ワニなつノート

対人援助を選ぶということ



対人援助を選ぶということ



「対人援助」という言葉を見る機会が増えた。


で、ある日ふと気づいた。
小学校を「選ぶ」というとき、「教育」と同時に「対人援助」のあり方も選んでいたのだと。


選ぶのは、「教育」だと思わされてきたけれど、そこで選んでいたのは教育というよりは「対人援助」のあり方ではなかったか。


「みんなといっしょ」「近所の友だちといっしょ」
そのことを大事に思ってきたけれど、同時に「この子が困っていたら手をかしてほしい」とも言ってきた。

分けた場所での特別な支援はいらないけれど、みんなと一緒に生活していくなかで、状況に応じての援助を求めてきた。


わたしのイメージする「対人援助」とは、目の前の困っている人に手をかすこと。
「状況の援助」のこと。
その時、その場、その状況に応じて、必要なら手をかすこと。それだけのこと。

地域のふつう学級というとき、「対人援助」は、そのとき、そこで、みんなの中で、子どもが困る場面があれば、手を貸してほしい、ということだった。


「なにもしなくていいのか」という脅し文句に対して、「何もしなくていい。特別なことは何もしなくていいからみんなと一緒に生活したい。そのうえで子どもが困っているときには手をかしてあげてほしい」

そういう会話で語ってきたことは、「教育」というよりもむしろ「対人援助」のあり方だった。

だから、「教育」「できる・できない」ということにこだわる先生とは話がかみ合わなかった。



特殊教育や特別支援教育の「対人援助」の方法は、「状況の援助」ではなく、「生活の場を分けての支援」「特別な支援」だ。

同じ日常生活の場でともに暮らす中で、人が困った状況になったときに手を貸す、のではなく、初めから「困る人」を別の世界に分けて、「困らないような状況」を別に用意してそこで援助する、という方法だ。


ふつう学級か養護学校かを選ぶというとき、選んでいたのは「教育」の中身よりは、「対人援助」のあり方そのものだった。



障害児がいるとき、「対人援助とはこういうものだ」と学校は教えてきた。

その方法は二通りある。

一つは、支援するには分けることが必要、という方法。


特別支援教育は、子どもを障害別に分けて「支援してあげる」という。

そのとき子どもたちが学ぶ「対人援助」「障害への理解」は、「みんなと一緒の場所では援助しないよ」という方法だった。

子どもを障害で分けるということは、「できない」子にはここでは援助しないよというのが、「対人援助」だと教えることだった。

「自分で自分のことをできない人」は援助しないよ。だった。


そこでは、障害の理解は「能力に応じて分ける」という理解につながる。

教育委員会の人たちの「障害児理解」とは、まさに分けなきゃ支援できない、という理解だ。

その理解では、どこまでいっても「共に生きる社会」の理解にはつながらない。




もう一つの対人援助の方法は、目の前の困っている子どもに、当たり前に手をかす大人の姿をみせること。

地域のふつう学級に通うということは、そういうことでもあった。

困っている友だちに手をかすことが当たり前の学校では、誰もが、手をかすこと、手を借りることを大切にすることを学ぶ。


大人になってからの自立の問題も、そのことが基本だ。


障害があってもなくても、誰の手も借りないで生きられる人はいない。

手をかすことが難しいと考える人は、手を借りることもまた苦手になる。

私が子どものころに暮らしていた社会は、「対人援助」と「対話」がとっても苦手な社会だったのだ。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「手をかりるように知恵をかりること」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事