風韻坊ブログ

アントロポゾフィーから子ども時代の原点へ。

新しい神の名は、子ども時代

2015-09-14 11:08:29 | 十字架に眠る幼子
今、人間には、宗教や文化、思想の違いを超えて一致できる、
共通の価値観が必要なのだ、と思う。
新しい民主主義の基盤が必要なのだ。

自由と民主主義を掲げるアメリカ合衆国の原点、
1776年の「独立宣言」には、
「創造主が万人に自由と幸福追求の権利を与えた」とある。
創造主とは、神のことだ。
だったら、神を持たない人々、
無神論者や、万物の中に無数の神を見ているアニミズムの人たちには、民主主義の根拠がないことになる。

私たちには新しい「独立宣言」が必要だ。
一神教の神からの独立、
そして、一神教を信ずる支配者たちからの独立を宣言しよう。
神を否定しようというのではない。
私たちが成長し、親元を離れて独立するように、
神に対しても、
私たち自身が親であり、大人であり、
責任を持つべき子どもたちがいることを宣言するのだ。

古い民主主義の根拠が「神への信仰」であったとすれば、
新しい民主主義の基盤は、
私たち一人ひとりが、
子どもたちに対して持つ責任感だ。

人権は、神から私たちに与えられるのではなく、
私たちが子どもたちに認めるものだ。
子どもたちが等しく愛され、
一人ひとりの個性が尊ばれ、
幸せに、健康に生きて欲しい、
と私たちが願うから、
子どもたちには人権がある。

そして、私たちはみなかつて子どもだった。
だから、私たちには人権がある。

私たちがみな「子ども時代」を通って大人になる。
そこに新しい民主主義の基盤がある。

子どもたちは子ども時代を生きている。
そして、大人たちは子どもたちの「子ども時代」を守る責任がある。
その事実に、人種、民族、文化の違いはない。
これは頭で考え出した理屈ではなく、
人間の身体に根ざした衝動なのだ。

地球上、どこへ行っても、
大人たちは子どもたちの健やかな成長を願い、
新しい世代が古い世代を乗り越えていくことを喜んでいる。
それは人類進化の根本衝動に違いない。

新しい民主主義は、一人ひとりの内的な決意から始まる。
宗教や思想、民族や文化にはかかわりなく、
自分のなかの「子どもへの責任感」を、
「神への信仰」に代わる新しい民主主義の基盤に据えること。
自分はいかなる運命に対しても大人であり、
この自分こそが、子どもの人権を、そしてすべての人の人権を認める主体なのだと覚悟を決めること。

そこに多様な人間が共有する、
新しい価値観の発生を見届けたい。















子ども時代ふたたび~安保法制と幼児教育~

2015-08-25 07:43:19 | 十字架に眠る幼子
たぶんこの夏ほど、地上が死者たちで混み合った時はなかった。
外を歩くと、空気がひどく濃いのだ、
ひしめく彼らがいて、
私はその重たい感情に押しつぶされる。

私は粘液のような空気のなかで手を動かし、
彼らの居場所を確かめる、
彼らの声を聞こうとする。

わかっていたはずだ。
アルブレヒトもこの声を聞いたのだ。
聞いて問いかけたのだ、
あの暗くて冷たい独房のなかで。
ただひとりの神と、
無数の私に向かって。

なぜこの地上では、
起こるべきではないことが起こり続けるのか。
なぜ不条理が条理を踏み潰すのか。
神よ、あなたはどこにいるのか。

私はここにいる、と言いたい。
でも、その私は神と呼ぶにはあまりにも情けない。
できれば、神はこんな私であってほしくない。

この世には無数の神がいる。
人の数だけ神がいる。
死んでしまえば神になる。
この世では、死者に発言権がないように、
あの世の神はこの世では無力だ。

神が無力だから、
道理が引っ込み、無理が押し通される。
今回の原発再稼働のように、
安倍政権のあからさまな横暴のように。

今、必要なのは、
この世の神に力を与えることだ、
死者たちの声をこの世で聞き届けることだ。

そうすれば見えてくるだろう、
子どもたちがそれでも生まれてくる理由が。
どれほど世界が悲惨でも、子どもたちはやってくる。
私はずっと知りたかった。
なぜ彼らはあきらめないのか、
彼らは何を地球に見てやってくるのか。

