昨年の総選挙の結果は、この国の未来に対して絶望に近い思いを抱かせるに十分だったが、
今年、人質になっていた日本人二人が殺害されたとき、日本の精神風景そのものが完全に変わったと感じた。
わかっていたことだ。
日本という国家は、もはや国民を守る「家」ではない。
家の体面や、大人の都合のために、子どもを見殺しにする親のように、
国民よりも、国を優先する。
それは何より、原発事故後の国の政策を見れば明らかなことだ。
だけど、フリージャーナリストの後藤健二さんが殺されたとき、本当に、最後の糸が切れたのだ。
私は、彼が死ぬとは思っていなかった。
総選挙に向けて、このブログで一連の文章を書いたが、
それを読んでくれた人が、
総選挙の結果を受けて、「これから先について書いてほしい」と言った。
以来、自分はどうするのかを考えていた。
でも、何をしたらいいのかわからないまま、時間が過ぎていった。
今、私はようやく一つの思いを固めた。
私は、自分がずっと抱いていた問いへの、答えを探しにいこうと思う。
きわめて個人的な問いだが、自分なりに納得できなければ、先に進めそうもない。
その問いはこうだ。
「なぜ子どもたちは生まれてくるのか?」
本当は、私はずっとわからないでいる。
こんなに悲惨になっていく世界に向けて、子どもたちは何を見て、地上にやってくるのか?
私自身は、何を見て、やってきたのか?
今のままでは、私たち大人は、生まれてくる子どもたちに救われているだけではないのか?
彼らが無心に私たちを信じて生まれてきてくれるから、
私たちは何とか彼らを受け止めなければならないと思い、何とか努力する。
子どもたちが生まれてきてくれるから、この世界は存続しているのだ。
これまでは、それでいいじゃないかと思っていた。
子どもたちのために、この地球を少しでもよくしていくことが大人の仕事であり、
そこにこの世界の意味もあるかのように思っていた。
でも、それだけでは、私自身が先に進めなくなってしまった。
私は、自分が答えを探していることを率直に認めようと思う。
もう一つ、私が認めなければならないのは、
シュタイナーが遺してくれたアントロポゾフィーの中には、私が探している答えは見つからない、ということだ。
シュタイナーを否定しようというのではない。
彼が見出したことも、他の多くの先人たちの思想とともに、現在の私が考え始める基盤である。その先に向かうということだ。
以前も、シュタイナーからの旅立ちと書いたことがある。
今からは、旅立った先に見えてくることを綴っていこうと思う。
今年、人質になっていた日本人二人が殺害されたとき、日本の精神風景そのものが完全に変わったと感じた。
わかっていたことだ。
日本という国家は、もはや国民を守る「家」ではない。
家の体面や、大人の都合のために、子どもを見殺しにする親のように、
国民よりも、国を優先する。
それは何より、原発事故後の国の政策を見れば明らかなことだ。
だけど、フリージャーナリストの後藤健二さんが殺されたとき、本当に、最後の糸が切れたのだ。
私は、彼が死ぬとは思っていなかった。
総選挙に向けて、このブログで一連の文章を書いたが、
それを読んでくれた人が、
総選挙の結果を受けて、「これから先について書いてほしい」と言った。
以来、自分はどうするのかを考えていた。
でも、何をしたらいいのかわからないまま、時間が過ぎていった。
今、私はようやく一つの思いを固めた。
私は、自分がずっと抱いていた問いへの、答えを探しにいこうと思う。
きわめて個人的な問いだが、自分なりに納得できなければ、先に進めそうもない。
その問いはこうだ。
「なぜ子どもたちは生まれてくるのか?」
本当は、私はずっとわからないでいる。
こんなに悲惨になっていく世界に向けて、子どもたちは何を見て、地上にやってくるのか?
私自身は、何を見て、やってきたのか?
今のままでは、私たち大人は、生まれてくる子どもたちに救われているだけではないのか?
彼らが無心に私たちを信じて生まれてきてくれるから、
私たちは何とか彼らを受け止めなければならないと思い、何とか努力する。
子どもたちが生まれてきてくれるから、この世界は存続しているのだ。
これまでは、それでいいじゃないかと思っていた。
子どもたちのために、この地球を少しでもよくしていくことが大人の仕事であり、
そこにこの世界の意味もあるかのように思っていた。
でも、それだけでは、私自身が先に進めなくなってしまった。
私は、自分が答えを探していることを率直に認めようと思う。
もう一つ、私が認めなければならないのは、
シュタイナーが遺してくれたアントロポゾフィーの中には、私が探している答えは見つからない、ということだ。
シュタイナーを否定しようというのではない。
彼が見出したことも、他の多くの先人たちの思想とともに、現在の私が考え始める基盤である。その先に向かうということだ。
以前も、シュタイナーからの旅立ちと書いたことがある。
今からは、旅立った先に見えてくることを綴っていこうと思う。