンマの一方には、
シュタイナー自身の考え方を理解したなら、
本来は、シュタイナー教育とか、
アントロポゾフィーといったものは、
一人ひとりの個人を離れたところでは存在しない、
ということがある。

あるのは、シュタイナーという人の考え方に触発されたり、
影響されたりした一人ひとりの個人が、
自分の責任において展開する
「私」の思想や、教育実践や、活動だけである。

アントロポゾフィー指導原理の第1項に書かれているように、
アントロポゾフィーは「認識の道」である。
認識は、一人ひとりの「主体」なしには起こりえない。
つまり、シュタイナーの目指したアントロポゾフィーとは、
一人ひとりが認識を求めて歩む、それぞれの個別の道なのである。

だからこそ、シュタイナーは、
ヴァルドルフ学校では、一人ひとりの教師が自分の授業に責任をもち、
それぞれの授業のあり方がまったく違っていることを願った。

アントロポゾフィー(人間の叡智)とは、
初めから、どこかに存在するものではなく、
一人ひとりの人間が認識を求めて迷い、あがきながら、
自分の責任において歩みをつづけるなかで、
そのような人々の歩みのなかから、
おのずと立ち現われてくるものなのである。

同様に、
シュタイナーは、
「アントロポゾフィー協会は、決して設立されることなどできない」
といった。
「アントロポゾフィー協会は、《発生》することしかできない」と。

英語やドイツ語では、
協会と社会(Gesellschaft, society)は、同じことばである。
シュタイナーの考えた
アントロポゾフィー協会とは、
一人ひとりの個人が、それぞれの認識の道を歩むなかで、
それらの人々のつながりのなかから、おのずと発生する「社会」なのだ。

そのように、
アントロポゾフィーには、
徹底して「個」を出発点とする側面がある。
そこではアントロポゾフィーは、
特定の思想的立場や団体の名称として、
個々人を一括りにするようなものではありえない。
あくまでも、一人ひとりの「個」があって、
その主体的、自発的な活動の結果、
アントロポゾフィー(人間の叡智)が見えてくるのである。

それがジレンマを生む一方の要素である。

なぜなら、もう一方の要素として、
アントロポゾフィーには、
必ずしも「個」とは相いれないように見える、側面があるからだ。
シュタイナーの思想を学び、実践するなかで、
どうしても「個」としてではなく、
「シュタイナー派」とか「アントロポゾーフ(人智学徒)」として
社会から一括りにして見られてしまう場面が出てくる。

また、
現実の法人組織としての「アントロポゾフィー協会」が存在する。
この協会は、たとえばスイスや日本といった特定の国の法律にもとづき、
規約をもち、社団法人として
実際に、ある時点で「設立」されたものだ。
そこの現実は、一見、
「この協会は、個々人の認識の道における歩みによって、おのずと発生する」
というシュタイナーの本来の意図と矛盾するようにみえる。

同様に、
現実の多数の「シュタイナー学校」も存在する。
そこでは、一人ひとりが努力はしていても、
先人の経験と知恵に学び、一つの伝統を形成するなかで、
世界中のシュタイナー学校が似たような建築や雰囲気をもち、
共通のカリキュラムをもって、
教師の授業のあり方も相互に似通っている場合がある。

そして、シュタイナー学校、シュタイナー幼稚園を名乗って、
この社会のなかで活動している現実の団体があるかぎり、
実際に、一つの特定の立場としての
シュタイナー教育というものが存在することになる。

そして、
この「シュタイナー教育」の質を守り、向上させていく必要も出てくる。

アントロポゾフィー医学にしても、
それを一つの独立した客観的な医学体系として打ち出し、
正確な理解をもとに、科学的に研究、発展させていくことが必要である。

現実の社会は、こちらがなんといおうが、
アントロポゾフィーを
一つの特定の「立場」として捉えるのである。
そして、その立場に立つ人々のふるまいによっては、
「カルト」や「宗教団体」のように見なされてしまう場合もある。

だからそこでは、
むしろこちらからも、
アントロポゾフィーを一つの「立場」として明確に示し、
さまざまな誤解を取り除き、
本来の姿を示していかなければならない。
そこでは、いやおうなく
アントロポゾフィーは、特定数の人々が共有し、
共に支え、発展していく一つの「立場」なのである。

