ワニなつノート

子どもには風変わりな特権がある(メモ1)

子どもには風変わりな特権がある(メモ1)


《問題行動と適応行動》

「問題行動」という言葉があります。私も、その言葉に疑問を持たずにきました。
「問題行動」をどう理解し、良い行動へ変えていくにはどうしたらいいか。どういう配慮がいいのか。と、そんなふうに考えてきたような気がします。
でも、あるときから、「問題行動」という言葉を使うことに、違和感を感じるようになりました。

「問題行動」を、「正しい行動」に変えてあげるというより、この子が一生懸命がんばっている今の行動の仕方を認める方が、自分の心にしっくりくるのです。
それを表現すると、障害のある子どもが小学校に入ってから数日、数か月、数年のあいだにすることは、「適応行動」と理解するのが自然な気がするのです。

なぜなら、子どもたちは確実に成長し、大人になっていくからです。

          ◇

この子の行動を「問題行動」「困った行動」「なんとかしなくちゃ」と見てきたけれど、実は、この子は自分で自分のやり方で、「みんなと一緒に生活するための自分の助け方、自分の対応の仕方、適応のために、一人で、誰の理解も助けもないなかでがんばっていたんじゃないか。

いや、理解はあった。周りの子たちは、この子を、ちょっと変わった子だけど、でも同じクラスの一員だという理解はあった。
助けはあった。
みんなが一緒にいること。
それだけで、この子が「みんなと一緒にいたい」「自分はみんなの仲間」「みんなと同じようにがんばりたい」「みんなといっしょにここにいたい」という「がんばる動機」をもらい、膨大な量の観察をさせてくれる「モデル」として、仲間として、そこにいることで、この子を助けてくれた。

          ◇

そもそも、生まれてたった6年足らずしか、この世界を知らない子ども。
その間に、病気や障害のために、「成長が遅れている」のだといわれ、病院通いや療育通い、ときに親の絶望や教育への情熱に6年間の人生の多くを「費やされてしまう」子ども。
ふつうの子どもは、平均的な成長の流れと、ゆったりとした子どもの6年間を過ごし、幼稚園や保育園に入ることに「お断り」されることもなく、たっぷり子ども時代を過ごすことができます。その子どもたちと、「入学」してすぐに、同じにしろ、そうできないのは「おかしい」と迫ることは、あまりにせっかちで不寛容な大人の態度だと思わないだろうか?

だって、障害以上に、障害をもつ子どもを取り巻く環境は、どれも6歳までの子どもにとって、とてつもなく「ハンディ」になるようにできている。
6歳の時点では、6年間の人生のどれだけの時間を、障害の発見、病名の確認、治療、訓練、親の絶望、悲しみ、として「人生体験」してきたか。
ほかの子どもの「持たない」障害や病気や困難を抱えたその上に、早期発見、早期治療、早期訓練…障害児お断りの保育園、幼稚園、その他もろもろがある。
そのことが、子どもにとって、「障害」以上のハンディを与えている。

親がどうしていいか分からず、右往左往する障害や病気をかかえながら、0歳から6歳の「子どもを生きる」ということは、ふつうに生活することに、人の何倍ものエネルギーを使ってがんばっているに決まっているのだ。

「この世界は、自分を喜んでいない?」
「この世界は、自分をあってはならないから、なんとか変えようとしている?」
そんな疑いのなかで、自分の人生を自分で抱きしめながら生きている子もいる。

そして、ようやく、小学校入学のころに、普通学級に入る子どもたちは、あたりまえの「普通の子ども時代」を小学生として始めるのだ。
しかもそこは、保育園や幼稚園よりもずっと「窮屈」な世界だ。

保育園、幼稚園の生活を通して、親もありのままの子どもの現実を受けとめられるようになります。「普通の子どもに近づくこと」=「治る」といったこととは別の、子どもの成長を理解できるようになっています。
だからこそ、普通学級なのです。

勉強が苦手だろうということ、集団も苦手かもしれないこと、そうしたことを「分かった」上で、子どもが子どものなかで生きていくことを、心から望む親が、そこを選ぶのです。
でも、そこでも教育委員会や学校は、その親の覚悟を、非常識なことと責めたり、考えを変えさせようと迫るのです。そうして、親を不安にさせることが、ここでも、子どもの苦労を増やすことになります。

6歳の子どもが、小学生を始めるということ。

それは、ただ「障害児」が入学する苦労とは別の重荷を、社会や大人たちが背負わせていることになります。ほかの子どもたちは、ただランドセルの重さだけなのに。

でも、そうしたスタートから、1年、2年、3年、4年、たった頃には、つまり「次のオリンピック」か「ワールドカップ」のころには、「この子は困ったことばかり」だと言われる「困ったこと」はいつのまにかなくなっています。問題行動ばっかりと言われた、その問題はなくなっています。
クラスの中、学年の中、全校生徒の中でさえ、1、2秒で見つけられた子どもが、いつしか、どこにいるのか、いくら探してもみつからない。そんなふうに、子どもは子どものなかに、ゆったりした時間のなかで、とけていきます。

            ☆

ふだんは学校の話などほとんどしないやっちゃんが、先日、ぽつんと、「3年生、2月○日でおしまい」と言ったそうです。
そう、やっちゃんは中学2年生。来年は受験です。ナオちゃんも、コウタローくんも。
もうすぐ3年生がいなくなること。そうして、自分たちが3年生になること。
そのずっと先に、来年の今頃は自分が「2月○日」でおしまい」になること。
そんなふうに、子どもはみんな未来を自分の手元にたぐり寄せ、知り、成長していくのだと思います。
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