猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ④

2014年04月21日 18時03分03秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 いけとり夜うち ④

  矢口の四郎友定は、秋友と別れて、泣く泣く大和の国へと帰りました。御台所や若君、一門の者達が集まると、友定は、

 「我がお殿様の事を、内裏に讒言した者がおり、無念にも、日向の国に流罪となりました。」

 と、形見の文を手渡すのでした。御台も若君もわっとばかりに泣き出しました。御台様は、

 「いったいどういうことですか。この先、我々はいったいどうなってしまうのですか。」

 と、泣き崩れて口説くばかりです。弦王丸は、健気にも、

 「そんなに嘆き悲しんでは、お体に触ります。少しの間、雪に埋もれたとしても、松は松です。再び、宣旨が下ることもあるかも知れません。さあ、起きて下さい、母上様。」

 と、母を励ますのでした。さて一方、秋友流罪の知らせを聞いた郎等達は、憤慨し、

 「例え、勅命とはいいながら、罪も無い我が殿を、理不尽に流罪にするとは何事か。軍勢を集めて、殿様を奪い取りに行きましょう。それから城郭を構えて、戦うならば、幾万騎攻めて来ようとも、そう簡単には負けますまい。こちらに罪の無いことが、分かってもらえれば本望です。さあ、早くご命令下さい。」

 と、弦王丸に詰め寄りましたが、弦王丸は、

 「皆の言う事は、武士の本懐ではあるが、所詮、私戦でしかないぞ。昔から、朝家に弓引く野心の者は、山背大兄王、守屋の大臣(物部守屋)、文室の宮田麻呂(ぶんやのみやたまろ)、氷上川継(ひがみのかわつぐ)、伊予親王(いよしんのう)太宰の少弐、藤原の弘嗣(だざいのしょうに、ふじわらのひろつぐ)、早良親王(さわらしんのう)、平の将門、安倍の貞任、宗任、その外二十四人、遂に一人として、本懐を遂げた者は無い。朝家に対して弓を引くなどと言うことは、思いもよらぬこと。もし、父秋友や私の首が刎ねられ、屍が山野に埋められようとも、我等には、全く不忠の無い事を、申し開いてもらいたい。そうすることこそ、長く後の世に、名を残す事になるのだ。」

 と、涙ながらも、冷静に諭すのでした。これを聞いた一門の人々も、衣の袖を絞りながら、若君の仰る通りだと、打ち萎れて帰って行きました。それから若君は、友定に、

 「きっと、都から勅使がやって来ることだろう。遠侍(とおさぶらい)に沿道を掃除させよ。」

 と命ずるのでした。屠所の歩みの近付くのを、待ち構えている若君の心の内はなんとも哀れです。

  さて其の頃、都で幽閉されていた秋友は、警護の武士に付き添われて、西海道を下って行ったのでした。大内山の山守りも、これ程までに、惨めな思いはしなかっただろう。(※不明だが、大内守護の源の頼政が以仁王の挙兵で敗北を喫したことを指すかも知れない。)

 《以下、道行き》

 東寺、西寺、四ツ塚や(いずれも京都市南区)
はこの世を秋の山
六田(むつだ)の夜半の虫の音も(京都市南区:菅原道真所縁の六田社)
早や、枯れ枯れになりぬれば
いとど、哀れぞ、優りける
猶、それよりも行く程に
末を遥かに眺むれば
八幡の山に霞み棚引きて
石清水にや濁るらん(京都府八幡市:石清水八幡宮)
解得解脱救世ゆるき(かいとくげだつくぜゆるき)(ゆるき:不明)
真如の月の影清く
心尽くしに生きの松
我をば泊めよ埴生の小屋
御法(みのり)の舟の通う時
心も澄める折からに
池の清水に影写す
世の中の澄み濁るをや
神ぞ知るらん男山(京都府八幡市:石清水八幡宮)
忝くも、この御神
人皇始まり給いて後
十六代の尊者たり(十五代応神天皇の間違いと思われる:石清水八幡宮の中御前)
御裳濯川(みもすそがわ)の底清く(一般には、伊勢神宮内の五十鈴川を指す)
再び、故郷に帰してたべと
心ならずも伏し拝み
さて、灯籠の河原の宮(川原宮であれば、奈良県明日香村川原を指す)
聞く陰陽の風の音
真意の玉や磨くらん
昔、男のねに泣きし
鬼の一口の芥川(伊勢物語、芥川の段)
しどろもどろに流るらん

(※以上、長い都の中での記述は、難解で、良く意味が良く分からない。)

在りし都を立ち出でて

一夜、仮寝の宿は無し

鳥は鳴けども、如何なれば

身を限りとや嘆くらん

濁れり時はなのみして(?)

