猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(2)

2014年02月10日 15時37分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

はなや(2)

 なんとも哀れなことですが、花屋長者家房は、萩原の国司の讒奏(ざんそう)によって、失
 意の内に、知る人も居ない、遠国へと流されて行ったのでした。

 《以下道行き:都から相模の国まで》

頃は弥生の末なるに
鴨川、渡れば
夜はほのぼのと、白川や
妻や子供に粟田口(京都市東山区)
京、桐原の駒迎え(※馬献上の行事:桐原は馬の産地で長野県松本)
『逢坂の関の清水に影見えて
今や、引くらん望月の駒(※同様に蓼科産の名馬)』の足音、聞きなるる
紀貫之の歌を踏まえる)
大津打出の浜よりも(滋賀県大津市)
志賀唐崎を見渡せば(唐崎神社)
微かに見ゆる、ひとつ松
類い無きをも思いやり
いとど、涙は堰あえず
消えばや、ここに粟津河原(滋賀県大津市晴嵐)
石山寺の鐘の音(こえ)
耳に触れつつ、殊勝なり
思いは尚も、瀬田の橋
駒もとどろと打ち渡り
雲雀、上がれる、野路の宿(滋賀県草津市野路)
露は浮かねど草津の宿(滋賀県草津市)
雨は降らねど守山や(滋賀県守山市)
曇り掛からぬ鏡山(滋賀県竜王町)
そのかみならのをきなの(不明:その上、奈良の翁のカ)
『鏡山、いざ立ち寄りて、見て行かん
年経ぬる見は、老いは死ぬる』と
詠みたりし、そのいにしえの言の葉まで
思いやられて、哀れなり
愛知川、渡れば千鳥鳴く
小野の細道、摺張り山(滋賀県彦根市)
番場、醒ヶ江、柏原(滋賀県米原市)
荒れて中々、優しきは
不破の関屋の板庇(岐阜県不破郡関ヶ原町)
月漏れとてや、まばらなる
垂井の宿に仮寝して(岐阜県不破郡垂井町)
夜はほのぼのと赤坂や(岐阜県大垣市)
美濃ならば、花も咲きなん
くんせ川(杭瀬川)、大熊河原の松風に(不明)
琴(きん)の音や白むらん
墨俣(岐阜県大垣市)、足近(あじか:岐阜県羽島市)、およいの橋(不明)
光あり、玉ノ井の(愛知県木曽町玉ノ井)
黒田の宿を打ち過ぎて(愛知県一宮市木曽川町黒田)
下津(おりづ:愛知県稲沢市下津)、海津(岐阜県海津市)を過ぎ行けば
名を、尾張の国なる
熱田の宮を伏し拝み
何と、鳴海の汐見潟(愛知県名古屋市緑区鳴海町)
三河の国の八つ橋や(愛知県知立市八橋町)
末を、何処と、遠江(静岡県西部)
浜名の橋の入り潮に(浜名湖)
差さねど登る、海女小舟
我が如く、焦がれて、物や思うらん
南は滄海、満々として、際も無し
北には又、湖水あり
人家、岸に連なって
松吹く風、波の音
何れがのりの炊く火ぞと
打ち眺めて、行く程に
明日の命は知らねども
今日は、池田の宿に着く(天竜川渡し場:静岡県豊田町池田)
袋井畷(静岡県袋井市)、遙々と
日坂行けば(静岡県掛川市日坂)、音に聞く
小夜の中山、これとかや
神に祈りは金谷の宿(静岡県島田市金谷)
松に絡まる藤枝や(静岡県藤枝市)
一夜泊まりは岡部の宿(同藤枝市岡部町)
蔦の細道、分けて奇異なれ
衣、打つ(宇津)の山
蔦の細道は宇津ノ谷越えの古道)
現や、夢に駆くるらん
名所を行けば程も無く、駿河の国に入りたよな
思い駿河の富士の根の
煙は空に横折れて
燻る思いは、我一人
南は、海上、田子の浦(静岡県富士市)
寄せ帰る、波の音
物凄まじの風情かな
北は、青山峨々として
裾野の嵐、激しくて
いとど、思いは、浮嶋ヶ原よと眺め(沼津市から富士市に至る広大な湿地)
麓には、とうさんえん長く(不明)
見え渡る沼あり
葦分け、舟に棹さして
群れ居るカモメの心のままに
彼方此方へ飛び去りしは
羨ましくや、思われて
いとど涙は、堰あえず
浜には、塩屋の煙、片々として
行方も知らず、迷いけり
伊豆の三島や浦島や(静岡県三島市)
明けて、悔しき、箱根山
恥ずかしながら、姿を尚も
相模の郷に入ったよな
都を立って、十四日と申すには
坂東、鎌倉、横山が手に渡る
横山、出でて、長者を受け取り
長き牢舎をさせたりけり
兎にも角にも、花屋長者の心の内
無念なるとも、中々、申すばかりはなかりけり