現実の社会のなかで、
シュタイナーが目指したアントロポゾフィーの道を歩もうとすれば、
いずれはこの二重性に直面し、そこで悩むことになる。
それが冒頭に述べた、ジレンマである。

でも、このジレンマのなかにこそ、
晩年のシュタイナーが見ていた「私たちの課題」があるのだ。
それを彼は、
「最大の公共性に、最奥の秘教性を結びつける」ことと表現した。

法人としてのアントロポゾフィー協会は、
現代の社会組織として、ごく普通の公共団体と同じように、
社会に対して開かれていなければならない。
その一方で、
協会を形成する一人ひとりの個人は
その内面において、本当に各自の認識の道を歩んでいなければならない。
(それが秘教性ということである。)
それは孤独な道、誰とも共有できない道である。

この二つの相容れない極を
一人ひとりの個人が自覚的におのれのなかで結びつけて生きていくこと、
それが晩年のシュタイナーが、
自分の思想に共鳴する仲間とともに目指した方向であり、課題であった。

そこには、シュタイナーの思想の核心である
「個と普遍の一致」を社会に実現しようとする試みがあった。
それはシュタイナーのいうところの「私の原理」である。

私という言葉は、個別性と普遍性を同時に含んでいる、
とシュタイナーは述べている。
私という言葉は、
その言葉を発する主体が、自分自身を指して使うことしかできない。
言葉を発する人が、自分以外の人を指して「私」ということはできない。
その意味で、私という言葉は、徹底して個別的、個的な言葉であるといえる。

その一方で、
私という言葉は、固有名詞とは違って、
すべての人が使うことができる。
いわば万人に共有される言葉であり、
その意味では、私という言葉は、もっとも普遍的な言葉であるといえるのだ。

そしてシュタイナーが大切にしたのは、
私のなかに、
この個と普遍が一致してあるということだった。

私を自覚するとき、
一人ひとりの絶対的な価値が明らかになる。
この私は、
どのような社会的立場、どのような境遇にあろうと、
どのような経歴の持ち主であろうと、
一人ひとりがかけがえのない「個」であると同時に、
人類そのものの「普遍性」を自己のうちに担っている。

地球のどこかで飢えや病に苦しみ、
紛争に巻き込まれ、虐待され、殺されているのも、
この「私」であり、
いまここにあり、自分の人生の運命を経験しているのも、
この「私」である。

私の自覚が、
人類の運命と個人の運命がひとつにつながっていることを
実感させるのである。

これはきわめて現代的な、民主主義の原理である。
1923年という、
第一次世界大戦後の混沌とした社会状況、
ワイマール共和国という共和制のあり方、
民主主義の理想を人々が求めた時代にあって、
シュタイナーはその時代に呼応するように、
自分が打ち出した「協会」(社会)のなかに、
公共性と内面性(秘教性)、
普遍と個の一致という原理を掲げたのである。

ボクたちが生きる現代でも、
社会の生命体としての健康(公正)は、
社会を構成する一人ひとりの個人における
市民としての自覚(普遍性・平等)と、
個人としての自分らしさ(個別性・精神生活)の両立にかかっている。
愛に満ちた社会は、
公と私、普遍と個の一致のなかで、
人々をつなぐ経済活動(友愛)が展開されて初めて実現する。

反対に、
公と私のどちらか一方だけが優先されたり、
どちらか一方が他方を呑みこんだりすれば、
社会は少数支配やいわゆる衆愚制といった方向に陥ってしまう。

ちょうど光が粒子であると同時に波でもあるように、
私という原理は、
絶対的な個であると同時に、普遍であるということ。
その原理が、各人のなかで生きてくることが重要なのだ。

ひるがえって、
現在の日本の「シュタイナー」(アントロポゾフィー)をめぐる状況では、
現実のシュタイナー学校や幼稚園があり、
そこで努力している人々がいる。
社会から、シュタイナー教育やアントロポゾフィーが
一つの特定の「立場」として見られつつある。

ボク自身、以前は予想もしなかったことだが、
現在は日本シュタイナー幼児教育協会の「代表」という立場を引き受け、
個人的にも、私立幼稚園の「園長」という立場にある。

