風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

安保法制とアントロポゾフィー協会

2015-08-04 22:20:08 | 隠された科学
今、参議院で審議されている安保法案の中心には、
「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という言葉がある。

この「個別」と「集団」という言葉について考えてみたい。
英語では個別的/集団的自衛権は、the right of individual / collective self-defenseという。
Individualは個人、個性を指すときに使われる言葉だ。

Collective は集団的、集合的という意味だが、
私などは、ユングの「集合的無意識」(collective unconscious)を連想したりする。
あるいは、旧西ドイツの故ヴァイツゼッカー大統領が、ナチスというドイツの過去に触れ、
今生きているドイツ国民に「罪」はないが、「集団としての責任」(kollektive Verantwortung)がある、と語ったことを思い出す。

象徴的に感じるのは、そこに「自衛権」(self-defense)のself(自己)という言葉が入っていることだ。
言葉遊びのように受け取られるかもしれないが、
私には、個別的/集団的自衛権の議論は、
国家レベルにおける「個的自己」と「集合的自己」の問題を内包しているように思えるのだ。

国家法人説という考え方があるが、
私は、国家とは一つの法人格だと思う。
国家は、会社や共同体のように、多数の個人から構成されるが、
そこにはある種の「人格」と「意志」が認められる。

個別的/集団的自衛権の議論は、
国家という法人格の「自己」に関わる問題なのだ。

会社や共同体、国家などの組織の「自己」とは何か?
それは、そこに集う一人ひとりの人間がもつ共通の願いや意志であろう。
たとえば平和に暮らすこと、人並みの生活をすること、
男女が平等に扱われること、生命が守られること、
一人ひとりが個人としての尊厳を保証されることなど。
そうした人々の共通の願いや意志を記したものが「憲法」といえるだろう。

憲法とは、国家のアイデンティティーである。
特に、現行の日本国憲法には、終戦時の国民の平和な国家建設への願いと決意が記されている。

個別的自衛権における「自衛」とは、
まず第一に、憲法に謳われたアイデンティティーを守り抜くことであるはずだ。

それでは集団的自衛権とは何か?
その本質は、集団で相互に防衛し合う二つ以上の国家がどのような意志を共有しているのか、ということだろう。
そこに「共通の自己」とさえ言えるような意志があるのか?

いや、もっとはっきりいえば、
集団的自衛権とは、ある国の意志が別の国の意志を呑み込み、
一つの国家意志が「自己」(Self)として働く状況を暗示している。
それがまさに戦争ということだろう。

今、日本における集団的自衛権をめぐる議論は、
ほとんど米国だけを想定している。
米国と日本が共有する意志や理想とは何かといえば、
必ず「民主主義」とか「自由」という言葉が返ってくるだろう。

その一方で、昨年夏に集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、
安保法案を無理にでも成立させようとしている勢力は、
日本国憲法は、米国の押しつけだという。

けれど、米国と同盟を結び、米国の戦争に加担しようというのなら、
米国から押しつけられた理想をそのまま受け入れ続けてもよいのではないか?

ところが、今では、その米国自身が、日本の憲法を変えたがっている。
なぜなら、日本国憲法には、実は日本国民の強い意志が生きているからだ。
この憲法があるかぎり、米国の「自己」は、日本の自己を丸呑みにすることができないのだ。

さて、ここで翻ってルドルフ・シュタイナーという人が創ったアントロポゾフィー協会だが、
それは1923年、ドイツのワイマール共和政の時代のことだ。
その当時は、民主主義をめぐって、やはり「個」と「集団」の対立が議論されていた。
あまりにも「個」を主張することは、文化における高貴な精神性が阻害されるのではないか、と、
たとえば作家トーマス・マンをはじめとする知識人たちが警鐘を鳴らしていた。

その時代に、シュタイナーは、
「精神性」と「民主制」、あるいは「秘教性」と「公共性」を結合することを試みた。
それがアントロポゾフィー協会だった。

アントロポゾフィー協会は、やがて法人格をもった組織として、スイスの法律に基づいて社団法人として登録された。
そこに集う一人ひとりの個人を相互に結びつけるのは、
私はこの世界にアントロポゾフィーが存在することを願う、という意志だった。
その願いは、一人ひとりの個人におけるまったく個別的(individual)な意志である。
アントロポゾフィーとは何か、あるいはそれがどのように世界に働くべきか、その見解や願いのあり方は、人それぞれである。
共通しているのは、この世にアントロポゾフィーがあってほしいという一点である。

そのような意志をもつ人々が対等な立場で法的な組織を形成するとき、
そこにアントロポゾフィーという精神性が働くことができる。

私は、国家も同じだと思うのだ。
アントロポゾフィー協会とは、実は、シュタイナーによるまったく新しい「国家建設」の試みだったのだと思う。

シュタイナーは、アントロポゾフィー協会の「会則」は、
実は会則ではなく、人々が共通して抱いている信念を記述したものにすぎない、という。
本来の憲法とはそういうものだ、と思う。

シュタイナーがアントロポゾフィー協会のあり方について述べた講演や書簡がまとめられた本には、
『アントロポゾフィー協会の《憲法Konstitution》』というタイトルが付けられている。
KonstitutionとはConstitution、「体質」や「構成」、「あり方」を意味する言葉である。

ちょうど、1923年のクリスマス会議において、
ドルナッハに集まった800人余りの人々の「信念」を基盤として、
シュタイナーがアントロポゾフィー協会を築こうとしたように、

戦争の苦しみを通過した日本の人々は、新しい日本国憲法のなかに自分たちの理想と信念を見た。
それを受け入れたことが、彼らの決意だったのである。

故ヴァイツゼッカー大統領が「国民の集団的責任」について語ったように、
私たちには、日本国憲法への、先人たちの決意への集団的責任がある。

集団的自衛権の「集団」と、私たちの集団的責任における「集団」は、虚と実の関係にある。

集団的自衛権は、国家のアイデンティティーが他国の意志に呑み込まれることだ。
自国の憲法に対する集団的責任においては、一人ひとりの自己が個別の決意によって強められなければならない。

戦後、GHQのアメリカ人たちが書いた憲法草案のなかには、
本来のアメリカ合衆国の理想、アイデンティティーがあったといえるだろう。
それは当時の日本人の理想と願いに共鳴するものだった。

しかし、今、米国自身がその理想を否定し、負の遺産を世界に蔓延させようとしている。

その結果、一つひとつの国家の精神性が消滅しようとしている。
今、国会で議論されている安保法制は、日本という国家の自己否定である。

それに抗するためには、一人ひとりの個人が自己を強めなければならない。
自分は、日本という国にどうあってほしいのか、
その理想を日本国憲法のなかに見いだすことができるのか、真剣に検証しなければならない。

それによって、私たちは日本の精神性に生命を与えるのだ。
それがアントロポゾフィーということだ。
この努力において、私たちは90年前のシュタイナーの戦いを引き継ぐのである。

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