猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(6)終

2014年03月14日 15時28分22秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あぐちの判官(6)終

 御台所は、泣いて暮らしておりましたが、思い余って、春日大社へお参りすることにしました。

「南無や、帰命頂礼。(きみょうちょうらい)どうか、我が子重範に逢わせて下さい。」

と涙ながらに祈るのでした。主従四人は、その日、春日大社にお籠もりなりました。すると春日の大明神は、ありがたいことに、この様子を哀れにお思いになられ、翁の姿となって枕元に立たれたのでした。

「なんと不憫な者たちじゃ。お前が尋ねる重範は、兵部の追っ手に寄り、芦屋の浦で既に死んだぞよ。又、夫の判官も、兵部が調伏したために、命を落としたのだ。さあ、これから後は、もう嘆くのをおやめなさい。弟若をしっかり育てるのです。やがて、本望を遂げさせてあげますから、命を大事にするのですよ。」

と言い捨てて、神は天上へと昇られたのでした。主従四人は、夢から覚めて、かっぱと起き上がり、あら有り難やと礼拝すると、又宿へもどりました。

 しかし、人々は、次第次第に、餓え疲れ、とうとう、路頭に迷出でて、乞食と成り果てました。都の人々は、珍しい乞食が居ると言って、慈悲深く施しをするのでした。そんなある日、四人の人々が、春日大社の辺りで物乞いをしていると、横佩(よこはぎ)の右大臣豊成(藤原豊成:とよなり)が、春日大社に参籠するために、大勢の共を引き連れてやって来るのでした。右大臣は、乞食を見つけると、

「珍しい乞食もあるものだ。どうやら、この者共には、何か訳がありそうだ。おい、尋ねてみよ。」

と、命じました。郎等一人が駆け寄って、

「おい、お前達。お殿様の仰せであるぞ。何処の国の何者か。」

と言うので、御台所は、これこそ、名乗りをする良い機会と心得て、涙混じりに、有りの儘に名乗り上げるのでした。

「私どもは、筑紫、筑前の国、安口の判官重行の妻子です。このような姿となったのは、外でもありません。今から八年前、我が夫の重行殿は、都の警護を務めましたが、国に残った兵部の太夫という者が、国を奪う為に、我が夫を祈り殺し、その上私や、兄弟の若達を殺そうとするので、二手に分かれて国を逃れてきましたが、残念ながら、兄の太郎重範は、追っ手に遭って、芦屋の浦で討ち果てました。私どもは、弟若を連れて、奇跡的に都には辿り着きましたが、御門に奏聞する頼りもありません。もし、不憫とお思いいただくのなら、どうかこの事を、奏聞して下されや。」

右大臣は、これを聞くと、早速に主従四人を連れて参内し、奏聞をしたのでした。御門も叡覧ましまして、

「なんと不憫な事か。そいう事であるならば、その弟若に、本国を安堵するので、急いで討伐の兵を挙げよ。」

との綸言です。その上、三千余騎を付けて御判を下されたのでした。弟重房は、喜んで、早速に、三千余騎を率いて、筑前へと向かったのでした。

 やがて、兵部の館は、重房の軍勢に、二重三重に取り囲まれました。重房軍は、一度にどっと鬨の声を上げます。突然のことに驚いた兵部は、櫓に駆け上がって、

「ええ、狼藉な。いったい何者か。名乗れ。」

と言えば、重房殿は、一軍より、駒で駆け寄せて、大音声に呼ばわりました。

「只今、ここへ進み出でた強者を、誰と思うか。安口の判官重行が子に、次郎重房とは、私のことだ。兵部よ、ようく聞け。おまえの悪事はお見通しだ。天命は既に尽きたぞ。お前の首を刎ねて、父上と兄上の追善供養をするために、これまでやってきたのだ。さあ、尋常に勝負せよ。」