そのような現実を否定することはできないし、
むしろそれは社会の一市民としての公共性にかかわる部分として
責任をもって引き受けなければならないと思っている。

ただ、ボクが最近になって痛感しているのは、
アントロポゾフィーの出発点である
一人ひとりの「認識の道」ということが、
シュタイナー思想に取り組んでいる人々にさえ、
十分には理解されていないということである。

まるでシュタイナー学校やシュタイナー幼稚園という「既存の型」があり、
シュタイナーを名乗るためには、その型に自分を合わせなければならないという、
窮屈な感じ方、考え方がところどころに見られるのだ。

大事なのは、
自分が向き合っている具体的な子どもたち、具体的な人々とのかかわりのなかで、
その現実のなかで可能なことを試みていくことである。

一人ひとりが、シュタイナーの示した知見を含め、
それ以外にも、古今東西の人間の経験と叡智に学びながら、
その時々で、自分にできることを、自分の責任で行っていくこと、
そこにアントロポゾフィーは働くのである。

これはシュタイナーか、シュタイナーでないかなどというのは、
本来は、まったく本質的な問題ではないのだが、
アントロポゾフィーの核心部分が理解されていない状況では、
何がシュタイナー教育で、何がそうではないのかを明らかにしていくことが
どうしても必要になる。

たとえば、
アントロポゾフィーは一人ひとりの認識の道だといって、
それぞれが科学的、論理的な根拠もなしに、
自分の思いつきを語り、実行していけば、
それは
そこにかかわる他の人々に対して、無責任な、
場合によっては有害な結果につながりかねない。

認識の道である以上、
それはすべての人によって、「理解」されなければならない。
こちらがていねいに言葉を尽くして説明し、
相手も「先入観」なしに時間をかけ、ていねいに考えの筋道をたどってくれれば、
必ず理解してもらえること、
それが本来の科学的である、ということだ。

その意味で、
アントロポゾフィーの名のもとに行われることはすべて、
科学的でなければならない、とボクは思っている。

ボクがいつも悩み、落ち込んでしまう主な要因は、
アントロポゾフィーのこの核心部分に対する無理解に
たえずさらされてしまうことから来ている。

でもそれは一番重要な部分であるとともに、
一番理解するのが困難な部分であるのだから、
なかなか理解されないのも当然なのだろう、と思っている。

ただ、自分の生き方を考えたとき、
ボクは自分の「立場」をアントロポゾフィーとだけ言い表わすことに
若干の不自由さと矛盾を感じるようになった。

以前は、以上のような方向を
「アントロポゾフィーの新しい方向づけ」
NOA(Neuorientierung der Anthroposophie)と呼んで、
そのための資料や問題提起を
NOA企画という事業を通して行っていた。

しかし、最近になって、
もしアントロポゾフィーが一人ひとりの「認識の道」であるのなら、
その道の名前も、一人ひとりが独自に付けてもよいのではないか、
と思い始めた。
仏教も、イスラム教も、ヘーゲルも、マルクスも、
みんな「人間の叡智」という意味でアントロポゾフィーだといいながら、
自分の立場をアントロポゾフィーと言い続けるのは、
やはり自分の立場にこだわり、
他の思想や考え方を自分の立場のなかに呑みこもうとすることになるのではないか。

一人ひとりが自分の道を歩んでいる。
そのことがアントロポゾフィーなのである。

また、アントロポゾフィーという言葉は、
シュタイナーが考え出した言葉でもない。
シュタイナー自身が言っているように、
学生時代の彼が、ウィーンの大学の講義のなかで
哲学者ロベルト・ツィンマーマンが
「これまでの哲学は、神中心の哲学、テオゾフィー(神智学)だった。
これからは人間中心の哲学、アントロポゾフィー(人智学)を目指さなければならない」
と述べているのを聞いて、
それが現代にふさわしい思想のあり方を示す言葉として印象に残っていて、
後に、シュタイナー自身がブラバツキー夫人の神智学協会から離れ、
自分自身の思想的立場を打ち出そうとしたとき、
この名称を採用したのである。

それならば、ボクが歩んでいるこの道は、
何と呼ぶのがふさわしいのだろう。

そのように考えたとき、
このブログに引っ越した時点で書いたように、
13歳のときに強烈に体験した
「風の音」がよみがえってきた。
ボクは一生をかけて、あの風の音が聞こえてきた場所を
おそらくは自分にとっての精神の故郷を探り続ける。
その風の音は、ボクにとって
詩的な響きをもち、言葉にならない言葉として聞こえていた。
その音を言葉にしていくこと、
それがボクの本来の仕事だと思った。

