猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ⑥ 終

2013年02月21日 17時22分49秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ⑥ 終

 さて、栄華に栄えていた小山太郎は、七月七日の節句のお祝いに、数々の宝物を並べ

立てました。金銀綾羅(りょうら)を取り出している内に、信田玉造の地券の巻物が見

あたらないことに気が付きました。あちこちと探し回りましたが、見つかりません。

小山は、妻に、

「これは、他人の知ることでは無い。お前が盗み取り、誰かに渡したのであろう。お前

の様な、後ろ暗い女を頼みとするわけにはいかん。」

と言うと、労しいことに、妻を追い出してしまったのでした。

 可哀相なことに、信田の姫君は、

「今となっては、頼む当ても無い。信田殿が沈んだ霞ヶ浦に、私も身を投げよう。」

と思い。そのまま、湖畔へと下りました。すると、そこに、千原の後家が、追い掛けてきて、

「そんなに、お嘆きにならないで下さい。信田殿のお命は、我が夫が身代わりになったのですよ。」

と、縋り付くと、信田殿からの数々の文を見せるのでした。姫君は、これを見て、

「それでは、信田殿は、生きているのですね。一縷の望みを掛けて、訴訟のために都に

上がられているのですか。それでは、私も都へ行きましょう。」

と言うと、とある寺で、御髪を下ろすと、旅の装束を調えて、千原の後家と一緒に京都

を目指す旅にでたのでした。

〈道行き〉

三十五日と申するには

花の都に着き給い

先ず清水に参りつつ

信田殿の行く末

知らせてたばせ観世音と

深く祈誓を懸けまくも

熊野の方を心掛け

天王寺、住吉、

根來(根來寺:和歌山県北部岩出市)、粉川(粉河寺:和歌山県紀ノ川市粉河)を打ち過ぎて

三の御山(本宮・速玉・那智)に参りつつ

尋ね給えど、行き方無し

いざや、乳母、四国、九州を尋ねんと

道者船に便船乞うて、打ち乗り

淡路島をも打ち過ぎて

筑紫下りの途次(みちすがら)

長門(山口県西部)のこうや(?)

赤間が関(下関)、芦屋の山(福岡県遠賀郡芦屋町)か博多の津

志賀の崎(志賀島)まで尋ねれど

その行き方はなかりけり

名護屋(佐賀県唐津市鎮西町名護屋)を出で

瀬戸(平戸瀬戸:長崎県平戸市)を行く

松浦(長崎県松浦市)、弥勒寺(長崎県大村市弥勒寺町)

しつの里(不明:じつ=時津(とぎつ:長崎県西彼杵郡)カ?)

伊王が嶋(旧伊王島町)も近くなりて

いきの(不明:ゆきの=雪浦(長崎県西海市大瀬戸町)カ?)も通り、通にぞ

消えゆるばかりの、我が心

日向の国にとさの島(?)

豊後、豊前や肥後の国

筑前、壱岐の里に至るまで

信田の小太郎、何某と

問えど、答うる者も無し

いざや、乳母、中国を尋ねんと

周防の国に差し掛かり

播磨の国、彼方此方と尋ねつつ

後は、堺の松に出で(?)

そうだの森(?)、烏崎(兵庫県神戸市垂水区東舞子町)

人、松ヶ岡(兵庫県明石市松が丘)を尋ぬれど

その行き方は、無かりけり

須磨の浦(兵庫県神戸市須磨区)、蓮の池(兵庫県神戸市長田区蓮池町)と聞くからに

同じ蓮(はちす)に乗らばやな

兵庫に着けば、湊川

雀の松原(兵庫県神戸市東灘区)、打出の宿(兵庫県芦屋市打出小槌町)

こやの(兵庫県伊丹市昆陽)、伊丹、手嶋の里(?)

太田の町(大阪府茨木市太田)や芥川(大阪府高槻市付近の淀川支流)

神内(大阪府高槻市神内)、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)

きつね川(淀川支流)、久我畷(こがなわて:大山崎~京都府伏見区久我間の街道)

浮き世は、車の輪の如く

巡り巡りて、またここに

花の都に着き給う

いざや、乳母、東路を尋ねんと

我をば誰か松坂や(松坂関峠:京都府山梨区)

逢坂の関の清水に影見えて(滋賀県大津市:旧関清水町)

大津、打出の浜よりも(滋賀県大津市打出浜)

志賀、唐崎を見渡せば(滋賀県大津市)

堅田の浦に引き網の(滋賀県大津市)

目毎に脆き涙かな

尋ぬる人の面影を

映してや見ん鏡山(滋賀県蒲生郡竜王町)