そして、私は胸を打たれる、
ずっとわかっていたことに驚愕する。
子どもとは死者のことだ。
かつて死んでこの世を去った人が、
ふたたび子どもとなって生まれてくる。

子どもたちが生まれてくるのは、
私たちがあきらめていないからだ、
この地球は素晴らしい場所だと、
この自分は決して捨てたものじゃないと思っているからだ。

死者たちは、
子どもたちのなかに生きている。
私もかつては子どもだった。
誰もがみな子どもだった。

死者と語らうことは、自分のなかの子どもに向き合うことだ。
この世の神に力を与えることは、
この世の子ども時代に最大限の重きをおくことだ。

子どもとは、
人間の人間に対する希望なのだ。
子どもたちはその希望を今生きている。

多くの人が子どもを愛するのは、
子どものなかに証を見るからだろう、
私たちはまだ人間を信じていい、
私はまだ自分を信じていい、という証を。

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ぼくは今、自分がかかわる幼児教育という仕事を新しく捉え直したい。
幼児教育とは、死者の声を聞くことだ。
子どもたちの意志は、
かつてこの世を去った死者たちが地球の未来に託す願いだ。
私たちが教えるのではない。
子どもたちとの触れ合いのなかで、私たちが学ぶのだ。
人間とは何か、
人間にふさわしい生活とはどのようなものか、
私たちは何を目指して生きるのか。

だから、幼児教育は、幼児を教育することではない。
「教育とはすべて自己教育だ」とシュタイナーは言ったが、
だとすれば、幼児教育者とは、
幼い子どもたちとのかかわりのなかで自己教育に努める人のことだ。
そして、そういう大人たちとの生活のなかで、
子どもたちはそれぞれの自己教育を行うだろう。
それがきっとシュタイナーのいう「内的運命に即した自己教育」ということだろう。

そして、今、国会で議論されている「安全保障」は、
ほんとうは子育てや保育の問題だ。
「国民の生命と平和な暮らしを守る」というのなら、
第一に守られるべきは子どもたちだろう。

「保育」という語には、
「養護」と「教育」という意味が含まれるという。
子どもたちを養い、保護し、育てていく。
その生活環境の大前提を法的に保障する、安保法制。

でも、思うのだ。
すべての根底に安全、安心ということがある。
英語でいえば、セキュア、セキュリティ。
(安全保障も英語ではセキュリティという。)

保育者たちも、子どもたちの安全と安心のために努力する。

ところが、今の安保議論はすべて不安から発している。
「積極的平和主義」というけれど、
その本質は、きわめて消極的、否定的だ。
他国から攻められたらどうするか、
米国の協力なしに、自国を守れるのか、
米国の戦争に協力していかなければ見捨てられるのではないか,,,

今の日本は、自国のことも、隣国のことも信じられない。
ただ、昔、自分を開国させ、ひどい目にあわせた米国に依存するしかない。
アメリカと日本の関係を、男と女にたとえる人もいるが、
ぼくは、それ以上に「親子の関係」に似ていると思う。

本来の安全保障とは、
人々が安心して暮らせる基盤をつくることだろう。
あたりまえのことだが、
他の国々との信頼関係の構築こそが、一番の安全保障になる。

そのために必要なのは、日本が自立することだ。
虐待し、搾取する親を切り捨てることだ。
そうしなければ米国も、日本も、本当には自由にはならない。

米国は武器や力への依存から脱却し、
日本は米国による精神的支配から脱却しなければならない。

そのとき、「子ども時代」が新しい価値観になるのではないか。
米国も、欧州の国々も、イスラムの国々も、イスラエルも一神教が背景にある。

一神教と多神教、
そして日本のようにアニミズムを精神的背景にもつ国々は、
どのようにお互いに理解し合い、信頼し合うことができるのか?

