猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 19 説経梵天国 ④

2013年04月06日 13時56分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ぼん天こく ④

 それから、帝は、公家大臣を集めて、こう言いました。

「五條の中納言が、色々の難題を叶えたことは、大変、神妙なことである。五條の中納

言が、本当に梵天王の婿であるならば、梵天王の自筆の御判を持って来るように命ずる。」

これを聞いた中納言は、早速、天女御前に相談しましたが、今度ばかりは、そう簡単に

は行きません。天女御前は、

「それは、本当ですか。なんと情けないことでしょう。それは、下界に下って五濁の塵

に汚した身では、叶わないことです。」

と、泣き崩れるのでした。中納言は、

「それであれば、神、仏に祈るのが、日本の習い。氏神、清水の観音に祈誓をすること

にしよう。」

と言うと、多くの供を連れて、清水寺に籠もることになりました。中納言は、

「南無や、帰命頂礼(きみょうちょうらい)。清水の千手観音のご利益は、どの仏様よ

りも勝ります。願わくば、梵天王の自筆の御判をお与え下さい。」

と、十七日の間、祈祷を続けました。すると、馬に跨って、天上に昇る霊夢が訪れたのでした。

喜んだ中納言は、五條の館に戻ると、清い流れの水で、身を清めて、南面の広縁に立ちました。

やがて、どこからとも無く、龍馬(りゅうば)が現れ、前膝を折って、跪きました。

中納言は、天女御前に向かって、

「のう、姫君。あれをご覧なさい。清水の観世音より、龍馬を給わりましたよ。あの馬

に乗って、天上まで行って来ます。」

と言うと、天女御前は、

「私のせいで、帝より色々の難題を出され、片時も気が休まる暇も無いのに、今度はまた、

行ったこともない雲井の旅にお出になるとは、行く先が思いやられます。」

と、袂に縋って泣くのでした。中納言は、

「必ず、生きて帰って来ます。」

と言うと、しっかりと結び合った手を、ふりほどいての涙の別れです。中納言は、龍馬

に跨ると、

「目を塞ぐ 心ばかりや 思い切れ 知らぬ旅路の 一人寝をのみ」

と一首を詠じ、姫は、

「旅立ちし 君を見る目の 涙川 深き思いを 如何にせんとは」

と返しました。やがて、中納言が、目を閉じると、龍馬は、梵天国へと昇り始めました。

 三日三晩、飛び続けると、ようやく陸地に着きました。中納言が、目を開いて見ると、

十丈もある閻浮樹(えんぶじゅ)が茂っているのが見えます。やがて、十町ほど、馬を

進めて参りますと、一人の天人がやって来るに会いました。中納言が、

「ここは、なんという国ですか。」

と聞きますと、天人は、

「梵天国です。」

と、答えました。帝の御所を尋ねますと、さらに東の方だと言います。そこで、中納言は、

さらに東へと進んでいきました。五町ほどやって来ると、今度は、赤栴檀(しゃくせんだん)

の林が現れました。無数の花が咲き乱れ、香しい香が、辺り一面に漂っており、うっと

りとする音楽まで聞こえてきます。更に進と、黄金の橋があり、その橋の下には、弘誓

の舟が浮かんでいました。橋を渡ると、今度は、右側には、黄金の山が聳え、左側には、

白銀の高山が見えました。この山の光によって、御所は、夜昼の区別もなく、眩しいば

かりに明るく照らされているのでした。中納言は、うきうきと、内裏の東門をくぐり、

やがて、清涼殿に着いたのでした。一人の天人が現れると、

「おや、これは珍しいお客人ですね。こちらへどうぞ。」

と、招き入れてくれました。中納言は、臆することなく、堂々と御殿に入りました。

しばらくすると、天人が何かを持ってきました。

「これは、天の甘露の酒です。」

と言って、中納言の前に置くと、下がりました。中納言は、

「梵天国では、飲み食いをするときは、自分で手ずから食すると聞く。これは、飲まな

くては。」

と思って、三献を自ら汲んで、飲み干しました。そこに今度は、三寸に盛られたご飯や

数多くのご馳走、八十二色のお供え物などが並べられました。中納言は、これらのご馳

走にも次々と与かりました。

 天のご馳走に夢中になっていた中納言は、やがて、近くに牢屋があるのに気が付きました。

中には、罪人が入っています。その手足は熊のようで、八方から厳しく縛られて、身動

きもできないようにされているようです。そして、牢屋の中から声が聞こえてきました。

「ああ、浅ましい。その飯を、一口くれ。」

と言うのでした。良く見てみると鬼が黄色い涙を流しているのです。中納言は、慈悲

第一の人でしたから、これを聞いて、

「これこそ、法華経に、三界無安猶如火宅(譬喩品)説かれているそのことであるな。

このような目出度い国ですら、咎を許すことは無いのか。咎はなんであれ、何か食べ物

を与えてやろう。」

と考えて、天のご飯を、笹の葉にくるんで、牢屋に投げ入れました。ところが、この鬼は、

その飯を食うや否や、通力自在の力を受けて、八方から縛り付けられた鎖をねじ切る

と、牢屋を蹴破って飛び出して来たのでした。あっと言う間も無く、この鬼は、葦原国

へと飛んで降りると、五條の天女御前を奪い取り、羅仙国(らせんこく)へと帰ったのでした。

昔より、恩を仇で返すというのは、こういうことを言うのです。前代未聞の曲者と、憎

まない者はありません。

つづく

Photo


最新の画像もっと見る

コメントを投稿