ワニなつノート

貧困問題とは、誰の、何の、貧困なのか(その2)


貧困問題とは、誰の、何の、貧困なのか(その2)



《貧困問題の言葉は一人一人の子どもを見ているか》



「小学生のころ、自分にはふつうの生活はできないんだと思っていた。
でも、いまはふつうの生活ができているから…」

幼いときから施設で暮らした。
その施設で職員の虐待があり、他の施設に代わった。
今度は、子どもの暴力やいじめがあった。
そうした中で、信頼できる大人はいない、ということを学んだ。


その子が、ここでは「ふつうの生活ができている」という。
いや、ここも「施設」であって、世間の人は「ふつうの生活」だとは思わないだろう。


「ふつうの生活」とは何だろう。
自分のことを自分で決められる人生。
自分自身の人生に向かって大人になっていく日々。
その自分をちゃんと「見ていてくれる」大人がいること。


かわいそうな子どもに何かを「してあげる」のではなかった。
普通の家庭を知らない子どもに、家庭の代わりをというのでもない。


その子をその子のままに見ること、こえを聞くこと、安心できる自由な生活を送ること。
そうすれば、子どもは自分の夢と希望で、自分の未来、自分の道を自分で歩きはじめる。

自分の足で、とは書かない。
自分の手でつかむ、もなじまない。
自分の力、というのも少し違う。

自立のために蓄えるエネルギーは、自分で自分の夢にOKを出す力、夢みていいと思えるための安心できる日々の生活。


夢が、ふつうの生活であることもある。
夢が、ふつうの結婚であることもある。
夢が、ふつうの家族をもつこともある。
夢が、自分の人生を自分で生きるということもある。

生まれたときから普通の生活しかしらない人は、みない夢かもしれない。
見るまでもなくあるものかもしれない。


ふと、最近の貧困問題の流行を思う。

そこで語られている貧困問題は、一人ひとりの子どもをちゃんと見ようとしているだろうか。

「貧困」というなら、この子ほど「貧困」の条件を備えた子はいない。
中卒で施設を出て18でアルバイトで一人暮らしをはじめる。親はいない。


でも、この子の生きる希望は誰より豊かだと感じる。
この子が自分の人生を生きる意思と意欲に、私は心から敬意を抱く。


貧困問題の解決に、教育が大切と言われるが、いまの社会では教育よりも大切なことがたくさんある。

この社会はまだ、15才で義務教育は終わり、あとは一人で生きていけ、という社会だ。

高校の進学率が99%になっても、高校の先生は「定員内不合格」が当たり前だという社会だ。


それは、この社会が、15才の子どもを、子どもがそれまでの環境の中で学び手に入れた学力を測る数字で、「切り捨て、見捨てる」ことが、高校の校長の「教育の仕事」として認められている、野蛮な社会だ。


それならば、中卒で安心して働ける社会を作ってから、貧困問題の解決に教育が大切だと言おう。

中卒でも高校中退で自信を持って働いて生活できる社会を作ってから、教育が子どもたちの希望になると言おう。

その社会で、貧困問題を解決するのに、教育が必要だと、言えば言うほど、そこからもこぼれ落ちる子どもたちを侮辱する社会だ。


この子と3年半、暮らして、私が教えられたこと。
いま、語られている「貧困問題」の解決のほとんどは、この子には何の役にも立たない。


それでも、この子はちゃんと生きていく。
自分の人生を、自分の意思と希望で踏み固めながらいく。
この子の人生は、豊かだ。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「ホームN通信」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事