ぼくは、憲法問題の根底にも、この「神の問題」があると思う。
先の文章でも書いたように、
欧米では「基本的人権」を最終的に与えるのは「創造主」である。
一神教の神なのだ。
そういった国々と、アジアの国々が共有できる価値観があるとすれば、
それは「子ども時代」なのではないか。

どんな文化の人でも、子どもたちを見れば、そこに「人間の希望」を見るだろう。
子どもが、子どもらしく、安全に、安心して暮らせること、
幸せな子ども時代を過ごすことに、人間にとってもっとも大切な価値を見るだろう。

そこから、子どもが子ども時代を過ごすのにふさわしい環境、社会のあり方、
さらには国際社会のあり方を考えていく。

それは「唯一絶対の神」に代わる、新しい価値観になるのではないか。

私たちは、だれもがかつては子どもだった。
だから、子ども時代はすべての人の精神的財産であり、生きる力の源泉である。
その価値は、宗教の違い、思想や文化の違いにかかわりなく、
すべての人に共有されるうるのではないか。

アメリカでは、大統領が神に祈りを捧げてから他国を侵略したりするが、
それも神への依存だし、不自由な態度だ。
これからの人間には、自分の行動を正当化するための神ではなく、
自分が自分を肯定し、自己決定するための価値観が必要だろう。

今、必要なのは、神に祈ることではなく、
自分自身が「大人になる」ことだ。
子ども時代の大切さを意識したとき、
私たちは自分が子どもに還るのではなく、
今、目の前にいる子どもたちを守る大人になる。

以前、「謝罪」について書いたが、
アメリカがもっとも謝罪すべきは、子どもたちに対してだと思う。
広島や長崎への原爆投下は、大人がやることじゃない。
武器開発も、原発推進も、対米追従も、自立した人間のすることではない。

いい大人なのに、研究に夢中になり、その責任を取りきれなかった科学者たち、
不安にかられ、自尊心や人種差別や辻褄合わせから行動した政治家たちは、
まずは子どもたちに謝るべきだ。
そして、かつて子どもとして大切な人生を始めたすべての人々に。

やっぱり問題は「神」にあると思うのだ。
ニーチェが「神は死んだ」といったその神は、いまもゾンビのように生きている。
国家、企業、共同体、家族、ありとあらゆる集団は、
個人を呑み込むかぎりにおいて「神モドキ」となる。
そこでは人間は、自分の名前ではなく、国家や企業の名のもとに行動する。
自分が決めたことだからではなく、
何かのため、誰かのためという理由で。
そのとき、人は責任の一端を「神」に委ねる。
その最たるものが戦争や死刑であって、
そこでは人はもはや個人の人格をもっていない。
国家の名のもとに人を殺すのだ。

謝罪は、相手のために行うものではなく、
自分自身が「変わりたい」という意志をもつこと、
そして、その意志をもつきっかけを与えてくれた相手にそれを伝えることだ。
謝罪とは、実は自立への意志なのだと思う。
それまで捉われていた状態を認識し、そこから脱却すること、
そのために日本もアメリカも、自分が虐げた相手に謝罪すべきだ。
本当の意味で独立するために。

真の謝罪は、大人が子どもに、
男性が女性に(あるいは男性性が女性性に)対してなされるのではないか。
それは一方が悪かったからお詫びをするというだけではなく、
真の自由を求める側が示す「認識の行為」であり、
その機会を与えてもらったことに対する深い感謝でもあると思う。

そのとき、たとえば未来の国際社会では、
神=創造主を根拠とするのではなく、
子ども時代に対する私たちの「認識」を根拠として、
子どもたちに生存、自由、幸福追求の権利を保証することができるだろう。
そして、子どもたちが安心して過ごすためには、
大人自身が安心して、自由に、幸せに生きている必要がある。

それがぼくのなかの「おんなこどもの知性」が行きついた、
「子ども時代」の価値観だ。

以上の考えを、
現在の不安きわまりない日本の状況のなかで、
自分自身の心に刻みたいと思う。

子ども時代ふたたび~天皇と個人~

2015-08-16 01:43:38 | 十字架に眠る幼子
子どもが幸せな社会って、どんな社会なのだろう?