つづく

 


忘れ去られた物語たち 26 古浄瑠璃 はなや(1)

2014年02月10日 10時54分34秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

このシリーズは、説経正本集等から25の説経外題を翻訳してきた。この仕事の中から、
 
短期日の内に、「阿弥陀胸割」「山椒太夫」を舞台化できたことは、偏に、猿八座座長の八郎 

兵衛師匠のお陰である。しかし、説経ネタといっても、全部が全部、面白いという訳には行 

かないし、何が何でも説経ネタで通すと意地を張ることも無いだろう。猿八座は今、近松門 

左衛門の初期の作品である「源氏烏帽子折」に取り組もうとしているが、これはこれで、な 

かなか面白い。やはり、浄瑠璃物も勉強しないとならないようだ。もう少し視野を広げて、 

レパートリーを増やすためには、古浄瑠璃正本集(横山重編:角川書店)も読む必要があり 

そうである。 

 そこで、古浄瑠璃正本集第1から順次、読み進めて行こうと思うが、このシリーズで取り 

上げるのは、私の勝手な取捨選択によって、舞台化できそうなものに限ろうと考えている。 

 例えば、古浄瑠璃正本集第1の(1)は、「浄瑠璃十二段」であるが、この正本には完本 

が無く、絵巻等を参考にしなければならないが、その翻刻は、既に詳しく研究されているの 

で、ここで取り上げる必要はない。 

(2)の「たかだち」は、衣川合戦での弁慶の壮絶な最期を描くが、これにも部分的な欠落 

があって通すことができない。しかも鎧兜の出で立ちの説明が延々と長く続くなど、演劇上 

の難点が見受けられる。 

 そこで、まったく恣意的であるが、(3)の「はなや」から物語シリーズを再開しよう
 
と考えた。江戸の太夫であった「薩摩太夫」の正本「はなや」は、寛永十一年(1634年)

の出版である。

 

はなや(1) 

 それは、聖武天皇の時代のことです。(724年~749年)筑紫・筑前の国、博多に、 

花屋長者家房(はなやちょうじゃいえふさ)という、有名な武士がおりました。沢山の蔵を 

建てて、宝物に満ちあふれており、人徳もある方でした。花屋には、姉弟の子供がおりまし 

た。姉は、花世姫(はなよひめ)。弟は、花若丸(はなわかまる)といい、どちらも、大変 

美しく立派な容姿でした。特に姫君は、心も姿も大変、美しかったので、公家・天上人は元より、 

それ以外の人々も、せめて奉公人となって、姫君から言葉掛けを戴きたいものだと、隣国、 

遠国から沢山の人が、花屋の屋敷に詰め掛けたのでした。花屋夫婦の喜びは、譬える物さえ 

ありませんでした。

 

 さて、其の頃、御門の宣旨によって、九州の国司に赴任してきたのは、萩原の国司でした。 

萩原の国司は、大勢の郎等を連れて、豊前の国宇佐(大分県北部)に入り、九州を治め、栄 

華を極めました。しかし、ある時、家老の芥丸(あくたまる)に、こう言うのでした。
「私は、こんなに栄華に恵まれたのに、妻が居ないことが、残念でならない。美しい姫はおらぬか。 