兵部は、これを聞いて、

「なに、それは重房か。やれるものなら、やってみよ。」

と、見下すと、寄せ手の軍から飛んで出たのは、源太夫でした。

「我は、その昔、柏原の竹王丸と申して、判官殿に仕えた者。三世の機縁は朽ちぬ故、この戦の大将を仕る。いざいざ。」

兵部が、掛かれや討てやと下知すると、兵部方の軍勢が、どっと繰り出しましたが、源太夫は事ともせずに、大太刀抜いて切り払います。ここを先途と戦う源太夫には敵なしです。兵部方は手も足も出ません。多勢に無勢、兵部太夫父子三人が諦めて、自害しようとする所を取り押さえて、生け捕りにしたのでした。

 それから、重房は、兵部太夫父子三人を連行して、都へ戻り、成敗の次第を奏聞しました。御門は、

「親の敵(かたき)であるから、処分は重房に任せる。」

とご叡覧なされたので、重房は、源太夫に兵部太夫父子三人の首を刎ねさせました。そして、都に残しておいた母上や乳母を連れて、やがて筑前の国へとお戻りなされました。

 そうして重房は、昔の館の跡に、新しい館を建てて親子二代の栄華に栄えたのでした。源太夫には、此の度の恩賞として、総政所をお与えになりました。そして、昔の家来達も皆戻って、再び仕えたのでした。目出度し目出度しと、貴賤上下を問わず、感心しない人はありませんでした。

おわり

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(5)

2014年03月14日 11時33分32秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 あぐちの判官(5)

 さて一方、御台様は、長男重範が討たれた事を知る由も無く、弟若を連れて、乳母の紅葉(もみじ)一人を供として、下道を落ちて行きました。やがて、御台達は、肥後国の高瀬浦に着きました。(熊本県玉名市高瀬)御台様は、ここから、便船を乞おうとお考えになりました。しかし、なんとも哀れな事ですが、水際には沢山の舟が並んでいると言うのに、事もあろうに、紀州に隠れ無い、人商人の源太夫という者の舟に乗ってしまったのでした。源太夫は人々を見るなり、

 『へへ、これは天のお恵みじゃ。この人々を売り飛ばせば、これから楽に暮らせるわい。嬉しや嬉しや。』

 とほくそ笑むのでした。やがて、人々を舟に乗せると、艫綱をほどいて、出港させました。二三里も、漕ぎ出た頃に、源太夫は、

 「さあさあ、皆さん。良くお聞きなさい。皆様のお姿をお見受け致しますと、何やら訳ありのご様子ですが、幼い子供を連れて、何処へいらっしゃるのですかな。お名前をお聞かせ下さい。私は、情け深い人間でありますので、何処へとも、お送りいたしましょう。」

 と、情け顔をして、騙すのでした。御台所は、

 『もしかして、兵部の一味かもしれない。きっと騙しているのに違い無い。怖ろしや怖ろしや。名乗らない方が良い。』

 と思っていたのですが、情け深い人間だと聞くと、安心して、

 「それでは、名乗りましょう。我々は誰あろう、恥ずかしながら、安口の判官重行の妻子です。」

 と言うなり泣き崩れてしまったのでした。かの源太夫というのは、実はその昔の若い頃、判官殿に仕えていたことがありました。御台の名乗りを聞いた源太夫は、飛び上がって驚き、

 「やや、これは夢か現か。浅ましいことではありますが、私は、その昔、判官殿にお仕え申しあげた、柏原の竹王丸のなれの果てでございます。」

 と言うなり、畏まって涙をぬぐうのでした。源太夫は続けて、

 「さてもさても、判官殿の機嫌を損ねてから、行く当てもなく、人商人となり、この浦に棲み、柏原の源太夫と名乗って、過ごしておりました。今日、御台様達がこの舟にお乗りになったのを、良い売り物が乗ったと喜んでおりました。どうか、お許し下さい。」