そう自分に問いかけながら、
赤坂真理さんの『愛と暴力の戦後とその後』を読んだ。
たぶん私とほぼ同じ世代の人だからかもしれないが、
私自身が自分に問いかけてきた日本のアイデンティティーについての問いが、
ほぼ共通の文脈のなかで問いかけられていた。

ほぼ共通の文脈というのは、「天皇」と「神」のことだ。
そして、日本語...。

私が特に印象深く感じたのは、「消えた空き地...」というところ。
私が子どもの頃も、まだ空き地は残っていた。
自転車に乗る練習をしたのも、凧をあげたのもその空き地だった。
子ども時代の原風景と言えば、言えるのかもしれない。

私が特に共感したのは、
赤坂さんが地域の公園の改修を検討する委員会に参加したくだりだ。
結局は、だれも責任をとりたくなくて、
だから無難な「管理」へと流れていくなかで、
彼女は「大人とは責任を引き受ける人のことだ」と考え、
「私は大人になりたい、と心から願った」という。
そこに私は本当に共感した。
「『何かあったら責任は私がとるから、君らは遊べ』
と言える大人がいなかったら、子どもは殺される」という赤坂さんの言葉に。

思うに、子どもが幸せな社会というのは、
責任を引き受ける大人たちのいる社会ではないのか。

私自身、自分の責任感のなさには自分でもいやになるが、
それでも何かあったときには、歯を食いしばってでも責任をとろうと思う。
そして、この一点が、私がシュタイナーを信頼しているところなのだと思う。

彼は「教育者のモットー」として、
「自分自身をファンタジーの能力で貫け」
「真実への勇気を持て」
「心のなかの責任への感情を研ぎ澄ませ」と言った。

ファンタジーというのは、柔軟な想像力ということだ。
そして、大勢が一方向に押し流されているときも、自分が真実と認識したことの側に立つ勇気。
そして、責任感。

その三つの特性を義務としてではなく、
自分の欲求として、また感覚や感情として身につけているのが教師だという。

私はこれまでの人生のなかで何度、この「真実への勇気」という言葉を自分に言い聞かせただろうか。
言い聞かせなければならないというのは、それだけ自分に勇気がないことの証でもあるが、
それでもシュタイナーのこの言葉があったから、私は発言しづらい空気のなかで発言したり、
白い目で見られそうな場所で問いを発したりした。

それがこれほどまでに困難なのは、
やはりこの国では、天皇が戦争の責任をとれなかったことが大きいと思う。
そして、そういうことがあるから、
私は、アントロポゾフィー運動の代表的な人たちが「自分には責任がない」というとき、
どうしてもそれを受け入れることができなかった。

アントロポゾフィーがこの日本で役立つことがあるとすれば、
それは赤坂さんのいう「責任を引き受ける大人」がひとりでも増えることにあると思うから。

原発の再稼働は、環境問題にとどまらない。
安保法案=戦争法案は、平和問題にとどまらない。
それは無責任な大人たちの姿をさらすことで、
子どもたちの未来への希望を奪うことだ。
そこに最大の罪があると、私は思っている。

そう思ったとき、
私は、シュタイナーが「心の中の責任への感情を研ぎ澄ませ」という表現をしたことに改めて注目する。
そして、気づいたのだ。
これは「心的責任性への感情」と訳すべきだったと。

