猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

もうひとつの「さんせうたゆう」

2012年02月24日 10時05分03秒 | 調査・研究・紀行

 佐渡に渡った時に、不思議に思ったことは、安寿の墓とされる「安寿塚」があることである。佐渡の安寿塚は、安寿姫の慰霊塔であり墓でもあるという。

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左:外海府の海を望む鹿の浦の安寿塚  右:畑野の市街地にある安寿塚

 説経節の山椒太夫は、与七郎正本(年代不明)、七太夫正本(明暦)、山本久兵衛板(寛文)、七太夫豊孝正本(正徳)等の比較的多くの版本が残っている。それだけ、人気があったのだろう。

 さて、これらの説経節山椒大夫では、安寿の姫は、売られた先の由良山椒太夫の館で、三郎の拷問によって殺されてしまう。このストーリーはどの説経にも共通していて例外が無い。いったい、佐渡に渡ったとされる安寿はどこに居るのだろうか。安寿が佐渡に渡ったとする話しと出会えないまま、長年不思議に思っていたが、ようやく、安寿が佐渡に渡ったという記述に出会うことができた。

 「文弥節浄瑠璃集」という本の下巻には、佐渡文弥人形で演じられる「山椒太夫」が収録されている。山本角太夫正本(山本久兵衛板:延宝頃)とあるので、分類上は浄瑠璃に属する。調べて見ると、この角太夫という方は、浄瑠璃者ではあるが、仏教ネタが好みで、説経物を得意としたらしい。近松と同年代にもまだ、そういう太夫もいたのかと、妙に感心した。しかし、この「文弥節浄瑠璃集」に掲載されている浄瑠璃が本当に角太夫の作なのか、多少疑問が残る。まず他の角太夫板と異なっている。また「佐渡が島人形ばなし」(佐々木義栄著)によると、北村宗演が所持していた嘉永五年に書かれた写本が底本になっている可能性が大きいが、この本がどのような写本であったのか不明なのである。

佐渡の文弥節で語れる角太夫山椒大夫のあらすじを紹介する。

 岩城の判官正氏が、筑紫に流罪となる発端は、説経と同じであるが、ライバルの讒言と計略によって陥れられるという、浄瑠璃的な書き出しとなっている。最後に厨子王を助ける梅津の院は、厨子王の祖父として設定されていて、父が流罪された後、御台と兄弟は都の梅津の院を、頼ることになる。供は姥竹とその子小八。一行五名が、越後直江津で、人買いに騙されるのは説経と同じであるが、そこから小八がさまざま活躍して武勇を奮うところが、浄瑠璃的な筋で面白い。しかし、結果的には、御台と姥竹は佐渡に売られ、安寿、厨子王兄弟は、山椒大夫の所に売られて来る。小八は、海に落とされてしまうが、なんとか人売り山角太夫を捕虜として、兄弟の行方を捜索する。

 山椒太夫の所で、兄弟が苦しみを受け、安寿が厨子王を逃がすのは、説経と同じ。説経では、厨子王を逃がしたことで拷問を受けた安寿が、殺されてしまうが、ここでは、小八がようやく追いついて、安寿を助ける。厨子王は山椒太夫の追っ手を国分寺のお聖の助けや地蔵菩薩の功徳によって振り切り、やがて都へ辿り着く。

厨子王は、梅津の院と会い、養子となるが、父正氏を陥れた計略を劇的に暴くのも浄瑠璃的で面白い。

 一方、小八に助けられた安寿は、小八と共に、佐渡島に流された母を尋ね、再会を果たすが、残念なことに安寿は母に抱かれて絶命してしまう。野辺の送りを済ませた頃に、ようやく厨子王丸が母を尋ねて佐渡に渡って来る。厨子王は、母と再会し、姉の死を知り悲しむが、地蔵菩薩の功徳によって失明していた母の目を治す。

その後、厨子王達は都へ戻り、本領安堵され、山椒太夫と三郎の首を竹鋸で引き切るというのは、説経と同じ結末である。

 佐渡の安寿は、この浄瑠璃によって存在していたのだ。佐渡の文弥人形はこの話しを語り継いで来たのである。これで、納得が行った。ところで、この山椒太夫は、佐渡ではあまり人気が無かったらしい。どうやら、金平物(ちゃんばら物)の方が人気で、一度途絶えたという。現在残っている文弥節山椒大夫は、北村宗演師が、節付けして復活させたという記録がある。

現在この浄瑠璃の内、鳴子曳き・母子対面の場を猿八座で演ずるための準備を進めている。猿八節のレパートリーが増えそうである。


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