風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

愛国心とは何か?

2015-08-05 07:59:07 | 隠された科学
愛国心とは、子どもの親への愛情に似ている。
シュタイナー教育では、「子どもは親を選んで生まれてくる」というが、
それはただの神秘思想ではない。
愛とは何か、ということである。

子どもは、どんな劣悪な環境にも生まれてくる。
虐待され、食べ物を与えられず、紛争に巻き込まれても、
子どもは大人に身を委ねることしかできない。
いや、そこに自分を受けとめてくれる大人が一人はいてくれることを信じて、
子どもは生まれてくる。
その思いは裏切られるかもしれない。
それでも、子どもたちは何かを信じて、誰かを信じて生まれてくる。
そのあり方が「愛」なのだと思う。

「親を選んで生まれてくる」というのは、甘くて美しい考えではない。
子どもが生まれたということは、
親が選ばれたということだ。自分が無条件の愛を、子どもから向けられていることを知ることだ。
自分はその愛に応えようと努力することもできるし、
その愛を深く裏切ることもできる。その震撼させられるべき責任の重さを伝えているのが、
「子どもは親を選んで生まれてくる」という言葉なのだ。

同様に、人は「国」を選んで生まれてくる。
そこは「国家」の体をなさない場所かもしれない。
それでも人は自分の「故郷」を選んで生まれてくる。
子どもたちを受けとめる社会は、
「故郷」として選ばれたことの責任の重さに震撼させられるべきだ。

私たちの実感は、
自分は親を選べないし、生まれ落ちる環境を選べないということだろう。
それはそうなのだ。
「あなたは実は親を選んで生まれてきた、この国を選んで生まれてきた、だから親孝行をしなさい、国に奉仕しなさい」
というのは、「選ばれた側」が発する最悪のメッセージである。

選ばれた以上、私たちには義務と責任がある。
それは少しでも子どもたちの愛に応えることだ。
少しでも愛されるに価する人間になろう、愛されるに価する国を形成していこうと努力することだ。
それが「教育」なのだと思う。

教育とは、立派な大人が、未完成な子どもの人格を完成させていくことなんかではない。
未熟な人間が、子どもの傍らで、少しでも自分を完成させていこうと努力することだ。
大人の自己形成への努力だけが、子どもの人格形成を支える。

そこにおいて、人間の自己形成は国家形成と一つにつながっている。
教育は国家の礎である。
けれど、その意味は従順な人間をつくりだして国を支えるということではない。
大人の問題なのだ。
自分たちのもとに生まれてきた子どもたちが育つ環境として、
私たちはどのような国をつくっていきたいかということだ。
その意味での国家は、決して完成されざるもの、
つねに人々の努力によって変化し、生成し続けるものである。

国家は、人々のなかでつねに発生し続ける。
私たちが国家なのだ。そして、私たちが子どもたちの傍らで、
絶えざる自己形成に向けて努力し続けることを初めて意識的に誓ったのが、70年前のことだ。
日本国憲法は、未来の子どもたちに向けて、大人の誓いを記した手紙である。

私は国旗掲揚に反対ではない。けれど、国旗掲揚や国歌斉唱を強制することには絶対に反対である。
なぜなら、それは国旗や国歌を冒涜することになるからだ。
本当に国旗を大切に思う人たちが集まったところでは、国旗を掲げればいいだろう。
けれど、その思いは真実でなければならない。

別の人たちは、自分の「愛国心」をもっと別のかたちで表現したいと思うかもしれない。
ドイツ語の「故郷」(ハイマート)には独特の響きがある。
自分がもといたところ、いずれ帰っていくところ。自分のアイデンティティーの原点。

今、日本という国は、安倍政権の自立の欠如した、対米追従の政策によって、
ますます誇ることのできない、愛することのできない国になりつつある。
それで傷つくのは、私たちの、子どもたちの愛国心である。

親への愛も、
国への愛も、
人間への、自分自身への希望であり、信頼である。

そう考えたとき、
親は子どもが反抗し、自立に向けてあがくのを喜びをもって見守るだろう。
政府もまた、市民が問題を指摘し、反対集会を催したときは、
その議論を歓迎することができるだろう。

個人の自立こそが、国家形成の最大の力なのだから。

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