彼が言っていたのは、曖昧な責任感のことではなかった。
おのれの心が、何に対して責任を感じるか、
自分は何に対して責任があるか、その感情を研ぎ澄ませというのだ。

そして、私は思う。
私は、沖縄に対しても、原発再稼働に対しても、安保法制をめぐる議論に対しても、
「責任」を感じている。
それは直接的な責任ではないかもしれない。
けれど、私の心は自分の「責任性」を感じている。
それがシュタイナーのいった「心的責任性の感情」ということではなかったか。

日本の敗戦から70年のこの夏、
私はこのように考える。

私は自分が以前から唱えていた「万人天皇説」を実践してみようと思う。

近代日本の特徴は、それがプロイセンの憲法に倣い、
即席で大日本帝國憲法をつくり、その中心に天皇を据えたことにある。
それはヨーロッパのキリスト教に代わる、精神的基軸となるべきものだった。

トマス・ジェファーソンが起草したアメリカの独立宣言においても、
基本的人権の根拠は神=創造主とされている。
「われわれは以下の真実を自明のものと見なす。すなわち、すべての人は平等に創られ、
創造主によって一定の奪うことのできない権利を与えられていること、
そしてそれらの権利のなかには、生命、自由、幸福を追求する権利が含まれていることである。」

それではそういった神を信じない人々は、何を基本的人権の根拠とすればよいのだろうか?

日本の場合は、それを天皇に求めた。
だから日本の憲法は、明治憲法も現行の憲法も、天皇をめぐる条項から始まっている。

日本の天皇は、明治において西洋の一神教的な神にされ、
その後の戦争は、この神の名において戦われた。
以前も書いたように、
私は、いわゆる「人間宣言」において天皇が、
「天皇を神とし、日本民族が他の民族より優秀であり、だから世界を支配すべき運命にあるという架空の観念」を否定したことは、
天皇自身にとっても、日本人一般にとっても、いわば擬似的な「キリスト体験」だったのではないかと考えている。

急ごしらえで一神教の神となった天皇は、
原爆投下を含む太平洋戦争を経て、こんどは人間として生きることになった。
そして、憲法では「日本国と日本国民の統合の象徴」とされる。
そして、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」のである。

私たちが天皇を、私たちの象徴として認めるのである。

だとすれば、いわばキリストが一人ひとりの人間の魂のなかに生きているように、
天皇もまた、私たちがそのように意識すれば、私たち一人ひとりのなかに生きることになるだろう。

天皇は、私たちの象徴なのだから、
実は、私たち一人ひとりが天皇だということになる。

そして、もし私たちが天皇であるなら、
天皇が引き受けられなかった戦争への責任を、
私たち一人ひとりが引き受けることができるだろう、もしそれを望むのであれば。

そうでなければ、私たち日本人は、いつまでも「戦争責任を引き受ける人が不在」のまま、過去に向かわざるをえない。

責任は自我の能力である。
天皇はいわば日本国民の自我であったが、戦争の責任を取ることが許されなかったために、
日本人全体がその自我の働きを抑圧することになった。
それが現在の日本の状況なのだと思う。

天皇は、今、精一杯「象徴」としての役割を引き受けていると思う。
そうであれば、天皇の象徴としての地位を認めている一人ひとりの私が、
戦争への責任を自覚することが可能だろう、
あるいは今の天皇と皇后が感じている「痛み」を私たちが共有することが可能だろう、
「日本人はすべて天皇なのだ」という自覚をもって。

皇居に住んでいない私たちがどうやって天皇になれるのかと言われるかもしれないが、
天皇が日本国と国民統合の象徴なのであれば、
天皇は、私たちのあり方を象徴しているのである。
それは、天皇は私たちとイコールだということだ。

戦争責任を引き受けるといっても、もちろん無意味に自分を責めたり、傷つけたりするということではない。
日本人としての自覚をもって、過去に目を向け、
そこで日本が引き起こした痛みを少しでも感じ取ろうとすることだ。
それは、自分を否定するためではなく、
日本人として誇りと尊厳をもって、大人として再出発するということである。

昭和天皇が戦争責任を引き受けられなかったことは、すでに過去の事実であり、それを変えることはできない。
けれども、日本人の自我、日本のアイデンティティーを回復するための道は、
私たち一人ひとりの内面にあるのではないか、と思う。

私はなんとか、日本人として、私のなかから新しい一歩を踏み出したいと思う。

なぜ日本はアメリカに謝罪を求めるか?