愛知川渡れば

荒れてなかなか優しきは

不破の関屋(岐阜県不破郡関ヶ原町)の、板漏る月見、

垂井の宿(岐阜県不破郡垂井町)

田を植えし、早苗の黒田こそ(岐阜県揖斐郡揖斐川町黒田)

秋は鳴海と打ち眺め(愛知県名古屋市緑区鳴海町)

三河の国の八つ橋や(愛知県知立市八橋町)

蜘蛛手なるやと思うらん

富士を何処と遠江

恋を駿河の身の行方

月も雲間を伊豆の国

信田には何時か、奥州まで

三年三月と申すには

高野郷に着き給い(福島県東白川郡矢祭町付近)

旅の装束なされけり(※とかれけりカ?)

Photo

 さてその頃、信田殿は、七月盂蘭盆会の営みとして、父母孝養(ぶもきょうよう)の

為の施行をしておりました。そして、やってきた二人の比丘尼を招き入れたのでした。

持仏堂に招かれた姫君は、御回向の鐘を鳴らして、声高く御回向をなされました。

「父、相馬殿。母、御台。信田殿の成仏なり給え。未だ、この世にあるならば、この御

経の功力によって、今一度、引き合わせてください。」

と祈念すると、泣き崩れるのでした。信田殿は、この回向の声を聞くと、飛び上がって

驚きました。間の障子をさっと開け走り出ると、

「我こそ、信田ですぞ。」

と、姉に抱きついたのでした。なんという巡り合わせでしょうか。二人は、涙々の対面

を果たしたのでした。信田殿は、

「このような目出度い時に、何を嘆き悲しむことがあろうか。さあ、いよいよ本望を

遂げる時です。」

と言うと、奥州五十四郡の中から選りすぐって、十万余騎の兵を集めました。

 小山太郎は、この事態を聞き及ぶと、これは敵わないと思い、都へ向けて逃げ出しました。

その頃、奥州の国司は、都から奥州へ下向中でしたが、ばったりと小山と出会い。国司

は、易々と小山を絡め取ったのでした。やがて、国司は、小山を連行して、信田殿へと

渡しました。喜んだ信田殿は、武蔵の国嬬恋が野辺(群馬県嬬恋村)にて、小山の首を

刎ね、念願を果たしました。それから、信田殿は、国司と共に参内し、坂東八カ国を給

わったのでした。

 その後、信田殿を売り飛ばした辻の藤太を捕らえて斬首し、母が亡くなった時に世話

になった番場(滋賀県米原市)の宿の亭主には、一所の土地を与えました。本国へ戻っ

た信田殿は、浮嶋の三人の孫に、三千町の土地を与え、千原の後家を総政所としたのでした。

こうして、信田殿は、末繁盛と栄えたのでした。この君の御果報。目出度しともなかな

か、申すばかりはなかりけり。

おわり

Photo_2


忘れ去られた物語たち 17 説経信田小太郎 ⑤

2013年02月21日 13時32分41秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

しだの小太郎 ⑤

 さて、辛くも命が助かった信田殿は、再び都へと向かいました。日数も積もって、や

っと大津に辿り着きましたが、多くの宿が有る中で、人商いをする「辻の藤太」の宿に

投宿する悲しさは、運も尽き果てたとしか、言いようがありません。藤太は、信田殿を

見て、

『こりゃあ、良い商い物が現れたわい。』と思い、声を掛けました。

「これは、これは、何処へいらっしゃるのですか。」

と、聞けば、信田殿は、

「都へ。」

と、答えました。藤太は、

「お見受けするに、まだ、お若くていらっしゃいますが、お一人で大変でしょう。送り

届けてあげましょう。」

と、言うなり、信田殿を馬に乗せ、都へと運びました。都に着くと、藤太は、博労座(ばくろうざ)