 と言うなり、櫓櫂を捨てて、号泣するのでした。御台所は、夢心地で、

 「ええ、お前は、昔の竹王丸なのですか。ああ、それは懐かしいことです。」

 と、又さめざめと泣きました。源太夫は、

 「さて、それにしても、どうしてそのようなお姿をして、何処へ行こうとされているのですか。」

 と尋ねれば、御台様は、

 「実は、こんなことがあったのです。重行殿が、御門の御番で都へ上がられたのですが、ご病気なされて亡くなりました。すると、後を任されていた兵部太夫が、国を横領し、その上、私や若達を殺そうとするのです。そこで、夜半に紛れて、国を逃れました。これから都へ行って、この事態を奏聞するのです。兄の太郎重範は、右近と共に、上道を行かせましたので、なんとか都へ辿り着くことでしょう。さあ、都まで案内しておくれ。竹王丸。」

 と、事の次第を涙ながらに話すのでした。源太夫は、

 「むう、これは、なんとも口惜しい。兵部太夫といえば、判官殿の正しく譜代相伝の家臣ではないですか。そんなことをしたなら、天命からは逃れられませんぞ。ええ、それはともかくも、私は、どこまででもお供を申しあげます。どうぞ、ご安心下さい。」

 と言うと、櫓櫂を立て直し、風に任せて、舟を走らせるのでした。そうして、源太夫は、

 「此の度の、心づくしに、浦々島々、名所旧跡をご案内申しましょう。どうぞ、お心をお慰み下さい。」

 と語るのでした。

 《以下道行き》

 豊後豊前の潮境

 さて、その末に続きしは

 あれこそ、本国、筑前の浦ぞかし

 さぞや恋しく思うらん

 漕がれ(焦がれ)来ぬれば程も無く

 土佐の国に聞こえたる高岡(土佐市高岡町)、幡多(高知県幡多郡)の浦を過ぎ

 心細くも、阿波の鳴門を余所になし

 淡路の島山、漕ぎ来る舟ぞ、面白や

 風に任せて行く程に

 これぞ、播磨の国なれや

 室山降ろし(兵庫県たつの市御津町室津港)激しくて

 波に揺らるる、釣の舟

 思わぬ方に、漕がれける

 御身の上に、思い合わせて

 いとど、哀れを、催うせり

 名は、高砂の浦ぞかし(兵庫県高砂市)

 夜は、ほのぼのと、明石の浦(兵庫県明石市)

 そのいにしえの人丸(柿本人麻呂)の

 昔語りと、打ち過ぎし

 ようよう行けば、これやこの

 津の国に聞こえたる(摂津:大阪)

 兵庫の岬、難波潟、須崎(不明)に寄する波の音

 沖の鴎に、浜千鳥の

 友呼ぶ声は、我を問うかと、哀れなり

 急がせ給えば、程も無く

 日数積もりて、今は早

 津の国に聞こえたる、難波の浦に舟が着く。

 さて、人々は、無事に大阪に到着し、喜び勇んで意気揚々と、更に都を目指したのでした。都に着くと、一行は、とりあえず貧しい者が泊まる木賃宿に暮らしました。太郎重範は、もう既に都のどこかにいるだろうと、都中を捜し回りましたが、見つかりません。明け方から夕方まで、あっちこっちを捜しますが、もう既に死んでいますから、見つかるはずもありません。今日も、疲れ果てて宿に戻ると、御台様は、

 「これほどに、毎日捜し廻ってみつからないのであれば、おそらく追っ手の手に掛かって殺されたに違いありません。ああ、可哀想に。」

 と、泣き崩れました。主従四人の人々の心の内の哀れさは、何とも言い表す言葉もありません。

 つづく

 


忘れ去られた物語たち 27 古浄瑠璃 安口の判官(4)

2014年03月14日 09時45分09秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

あぐちの判官(4)