2015-08-15 18:12:07 | 十字架に眠る幼子
戦後70年目の8月15日は、何とも重い夏の日だ。

昨日のあまりにも空虚な首相談話を聞いた後、
今日の全国戦没者追悼式での天皇の言葉を聞くと、
「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ」という表現に胸を打たれた。

もちろん、天皇の言葉のなかに「さきの大戦への深い反省」という表現が入ったことも大きかった。
けれど、それ以上に、「国民の意識」という言葉は痛切だった。
戦後の、我が国の平和と繁栄を支えたのは、
「国民のたゆみない努力」とともに、「平和の存続を切望する国民の意識」だった。
意識、意識、意識...。

すべての基本に意識がある。
私が私であること、私が日本人であること、
私が原発に反対であること、戦争法案に反対であること、
そのすべては意識なのだ。

天皇の言葉は、今の日本国民への願いのようにも聞こえた。
結局は、私たちの意識が現実をつくっていく。

今の日本の政治の核心に、「謝罪」という言葉がある。
安保法制をめぐる議論の背景にも、
アジアの国々への謝罪の問題がある。
要は、信頼が回復していないのだ。
だから、有事の際に、隣国ではなく、アメリカを当てにせざるをえない。
でも、日米同盟の基盤に「信頼」はあるのか?

実のところ、
日本は、広島と長崎に原爆を落としたアメリカを信頼しているのか?
おそらくは、中国と韓国が日本を信頼していない以上に、
日本はアメリカを恨み、拭い去り難い不信感を抱いているのではないか?
だから、ここまで極端な「対米従属」路線をひた走るのだろう。

改めて、こういうことを考えた。
日本は本気で、アメリカ合衆国に「謝罪」を求めるべきなのではないか?
広島、長崎への原爆投下に対する謝罪だ。
本当に「戦後処理」を考えるとき、
日本による中国、韓国、フィリピンなど、アジア諸国への謝罪、
そして沖縄の人々への謝罪とともに、
アメリカによる日本の一般市民への謝罪も合わせて求めていく必要があるのではないか?
戦後処理とは、関係者同士による信頼回復に他ならないのだから。

これに関して、すでにどのような運動があるのか、
またアメリカによる謝罪がどうすれば可能になるのか、今の私にはわからない。

ただ、今の日本政府がアメリカからの謝罪など求めていないことは確かだ。

ウィキリークスが2011年に公開した2009年当時のクリントン国務長官へのルース駐日大使の報告では、
オバマ大統領が広島を訪問し、戦争を終結させるために原爆を使用したことを謝罪するという意向に対して、
当時の藪中外務次官が、反核団体の期待が高まっているなかで、それは「得策ではない」(non-starter)と言って断ったらしい。

政治的な問題として、アメリカの謝罪を引き出すことは簡単ではないだろう。
けれど、私たちの「意識」の問題として、
日本はアメリカから謝罪を求めるということを考えていくのは、とても重要なのではないか。

私自身は、そのことを真剣に考えていきたいと思う。

なぜなら、謝罪というのは、相手のために行われるだけではなく、
自分自身が変わることだと思うからだ。
相手の受けた苦しみや悲しみを理解し、想像力を働かせることで、
それまでの自分の頑なさから解放されることでもあるだろう。

今、世界におけるアメリカの振る舞いを見ていると、
一番変わる必要があるのは、アメリカだと思う。

アメリカには極端な二面性がある。
一方では、その銃社会に象徴されるように、
果てしのない不安に裏打ちされた攻撃的、支配的な性格であって、
それは「世界の警察官」を自認する姿勢に現れている。
それは権力や富の集中にもつながる側面だ。