具体的にいえば、
ボクは十代のときに目指した「詩人」という仕事を
40代半ばを過ぎて自分自身の本来の職業として
あらためて選択したのである。
そして、詩人としての自分の立場を
「風韻坊」と表現することにした。

純粋なアントロポゾーフとして生きようとするとき、
ボクは自分自身を
風韻坊 入間カイ
と呼びたいと思う。

園長や代表としてであれ、翻訳者や表現者としてであれ、
公と私、普遍と個を
ボクは言葉を通して、詩人として結びつけていきたい。
それがボクのアントロポゾフィーの道であり、
風韻坊の道である。

そして、純粋に個人的な仕事に関しては、
これまでのNOA企画から、
「風韻坊出版」に引っ越したいと思っている。

ボクは、他の人々のアントロポゾフィーへの取り組みを否定するつもりはないし、
その人たちと仲間として、
社会における一つの立場としての
「アントロポゾフィー」や「シュタイナー教育」を守り、支え、発展させていきたいと思う。
しかし、そのためには、
個としての、自分自身のあり方を明確にする必要があり、
それが、風韻坊と名乗る理由なのである。

このことは、いつか記しておきたいと思っていた。
この長い文章にお付き合いいただいた方には、心から感謝します。

風韻坊ブログのはじまり

2008-10-31 02:19:41 | ごあいさつ
これまでの「アントロポゾフィー研究所」から、
この「風韻坊ブログ」へ引っ越すことにしました。

それには二つ理由があります。

一つは、自分の子ども時代の原点に帰ろうと思ったからです。
今から何十年も前、ボクが13歳の頃だったと思いますが、
夜の風の音が聞こえるたびに、不思議な感覚にとらわれていた時期がありました。
どこか遠くの、ボクが知っているはずの場所から、その風の音は聞こえてくるような気がしたのです。
それは幼少期を過ごしたドイツかもしれない。あるいは、生まれる前の世界なのかもしれない。
いずれにしても、その風の音を聞くと、ボクには思い出すべき「故郷」がある、と感じられてなりませんでした。
今、ふたたびボクはあの子ども時代の感覚に戻って、自分の「故郷」を探してみたいと思うのです。

もう一つの理由として、
ボクが大人になってから長年かけて取り組んできた、アントロポゾフィーという思想があります。
この思想を生きようとする人のことを「アントロポゾーフ」といいますが、
本来、そのあり方は一人ひとりまったく違っているはずなのです。
ところが、2週間ほど前にヨーロッパに行って改めて思ったのですが、
アントロポゾフィーというものがまるで一つの「型」にはまった考え方や生き方のようになってしまっている。
そういう現実があります。

シュタイナーが見ていたアントロポゾフィーは、
一人ひとりが本当に「自分らしく」生きるための支えであったはずです。
そうであれば、ボク自身がアントロポゾフィーと出会い、それと取り組むなかで見えてきた、
ボクらしい考え方、感じ方、生き方があるはずだ。
それを「アントロポゾーフ」とは呼ばずに、別の名称で呼ぶほうが、
シュタイナーの思いにも合致するのではないか、と思ったのです。

そして、ボクは子ども時代の原点に改めて向き合いつつ、
大人になって獲得してきた自分自身の認識を本当に生きようとする自分の姿勢を、
「風韻坊」と呼ぶことにしたのです。

自分の立場を「アントロポゾーフ」とするかぎり、
「それはシュタイナーが言っていることではない」と言われたり、
逆にボク自身もいつまでも「シュタイナーによれば」に頼ってしまうかもしれない。

これからは、
本当に自分自身の言葉で、自分が考えていることを、自分の責任で語っていきたいと思います。
そして、それを「風韻坊ブログ」に綴っていくことにします。

ちなみに、「アントロポゾフィー指導原理」の訳と解説も、
この「風韻坊ブログ」で続けていきます。
そして、シュタイナーの言葉に触発されるかたちで、
ボク自身の思想を自由に語っていきたいと思います。

そのほうが、実はシュタイナーが願っていた
「アントロポゾフィー指導原理の使い方」にかなっていると思うのです。