猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 8 説経目連記 ③

2012年02月07日 00時01分41秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

目連記(八文字屋八左衛門板)③

 そのような事件があった年も終わり、翌年の春のこと、内裏の臣下大臣達は、大王様

を慰めようと、相談をしました。時も青陽(せいよう)の花盛りですから、花を沢山献

上しようということになりました。早速に、それぞれが色々な花を持って御前に献げた

のでした。大王も喜んで、花を眺めています。栴檀(せんだん)、胡蝶蘭、芍薬と、色

とりどりの花が並んでいます。大王が、美事な花であると愛でていると、やがて花は萎

れていきました。これを見た大王は、暫く考え込みました。

「ああ、世間の衆生は、この風雅の花よりも脆いものだ。まったく、朝には、血の気も

盛んで、万事世渡りをしたにしても、夕べには白骨となって広原に朽ち果てる。この従

前の春の花がその理(ことわり)を我に教えている。今となって、一番大事なことは、

一人残った太子を僧にして、父母の末の闇路を導いてもらうことであろう。」

やがて、大王は決心すると、がくまん殿をよびました。

「がくまんよ。御身はこれより東、耆闍崛山(ぎじゃくせん:霊鷲山に同じ)に上がり、

羅漢を頼み、学問をし、父母が後の世を助けてもらいたい。今のこの別れが後の歩みと

なるであろう。」

とは言うものの、大王も恩愛の契りを捨てがたく、涙を押しぬぐい別れを惜しみました。

がくまん殿も名残惜しく思いましたが、父の宣旨を重く受け止め、早速に旅の用意をしました。

御台所も、がくまん殿の袂にすがりつくと、涙ながらに、

「御身は、山へ上がってしまうのですね。仏道修行の道ですから、心弱くてはいけません。

羅漢の元に行ったなら、王宮のことははったりと忘れ、学問に精出して修業し、次に会

う時は、沙門の姿に心を変え、袈裟衣を着て来るのですよ。尊き僧になれないならば、

母を持ったと思うなよ。私も子を持ったとは思いませんからね。」

と、気丈に言いましたが、言うなりわっと泣き伏してしまいました。しかし、いつまで

も泣いていては出発できませんので、女房達が押し隔てて、御台を奥の一間へと連れて

入りました。がくまん殿も涙ながらに王宮を後にしたのでした。

 耆闍崛山に着いたがくまん殿は、羅漢を頼んで弟子入りし、それより、見聞に机に肘

を置き、経綸に眼を曝して、日夜学問を怠りませんでした。

 これはさておき、がくまん殿を送り出した御台所は、こんなことを考えました。

『我が子は、優秀だから、学問はきっと世に秀でて、釈尊や阿弥陀も越えてしまうだろう。

その上、我にどんな罪があっても、来世は我が子に導かれて極楽浄土に行けることは間

違いない。そうであるならば、この世は僅かの仮の宿。なにも真面目に一生懸命に生き

ることも無い。もっと悪いことを沢山して楽しんで生きる方がよいわ。」

それからというもの、御台のすることはまるで鬼のようでした。堂塔伽藍に火をつけて

喜んだり、親類縁者との行き来もせず、自分の欲しいものは奪い取り、気にくわない者

がいれば、国外に追放し、身内にも外様にも、意地悪なことばかりしました。人々が御

台を嫌ったのは当然のことですが、これを仏神が黙っておくわけはありません。ある時

御台所は、突然に風気(風邪)に襲われ、病の床に伏してしまいました。

 驚いた大王が、様々看病しますが、遂に御台は最期の時を迎えました。御台もいよい

よ最期と思って、衣一巻を取り出させて、こう言いました。

「これは、私が自分で織った衣です。もし、太子が帰ったならば、これを形見に与えて

下さい。ああ、名残惜しの我が君様、さらば人々よ」

これを最期の言葉として、とうとう亡くなってしまったのでした。

 さてその頃、地獄の閻魔大王は、獄卒共を集めてこう言いました。

「いかに者ども、娑婆世界、クル国大王の后は大悪人であるから、引っつかんで参れ。」

畏まったと獄卒どもは、どっとばかりに火の車を轟かし、雷電稲妻の凄まじさは、天地

に響き渡りました。あっという間に御台の死骸を引っつかむと、虚空を差して消え去っ

たのでした。

 地獄に着くと、御台は火の車より下ろされて、今度は邪険の杖で叩かれて、歩け歩け

と責め立てられました。御台は、余りの苦しさに、手を合わせると、

「のうのう、許してください。」

と、血の涙を流して懇願しました。しかし、獄卒どもは怒って、

「やあやあ、おのれに説法してくれん。この極悪住人め。無駄方便。汝が娑婆にて作り

し罪を責めるのだ。さあ、こっちへ来い。」

と、引きずると、やがて閻魔大王の前に引き据えられました。大王はじろりと睨み付けて、

「如何に、見る目嗅ぐ鼻。さあさあ、上品の鏡(浄玻璃:じょうはり)にかけて、こい

つの科(とが)の有様を見せよ。」

と、命じました。すると、鏡には次々と御台の悪行が現れ、娑婆で作った罪科が残らず

映し出されました。大王は、

「それ、罪人に八つ裂きの苦しみを与えよ。」

と、命じると、獄卒どもは、手を取り、足を取り、宙に吊り上げて責め立てました。

いたわしいことに、あまりの激痛の声も出ません。ようやく少し息を継いだ御台は、

苦しい息の下で、涙ながらに懇願しました。

「ああ、獄卒達、言わせてください。例え罪は重くても、女の身でありますから、この

苦しみはご勘弁ください。別の苦しみにしてください。」

これを聞いた獄卒は更に怒って、

「愚か者目、どの地獄も並大抵のものではないぞ。では、無間地獄の苦しみを見せてくれん。」

と言うと、真っ逆さまに吊り上げて、はったとばかりに突き落とすと、剣の山へ登れ登れと、

責め立てます。こんな山をどうやって登るのかと泣き伏していると、獄卒は鉄棒を振り上げ、

散々に打ち立てます。御台はあまりの恐ろしさに、目をふさいで思い切り、一足出せば、

さっと裂け、二足踏めばさっと切れ、吹き出す血も夥しく、全身朱に染まって泣くより

外はありません。大王はこれをご覧になり、

「如何に罪人。お前の罪の深さは八万由旬(ゆじゅん)の須弥山よりも、なお深い。

それそれ。」

と言うと、誠の奈落に落としました。かの御台の有様は、哀れともなかなか申すばかりはなかりけり。

つづく

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