他方では、公民権運動やヒッピー文化を成立させ、
つねに時代の先端で、
表現の自由を通して新しい価値観を生み出していく創造性がある。
アメリカの理想主義ともいえるかもしれない。

現在の日本国憲法の草案をつくったGHQの人々のなかには、
まさしくそのような理想主義が生きていたと思う。
その理想主義が、日本の人々のなかに草の根的に育ちつつあった民主的精神と結びついて、
戦後日本の精神的基盤を用意したのだ。

私たちが、日本国憲法を守ることは、
我が国の民主主義を守るだけではなく、アメリカの理想主義を守ること、
アメリカにおいて押しつぶされそうになっている精神性を呼び覚ますことでもあるだろう。

そのためには、アメリカも、他国の人々の力を必要としている。
ちょうど日本も、中国や韓国から過去の問題を突きつけられることで、
たえず目覚めることを余儀なくされるように。

たとえば、私が思い描くのは、
日本の首相が国連で演説し、
アジア諸国に対して「われわれは必要であれば未来永劫にわたって謝罪し続ける用意がある」と明言し、
そのうえで、
「アメリカ合衆国には、広島、長崎への原爆投下について、それが一般市民に対する戦争犯罪だったことを認めて謝罪してほしい」
と発言するようなことだ。

ありえない、と思われるかもしれない。

でも、かつて旧西独のヴィリー・ブラント首相が、
ポーランドのワルシャワでユダヤ人ゲットー跡地に跪き、献花したようなことが、
アメリカ大統領によって広島や長崎でなされることはありうるだろう。
そこに意識的に道をつけていくことができるのではないか。

現在の韓国や中国との関係、また不条理な原発や米軍基地をめぐる状況が本質的に改善されるためには、
「アメリカからの謝罪」のような新しい要素が必要なのではないだろうか。
そもそも日本政府は、沖縄の人々に対しても深く謝罪しなければならないと思うが、
そういったことも「アメリカの謝罪」という要素によって本当に意識されるのではないか。

私は、韓国の日本文学者・朴裕河さんのツイッターで
「謝罪は新しい価値の創造」という言葉に接し、その後、著書『帝国の慰安婦』を読んでから、
「新しい価値はどのようにして創造されるのか?」を考えてきた。

今、その「新しい価値」は、まず私たち一人ひとりの「意識」のなかでつくられていくのだ、と思う。
だから、私は、まずはこの「日本はアメリカに謝罪を求める」という考えをここに記しておきたい。

今、川内原発は再稼働され、
国会で審議されている「安保法制」をめぐっても、
本当の「日本人の意志」は政治には一切反映されないように見える。

しかし、人々はー若い世代もーたしかに目覚めつつある。

要は、日本は変われるのか、ということであり、
それは、自分は変われるのか、ということに尽きるのだと思う。
そして、今、私自身を含め、現実にぶつかりながら目覚めようとしている人たち、
あえて古い自分を手放し、変わる勇気を奮い立たせている人たちが出てきていると思う。

多くの場合、問いを突きつけるのは、女性や子どもたちだ。
謝罪を求めるのは、つねに弱い側だ。
強い側が謝罪を求めるとすれば、それは支配と抑圧でしかない。
けれど、弱い側が謝罪を求めるとき、そこには自己の尊厳を守り抜こうとする貴い意志がある。
それこそが民主主義の基盤なのではないか?

そして、日本は、自分が支配した人々に対しては謝罪する側にあるが、
原爆を落とされたアメリカに対しては、謝罪を求める側にある。
政治的な問題というよりも、アメリカにとっての倫理的な課題として問いかけていくことはできないだろうか。
それを通して、日本の意識も変わるだろう。

結局、支配・被支配はたえざる連鎖だ。
けれど、謝罪を通して、自己を変容させる意志が目覚めたとき、
それは「進化」の力になると思う。