急いで捜して、連れて参れ。」 

芥丸が、早速に捜しに行こうとする所に、地元の人がやってきました。この者は、 

「国司様。筑前の国の花屋長者の所に、大変美しい姫がおりますよ。」 

と言うのでした。これを聞いた萩原の国司は、喜んで、 

「やあ、芥よ。おまえは直ぐに、花屋の館へ行き、娘を妻に迎えると申して来い。」 

と言うのでした。

 

芥丸は、博多の津に急行し、花屋夫婦に会いました。夫婦は、芥丸の話を聞くと、 

「お国司様であれば、姫を参らせたくは思います。しかし、我が姫は、これまで何度も、 

天上人より乞われながらも、一度も返事をしたことが無いのです。如何に国司様のお望みと 

はいえども、こればかりは、叶わぬことです。」 

と答えたのでした。芥丸は、面目を失って宇佐に戻り、国司に報告しました。萩原は、大変 

腹を立て、 

「なんと、口惜しいことだ。そいうことであるならば、これより都へ上って、知略を巡らし、 

花屋を亡き者としてやろう。それから、姫をいただくことにしよう。」 

と言うなり、旅の支度をして、上洛したのでした。上洛した萩原の国司は、関白殿に面会 

すると、 

「私が、上洛いたしましたのは、外でもありません。筑前の国の花屋長者のことです。花屋 

長者は、筑紫大名などと名乗って、都へ攻め上る気配があります。そんなことになっては、 

一大事と思い、急いでこれまで参りました。」 

と、まことしやかに奏聞するのでした。驚いた関白は、胆をつぶして、急いで御門に参内し 

ました。これを聞いた御門の逆鱗は浅くはありませんでした。御門は、 

「そういう事であれば、急いで筑紫に勅使を立てよ。花屋を謀って、召し寄せて、そのまま 

相模の国の横山館に流罪とせよ。」 

と命じました。関白は、蔵人の行孝を勅使として、筑紫の国、博多へ向かわせました。蔵人 

の行孝は、花屋長者に、こう言い渡しました。

「急いで、上洛しなさい。九州の総政所に任命されました。」 

花屋は、不思議に思いましたが、勅諚であるので、従う外はありません。大勢の郎等を連れ 

て、やがて都へと上り、五条の辺りに宿を取ったのでした。

 

 さて、萩原の国司は、花屋が上洛したことを知ると、花屋を参内させない為に、早速に宿 

所を訪れました。萩原は、 

「花屋殿、よくお聞きなさい。詳しい事は良くは知りませんが、御門よりの宣旨によります 

と、あなたは、相模の国、横山館へ下らなければならないようですよ。」 

と、騙すのでした。驚いた花屋は、 

「いったい、どういうことですか。身に覚えも無い事。急いで参内して、申し開きをいたします。」 

と、慌てますが、萩原は、 

「いやいや、仰せはご尤もですが、綸言は汗の如し、一度出たものは、二度と翻りはいたし 

ません。取りあえず今回は、お下向あり、また機会を見て、奏聞なさっては如何ですか。」

と、言うのでした。納得行かない花屋は、それからも、奏聞の機会を得ようと、都に留まっ 

ておりましたが、萩原が邪魔立ての知略を巡らすので、待てど暮らせど、参内の機会を掴む 

ことはできませんでした。とうとう諦めた花屋は、故郷への文を、細々と書き留めると、 

侍達を集めて、涙ながらに、こう言いました。 

「皆の衆は、これより筑紫に戻り、御台所や子供達を、宜しく頼みたい。」 

侍達は、驚いて、 

「お言葉ではございますが、東への下向にお供いたします。」 

と、詰め寄りました。しかし、花屋は重ねてこう言うのでした。 

「東下りに、共することよりも、国元に帰って、姉弟の者達を守り育てることの方が、重要 

であるぞ。さあ、皆の者、立て。筑紫へ戻るのだ。」 

涙に伏し沈む花屋長者の心の内は、哀れとも中々、申し様も御座いません。

 

つづく

Hanaya1