  さて、嫡子重範は哀れにも、旅の装束を調えて、右近一人を共として、上道を落ちて行きました。

 一方、兵部の太夫は、子供達を集めて、

 「厳重に秘密としたにもかかわらず、どうした訳か、我等の企てが漏れ聞こえたらしく、御台達は逃げたぞよ。なんとも、不思議な事だ。きっと、都へ向かうのに違いない。御門に奏聞されては、我が身の一大事じゃ。直ぐに、追っ手を差し向けよ。」

と言えば、式部の太夫を大将として、強者五十騎ばかりが、人々を追いかけたのでした。

  さて、若君達は、ようやく芦屋の浦(福岡県遠賀郡芦屋町)に辿り着きましたが、式部一行も直ぐに追いついてしまいました。式部は若君を見つけると、喜んで、

「そこを、落ち行くのは、判官殿の御嫡子、重範殿とお見受け申す。何処に落ちようとしておられるのか。早く、自害をなされなさい。さあさあ。」

 と迫るのでした。右近は、重範に

 「やや、もう討っ手が掛かったのか。しかし、予てより、想い設けていたことですので、そんなに驚きなされるな。」

 と言うと、立ち戻り、

 「何だ、そう言うお前は、式部か。珍しい雑言を聞く。昨日までは、正しき譜代相伝の郎等であるのに、なんたることか。天の神の報いは、必ず訪れるぞ。」

 と、対峙しました。式部太夫は、これを聞いて

 「何と、そう言う前は、右近だな。お前こそ雑言を吐く。昔は、そうであったかもしれないが、時と共に、世の中は変わって行くものよ。判官殿は、ご運が尽き果て、命も縮まったのよ。無駄な抵抗をして命を落とすよりも、「名付き」を下げて降参せよ。そうであれば、昔のよしみで命だけは助けてやる。」

 と答えるのでした。その時、嫡子重範は小高い所に立ち上がって、大音声に名乗りました。

 「我を誰だと思うか。安口の判官重行が子、重範とは、私のことだ。郎等の心変わりを恨んではいない。只、我等の善根が少なかったということだ。日頃のよしみに、今一度見参。」

 ところが、式部の太夫は、返事もせず、

 「ええ、無益の論はいらぬわ。いざ、掛かれ、討て。」

 と下知するのでした。寄せ手の軍勢が一度にどっと押し寄せました。右近は、これを事ともせず、達を抜いて応戦しました。ここを最期と、奮戦し、敵の強者二十騎余りを、薙ぎ伏せましたので、残りの軍勢は驚いて、四方へぱっと、退きました。しかし、良くみると、右近も沢山の傷を負っています。流石の右近も、太刀を杖にして、よろよろと、若君の所へ戻りました。右近は、

 「若君様。先ず、この隙に、一足も早く、落ち延びましょう。」

 と促しました。若君は、忝くも右近を肩に掛けて、力の限り逃げて行きます。しかし、式部の太夫は、怖じ気づいて、さっさと館へ逃げ帰ってしまっていたのでした。

  逃げ帰ってきた式部の太夫を見て、兵部太夫は、激怒して、今度は、次郎を大将として追っ手の軍勢を差し向けました。さて、幼い若君は、心は焦りますが、足は進みません。無残にも。右近の尉は深手を負っていたのです。最早、一歩も歩けなくなり、とうとうとある道端に倒れ伏してしまいました。若君は、右近に取り付いて泣くばかりです。そうこうするうちに、既に次郎の軍勢も追いつきました。次郎は、

 「そこを、落ちて行くのは、判官殿の御嫡子、重範殿とお見受け申す。兵部太夫の次男、次郎が見参。どこへ、逃げるつもりか。早く自害されよ。さあさあ。」

 と迫りました。労しい事に、若君が、

 「追っ手が来ましたよ。自害いたしましょう。」

 と、右近を揺すりますが、既に返事もありません。仕方無く、若君は、父の重代の刀をするりと抜くと、先ず、右近の首を切り落とし、返す刀で、自分の腹を切りました。享年十二歳で、明日の露と消えたのでした。かの若君の心の内の哀れさは、なんとも言い様がありません。

 つづく