猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 12 説経王照君 ④

2012年05月10日 17時03分57秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

おうしょうぐん ④

 光武帝は、王照君を手放さなければならなくなってしまったことを大変悔やみました。

その夜、大臣を呼び御愛用の琵琶を取り出すと、

「この琵琶は、先帝より形見に下されてよりこれまで、片時も離さず大切にしてきた宝

である。この度、照君が一人赴く旅の空は、さぞや辛いことであろうから、この琵琶

を道すがらの慰みにするようにと渡しなさい。また、この琵琶を弾けば、鬼神の祟りも

防ぐことができるだろう。」

と、王照君に琵琶を渡すように言いました。誠に有り難いことです。王照君は、大臣か

ら琵琶を受け取って、

「ああ、有り難いことです。罪に沈んだ私の行く末までもご心配いただき、申し上げる

言葉もありません。」

と嘆かれるのでした。そうして、早くも夜が明け始め、出発の時刻が近づきました。涙

ながらに旅の装束を整えると、お供の官人に前後を囲まれて、輿に乗り込みました。先

頭に異国の夷が立って、思うも遠い万里の旅に出たのでした。その心の内こそ哀れです。

 振り返り振り返り見れば、名残も尽きない都の空、住み慣れた楼閣も、やがて遙かの

後ろとなり、木々の梢も霞んで、時を告げる太鼓の音も最早微かです。もうこれで、二

度と都へは戻れないかもしれないと、王照君は輿の中で、悶え焦がれて泣きました。

 一方、夷狄の人々は、目的を達して意気揚々たるものです。一刻も早く胡国へ帰り着

こうと、先へ先へと進みます。やがて一行は、天人峡(てんじんきょう)に差し掛か

りました。さすが異国の道ですから、野を過ぎ山を分け入り、行き交う人もありません。

王照君は、こんなところでは、都へ言づてしようにも誰に頼んで良いのか分からないと、

さらに嘆き悲しんだため、顔も姿もやつれ果て、しゃべる元気もなくなり、お命も危う

いのではないかと思われる有様となってしまいました。

 先を急ぎたい夷達でしたが、夷は王照君を慰めようと、白雲山の麓で輿を停めると、

形見の琵琶を取り出して、王照君に渡しました。懐かしい光武帝の形見の琵琶を抱きし

めると、王照君は、撥を取り直し、はらはらと弾き鳴らしました。その曲は、別れを慕

う曲「離乱別隔」(りらんべつくはく:不明:当て字です)でした。遠い都に思いを馳

せて弾いたので、その調べは大変哀れに響きました。第一第二の弦の音は、颯々(さつ

さつ)として雨音のようです。第三第四の弦は、静々として私語(ささめごと)にも似

ています。王照君は、あれやこれやと思い出してしまったのでしょう。やがて琵琶を置

くと、また泣き沈むのでした。夷狄の夷達は、初めて聞く琵琶に聞き入って、

「素晴らしい音色です。我等、夷の者にも、このように面白く聞くのであるから、聞き

知る人が聞いたなら、もっと感心することでしょう。もう少し、弾いて下さらぬか、お

願いいたします。后様。」

と、前進することも忘れて、惚れ惚れとしています。王照君は、

「この曲を初めて聞く夷なのに、感心なことです。では弾いてあげましょう。」

と、琵琶を取り上げると、月澄み昇る秋の夜の曲、「秋風楽(しゅうふうらく)」を弾き

始めました。

 すると不思議なことに、四方の嵐の音が琵琶の調べに乗り移り、空の様子も一変して

香しい風が吹き、大変良い香りがあたり一面に立ち込みました。人々が、何が起こった

のかと不思議に思っていると、空より五色の雲がたなびいて、だんだんに降りてくるのでした。

その雲には、天女が二人乗っていました。一人は、孫仙人(まごせんにん)一人は、西

王母(せいおうぼ)です。今度は、西の方から雲が降りて来ました。その雲からは、人

とも思えない凄まじい顔容の大の男が二人、飛び降りると、

「我々二人を誰と思うか。これは、前漢高祖の臣下樊 噲(はんかい)、我は長良(ちょうりょう)

と申す者である。我々は、通力自在を得て仙人となった。この度、姫君の琵琶の音色が

神妙であるので、守り神となるため、孫仙人、西王母と伴にこれまで参った。」

と告げました。二人の天女は、

「さああさあ、音楽をして姫君を慰めましょう。」

と言うと、笙(しょう)、篳篥(しちりき)を吹き始めたので、王照君もそれに和して

琵琶を奏でました。その有様は、まるで極楽世界を見るようでした。今度は、二人の天

女が、迦陵頻伽(かりょうびんが)の声で歌を唄い始めました。

『げにや誠に雨露の身に

何嘆くらん浮き雲の

しばしは月を隠すとも

ついには澄まん世の中の

今少しの苦しみを

さのみ嘆き給いぞよ

行方久しき久方の

光和らぐ春の日の

君が恵は尽きせしな』

天女達は、心配しなくても大丈夫ですよと言い残すと、再び雲に乗って空へと舞い上が

りました。長良、樊 噲も、

「そもそも我々は、浮き世にあったその時は、義を重んじて命を軽んじ、外へは五常(ご

じょう:仁義礼智信)を乱さず。内には誠を尽くしたので、通力自在の身となりましたが、

君恩を忘れたことはありません。姫君の嘆きがあまりにも労しいので、お慰めのために

二人の天女を連れて来たのです。只今の歌の文句も、姫君はよくご存知のことと思いますが、

どうか、ご心配なさらずとも、直に都へお帰しいたしましょう。」

と懇ろに慰めると、今度はずんどと立ち上がりあがりました。腰の釼をするりと抜くと、

二回三回と振り回し、夷狄の人々を睨み付けました。

「我々は、天上に住み、人間界に下ることもついぞ無いが、この度は、この姫君があま

りにもお労しいので、このようにやって来たのだ。姫君に少しでも辛く当たるような

ことがあれば、おのれらを八つ裂きにしてくれるぞ。」

と言い捨てると、雲に紛れて天上へと戻って行ったのでした。

 夷狄の者達にとっては、まったく怖ろしい限りです。人々は、震え上がり戦慄いて、

見ることさえ出来ない有様でしたが、おっかなびっくり王照君を輿に乗せると、胡国へ

向けて出発したのでした。かの天女仙人の有様は、不思議であるとも何とも、例え様

もありません。

つづく

Photo