猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語 30 古浄瑠璃 生け捕り夜討ち ⑥ 終

2014年04月24日 15時07分38秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

いけとり夜うち ⑥ 終

 罪も無い秋友を讒言によって陥れた本江の左衛門師方は、一旦は栄華に栄えました。翌年の夏の頃のことです。南面の花園でくつろいで居た師方は、弦王丸が助命された事を聞いて、飛び上がって驚きました。直ぐに小二郎を呼びつけると、

「弦王丸が助かったというのは、本当か。何としても、弦王丸を殺せ。」

と、命ずるのでした。小二郎は、

「傍に仕える友定兄弟は、一騎当千の強者ですから、正面切っても、そう簡単に討ち取ることはできないでしょう。私に良い考えがあります。上野山の山賊に化けて攻め込んで、宝物などをわざと取り散らせば、我々の仕業とも分からないでしょう。」

と、再び策を弄するのでした。師方が、流石は小二郎などと褒めるので、小二郎は更に、

「それでは、内々に二十人程の手勢を下さい。」

と、頼みました。こうして、小二郎を総大将とする二十四人は、山賊に化けて上野山へと向かったのでした。

 小二郎達は、夜の更けるの待って、僧正の宿坊へと忍び込みました。友定兄弟は、物音に気が付いて、物陰から良く見てみると、屈強の男どもが忍び込んで来るではありませんか。

「狼藉者。逃がすな。」

と言って、斬り掛かりました。小二郎は、これを見るなり、松明を投げ出して逃げ出しました。弦王丸と友定兄弟は、これを最期と覚悟して戦ったので、夜盗に化けた、小二郎方の者達は、大勢討たれてしまい、その中の一人が生け捕りにされました。僧正は、

「おそらく、上野山の夜盗であろう。」

と言いましたが、友定は、

「いや、この者達には何かもくろみがあるようです。水火の責めをして吐かせてやろう。」

と、睨むのでした。すると、その男は、

「命を助けてくれるのなら、正直に申します。私は、河内の国、本江の左衛門師方の家来です。」

と、命乞いをするのでした。これを聞いた人々は、

「師方の家来が、なんで盗賊に一味しているのだ。」

と、問い正すと、この男は、これまでの師方の悪巧みを、全て白状したのでした。人々は、

横手を打って、納得し、

「成る程、これで分かった。これこそ天の恵みである。この男は、まるで夏の虫だ。全く誠実な者には、必ず仏神の助けがあり、罪の有る者は、自ずとその身を焼くというではないか。今夜の夜討ちがなければ、敵を知ることはなかっただろう。」

と、言って喜び合いました。そして、僧正が、

「急いで上洛し、この者を証拠として、早速に奏聞したしましょう。」

と言うので、一同は、急いで上洛するのでした。都に着いた一行は、直ちに参内して、この件を奏聞するのでした。公卿達の詮議があって、その証拠を示すようにとあったので、僧正は、かの捕虜を御前に引き出して、小二郎の武略によって、別当定吉を滅ぼしたことを始めとして、終わりまでの子細を、証言させたのでした。御門は、

「今はもう、疑う所は無い。師方を討て。」

と宣旨が下り、兵一千余騎を下されたのでした。

 直ちに、弦王丸は、河内の国へと押し寄せて、師方館を一千余騎で取り囲み、鬨の声を上げるのでした。弦王丸は、

「只今、ここに押し寄せた大将軍は、秋友が一子、弦王丸である。御門よりの宣旨を受け、本江の左衛門師方を成敗いたす。早や早や、腹を切れ。」

と、名乗りを上げます。師方は、

「かかれ、討て」

と下知をしますが、多勢に無勢、とうとう全滅です。諦めた師方は、小二郎に、介錯を頼んで自刃しようとしましたが、弦王丸は、生け捕りにさせました。

 人々は、師方と小二郎を絡め取ると、再び上洛して、奏聞するのでした。御門は、

「この者達二名は、そちに取らせる。先ず、秋友を至急、呼び戻せ。」

との宣旨です。早速に父、秋友は、都に召し戻され、弦王丸との涙の対面をするのでした。そして、御門から、

「罪も無い武士を、長い間、流人にして申し訳無かった。以前の本領は、全て安堵する。」

と宣旨が有り。本領安堵の御判が下ったのでした。秋友は、友定に、

 二人の罪人の首を、大掻きに掻き落とせ」

 と、命じました。人々が、師方と小二郎を、河原に引き据えると、師方は、きっと顔を上げ、

 「ええ、いまいましい。今、このように首刎ねられても、死んでも尚、鳴る雷となって、呪ってやる。」

 と、喚きます。小二郎は、これを聞いて、

 「なんと、浅ましいお心でしょうか。この世では、首を切り落とされても、来世では、必ず成仏して下さい。南無阿弥陀仏・。」

 と、諫めるのでした。取り囲む武士達は、

 「ええ、つべこべ言わすな。」

 と、ばっさりと、首を打ち落としてしまいました。その後、秋友は、元の場所に数々の館を建てて、富貴の家と栄えたのでした。昔の家来達も、我も我もと戻って来ました。あんまり沢山の人々が集まったので、馬が立つ場所さえ無い程でした。かの秋友の心の内はいかばかりだったでしょうか。感激しない人はありませんでした。

 (寛永二十年(1643年)やなぎのばば 藤吉開板)

 おわり

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