晒す甲斐無き布引や 

たぎつ白波、響くらん 

筑紫下りの道すがら 

習わぬ旅の憂き枕 

思いやるこそ悲しけれ 

和田の岬を巡れば(和田岬:兵庫県兵庫区) 

海岸遠き松原や 

傾ぶく月の明石潟(兵庫県明石市) 

潮路も波は、高砂や(兵庫県高砂市) 

尾上の松の夕嵐(兵庫県加古川市) 

室山降ろし、いよいよ激しくも(兵庫県たつの市御津町室津) 

憧れ来ぬる我が心 

誠に旅は、牛窓や(うしまど:岡山県瀬戸内市) 

げに荒気無き武士(もののふの)の 

梓の弓に、鞆の浦(とものうら:広島県福山市) 

名所旧跡、打ち過ぎて 

長門の港(こう)に赤間関(あかまがせき:山口県下関市) 

紅葉散るらん志賀島(しかのしま:福岡県福岡市東区) 

名護屋を出でて、瀨戸を行き(佐賀県唐津市) 

平戸の大島、打ち過ぎて(長崎県平戸市、的山大島(あづちおおしま)) 

松は弥勒寺、しずの里(不明:大分県宇佐市、宇佐弥勒寺のことか?) 

やがて帰洛を祝うが島(不明) 

ゆきのもと折り通るにぞ(不明) 

消えゆるばかりの我が心 

都出でて、今日は早や 

四十二日と申すには 

日向の国、土佐の嶋にぞ着き給う(宮崎県) 

長崎から宮崎までの旅程は解読できず。又、流刑地である土佐の嶋というのも不明) 

土佐の郡司三郎太夫 

やがて、受け取り奉り 

良きに労り申しける 

秋友が所存の程 

哀れとも中々、申すばかりはなかりけり 

つづく

Photo_2

 


忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ③

2014年04月21日 10時58分42秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

いけとり夜うち ③

 本江の左衛門師方は、偽の名乗りをして、別当定吉を滅ぼした後、讒言をするために上洛したのでした。師方は参内すると、こんなでたらめな奏聞をするのでした。

「大和の守護、守屋の判官秋友は、驕り高ぶって、自ら王と名乗り、近隣の四カ国の武士を従えて、都へ攻め上り、御門を四国に追い落とし、天下を手に入れようとしております。此の度、同国大和の住人、別当定吉は、この企てに加わらなかった為に、夜討ちに合って滅ぼされてしまいました。私は、河内の国の本江左衛門師方ですが、近国ですので、いつ秋友が攻め込んで来ても良いようにと用心をしております。朝家も御油断をなさらぬように。」

との、まことしやかな讒言に、御門は驚いて、

「それは、大逆罪である。先ずは、秋友を言いくるめて、参内させよ。」

と命ずると、師方には、注進の恩賞として、河内の国の中で三百町歩を与えました。御判を戴いた師方は、しめしめと、三河の国へと帰って行ったのでした。

 さて一方、大和の国へ勅使が立ちました。勅使は、秋友にこう伝えたのでした。

「内々、お望みであった中納言を許す事になったので、急いで上洛されよ。」

秋友は、この宣旨を喜んで、

「おお、これは有り難い次第。それこそ、生きての面目、死しての喜びで御座る。これ以上の名誉はありません。」

と答えるのでした。秋友は、御台所や弦王丸、一門の人々を集めて、

「皆の者、聞きなさい。此の度の都よりの宣旨で、中納言に任命されたぞよ。そもそも、我等が大和の国の春日大明神とは、天児屋命(あめのこやね)をお祀りする。天照大神をお助けするのが天児屋命の使命であるから、我等も、天孫降臨の末裔である御門に対して決して逆らってはならぬぞ。」

と言い残すと、上洛して行ったのでした。衣紋を正して、参内した秋友でしたが、哀れな事に、内裏にも入らぬ内に、検非違使(けびいし)の侍に取り押さえられてしまいました。幽閉された秋友は、最初、人違いであろうと、只呆れていましたが、今度は次のような宣旨が下りました。

「秋友は、長い間、忠臣であったので、死罪は許し遠流とする。流配先は、日向の国。」

という内容でした。これには秋友も観念して、

「むう、この上は仕方無い。国へ形見を送ることにするので、しばしの時間をいただきたい。」

と願い出ると、番人も不憫と思ったのでしょう。戒めの縄を解いたのでした。なんとも無残な次第でしたが、秋友は、一番信頼できる家来の矢口の四郎友定を呼びました。

「友定、頼みが有る。お前は、これより国元に帰り、弦王丸にしかと伝えるのだ。私がこのような罪を着せられる以上は、弦王丸にも必ずその罪は及ぶと伝えよ。例え、その罪が及んだとしても、前世の報いと受け入れて、決して御門を恨んではならぬ。我等は、御門のご恩を被って、現在の様な過分の位まで進むことができたのだ。しかし、その為、我等を恨む誰かが、我等を陥れる為に、讒言をしたとしか思えない。だが、決して神は、非礼を受け入れる事は無い。朝家に仕え、日々、天に祈ってきたことは、決して無駄にはならないはずだ。そのことを、よくよく話して聞かせるのだぞ。」

と秋友は、冷静に話をしましたが、堪えきれずに悔し涙を流すのでした。友定も、共に涙に暮れていましたが、

「形見のお遣いには、誰か若い者をやって下さい。私は、最期までお殿様のお供をいたします。」

と言って、言う事を聞きません。秋友は、重ねて、

「お前が言う事も分からないでは無いが、この様な身となった今、お前を連れて行っても用は無い。それよりも、弦王丸の事を頼みたい。これこそ、誠の忠臣の役目だぞ。」

と、諭すのでした。とうとう友定は、泣く泣く都を離れて、大和路を下って行ったのでした。

兎にも角にも、秋友の心の内の無念さは、言い様もありません。

つづく

Photo