ワニなつノート

「その子らしさ」に出会うために(その1)

「その子らしさ」に出会うために(その1)


◆『認知症のパーソンセンタードケア』

【…認知症は「脳の器質的知的障害」として作り上げられ、…医学モデルが影響力をもってきた。…精神医学は認知症をかなり狭く扱うようになり、しばしば、より大きな人間の問題を無視するようになった。しかも他の学問分野も医学と一緒になり、その後に続いた。】

【…かつて、アルツハイマー犠牲者、頭のおかしい人、精神障害老人など、こういった表現によってその個人の価値が低められ、それぞれ独自で感性豊かな人びとが、ただ便宜上のためや管理するために作られたひとつの範疇に分類された。

(天秤ばかりの)片方の皿に人間の存在という側面を置き、もう一方の皿に病状と障害という側面を置く。わたしたちが受け継いだ慣習的考えからすれば、はかりは後者の方に傾く。

このことに理論的な根拠はないし、包括的な経験的データから引き出されたものでもない。それは一般に流布している価値観、アセスメント、実際のケアや研究において慣習的に決定された優先順位の反映でしかない。

今や、決然と反対側にはかりを傾けるときが来た。
それは完全な人間として認知症の人を理解することである。私たちの考え方の基本となる準拠枠は、『認知症』の人でなく、認知症の『人』でなくてはならない】



こうした流れの中で、「認知症の人びとが、他の人と同じ価値、同じニーズ、同じ権利をもつこと、…同じ人として彼らを受け入れるべきこと」が主張されるようになりました。

そして、認知症の人びとが、無視されていることに疑問をもつ人たちによって、その人らしさ(パーソンフッド)を損なう様々な行為が明らかにされるようになりました。

「その人らしさ」とは、《関係や社会的存在の文脈の中で、他人から一人の人間に与えられる立場や地位である。それは人として認めること、尊重、信頼を意味している。》と書かれています。

(『認知症のパーソンセンタードケア』トム・キットウッド   筒井書房)


     ◇     ◇     ◇ 


かつての認知症の人への扱いと、障害児の扱いは、とても似ています。
だから、上の文章は、こう書きかえることができます。

片方の皿に子どもの存在という側面を置き、もう一方の皿に障害という側面を置く。
慣習的考えからすれば、はかりは後者の方に傾く。
(それを特別支援教育と言います。)

今や、決然と反対側にはかりを傾けるときが来た。

それはふつうの子どもとして、障害のある子どもを理解することである。
私たちの考え方の基本となる準拠枠は、『障害児』でなく、障害のあるふつうの「子ども」でなくてはならない。

「その子らしさ」とは、関係や社会的存在の文脈の中で、
他人から一人の子どもに与えられる立場や地位である。

それは子どもとして認めること、尊重、信頼を意味している。

同じ地域の同じ年齢の子どもや、
自分の兄弟姉妹と当たり前に与えられる立場や地位。

普通学級に通うということは、何よりもまず「同じ人として」、
「同じ子ども」として、親が一人の子どもに与えることのできる立場であり、「障害」の前に、子どもとして認めること、尊重、信頼を、意味しています。

「その子らしさ」に出会うために必要なこと。

その子らしさの一部ではなく、
まるごとのその子らしさに出会うためには、
その子がそこにいる社会的存在の文脈の中で、
一人の子どもとして堂々とそこにいることを与えられ、
信頼されることが不可欠なのです。

私が「就学相談会」という場で、普通学級に行こうよと言い続けるのは、そういう理由のようです。
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