へ行き、王三郎を呼び出して、信田殿を料足と取り替えました。信田殿は、それと知ら

ぬ内に、人買いに売り飛ばされてしまったのでした。それから、王三郎は、信田殿を鳥

羽の舟渡(三重県鳥羽市)へと売り飛ばしました。ここでも、更に売り飛ばされ、やがて、

加賀の国は宮腰(石川県金沢市金石町)へと辿り着いたのは、春の頃のことでした。

賎の仕事を教えられ、田んぼでの農作業にこき使われましたが、労しい事に、信田殿は、

鍬の使い方もろくろく分かりません。かの三皇(さんこう:中国伝説)の昔に、神農皇

帝は、自ら鋤(すき)を持って、その一畦の田を耕し、五穀の種を蒔いたので、勧農の

成果も著しく、尺の穂丈も長くなったと伝えられています。賢く徳の高い君主の国が、

栄えることの例えですが、かの信田殿の農業は、涙の種を蒔くようなもので、野でも山

でも、林でも、只ひれ伏して、泣くより外のことはありませんでした。これを見た人々は、

「役立たず」とけなして、隣国に買い取る人すらなくなりました。とうとう人々は、信

田殿を持て余して、ついには追い出してしまいました。もう、哀れというより、愚かと

いう外はありません。

〈放浪の道行き〉

心を他所に白雲の

打ち出でぬれば天の原

身は中空(なかぞら)なる神の

とどろ、とどろと歩めども

泊まり定めぬ、浮かれ鳥

鳴く音に、人も驚きて

開けぬる門を、杉の下

身は、飢え人となるままに

袂に物を乞食草

草場に掛かる命をば

露の宿にや置きぬらん

定まる方の無きままに

足を限りに行く程に

能登の国に聞こえたる

小屋湊に着きにける(石川県輪島市:輪島港の旧名)

 この頃、小屋の湊では、夜盗が出没していたので、家々は、門をぴったりと閉めて

用心をしていました。これを知らない信田殿は、門外に佇んで、

「世に無し者(日陰者)に、慈悲をましませ。」

と、言って歩きました。そこへ、老人が一人通りかかり、

「あら、恐ろしや。盗賊が、下見に来たわ。討ち殺せ。」

と騒ぎ立てました。人々はこれを聞いて、艪櫂(ろかい)、舵をてんでに持って、集ま

って来ました。人々は、ひと杖づつ叩きましたが、老人は、

「そんなことでは、生ぬるい。討ち殺せ。」

と言うので、人々は、更に散々に打ち叩きました。そうして、騒いで居るところへ、浦

の刀禰(とね)の女房がやって来ました。この女房は、情け深い人で、信田殿を見と、

「この子を、私に下さいな。酒をあげるから、助けて上げなさい。」

と、言いました。酒と聞いて人々は、叩くのをやめて退きました。女房は、信田殿を、

家に連れて行くと、様々と労りましたが、その頃、奥州から来ていた塩商人が、信田殿

を欲しがったので、塩と取り替えることになったのでした。

 さて、信田殿は、塩商人に買われて、奥州へと下りました。しかし、奥州で信田殿は、

塩木を切って、塩釜の火を焚く仕事に、毎日こき使われるのでした。

 ある日、この村の長である「塩路の庄司」は、月を愛でるために浜へと出ていましたが、

信田殿を見ると、

「おや、目の内の気高さは、きっと由緒のある人であるに違いない。私には、この年ま

で、子供が出来なかったので、我が子に迎えることにしよう。」

と、信田殿を養子に迎えると、塩路の小太郎と名付けました。信田殿は、人々から慕わ

れて、ようやく人並みの暮らしができるようになったのでした。

 それはさて置いて、その頃、奥州へ新しい国司が下りました。三年の内に、国の政

を確固とするために、国内の長官を全員招集しました。右は、勝田の大夫。左は、柴田

の庄司。総人数は、三百余人。いずれも選りすぐりの武士が出仕したので、その晴れが

ましさは限りがありません。その中に、塩路の庄司は、老体を理由に、養子の嫡孫であ

る信田殿を出仕させたのでした。しかし、役人達は、信田殿を見て、

「お前は誰だ。ここへは入れぬぞ。」

と言うなり、座敷から引きずり出しました。国司は、これを見て、

「どうして、塩路は来ないのか。上を軽んじるならば、領地を召し上げるぞ。」

と、言いました。信田殿は、

『これは、なんという悔しいことか。いやいや、ここで、名乗らなければ、養父の恥となる。』

と思い。ここで、立ち去っては悔いを残すと、立ち上がると、かの巻物を取り出して、

国司の前に出したのでした。国司がこれを見と、こう書いてありました。

「何々、葛原の親王(かずらわらのしんのう:桓武平氏の祖)の後胤、平将門の孫、

相馬の実子、何某」

 これを見た国司は、態度を一変させて、

「これに増したる、家系の証明は無い。」

と国司が認めると、今度は、国司の対座へと、招かれました。なんとも目出度い次第です。国司は、

「なんと、労しいことか。奥州の国司である我が、都へ上って、正しく領地を安堵させ

てあげましょう。」

と言い、座敷を立ったので、国中の侍達は、黙ったまま舌を巻いて、すごすごと、退

出したのでした。

 信田殿の御威勢は、これ以上、申すこともない程の千秋万歳の喜びです。

つづく