ワニなつノート

訃報  石牟礼さん死去


訃報

作家の石牟礼道子さん死去 90歳 
「苦海浄土」


毎日新聞2018年2月10日


 人間の極限的惨苦を描破した「苦海浄土」で水俣病を告発し、豊穣(ほうじょう)な前近代に取って代わった近代社会の矛盾を問い、自然と共生する人間のあり方を小説や詩歌の主題にすえた作家の石牟礼道子(いしむれ・みちこ)さんが10日死去した。90歳。
葬儀は近親者のみで営む。


 1927年、熊本県宮野河内村(現・天草市)に生まれた。家業は石工。生後まもなく水俣町(現・水俣市)に移り、水俣実務学校(現・水俣高)卒。代用教員を経て、58年、谷川雁らの「サークル村」に参加。詩歌中心に文学活動を始めた。


 59年には、当時まだ「奇病」と言われた水俣病患者の姿に衝撃を受け、「これを直視し、記録しなければならぬ」と決心。69年、水俣病患者の姿を伝える「苦海浄土」第1部を刊行。

70年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、辞退した。

同書は日本の公害告発運動の端緒となるなど戦後を代表する名著として知られる。

74年に第3部「天の魚」を出し、2004年の第2部「神々の村」で「苦海浄土」(全3部)が完結した。



 水俣病第1次訴訟を支援する「水俣病対策市民会議」の発足に尽力する一方で、水俣病の原因企業チッソとの直接対話を求めた故・川本輝夫さんらの自主交渉の運動を支えるなど、徹底的に患者に寄り添う姿勢とカリスマ性のあるリーダーシップから「水俣のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。


患者らの怒りを作品で代弁して「巫女(みこ)」に例えられるなど、水俣病患者・支援者の精神的支柱となった。


 73年、「苦海浄土」など水俣病関連の作品で「アジアのノーベル賞」といわれるマグサイサイ賞を受賞。

93年、「十六夜橋」で紫式部文学賞。

03年、詩集「はにかみの国」で芸術選奨文部科学大臣賞。

02年に発表した新作能「不知火」は04年に水俣湾埋め立て地で上演されるなど全国的な話題になった。04~14年、「石牟礼道子全集・不知火」(全17巻・別巻1)が刊行された。



 水俣弁をベースにした「道子弁」と言うべき独特の言い回しや、竜などをイメージした神話的スケールの死生観など、同時代の文芸・思想界に大きな影響を及ぼした。

詩人の伊藤比呂美さん、作家の町田康さん、韓国詩人の高銀さんらに慕われ、対談など文学的交流を深めた。

11年には作家の池澤夏樹さんが個人編集する「世界文学全集」(全30巻)に「苦海浄土」3部作が日本人作家の作品として唯一収録された。

 02年ごろから、パーキンソン病を患い、人前に出る機会は減ったが、口述筆記などで執筆活動を継続した。句集やエッセー集を出版するなど書く意欲は衰えなかった。






石牟礼さん死去

水俣病の受難に感応 絶対的な孤独描く



毎日新聞2018年2月10日



1畳にも満たない窓際の板張りが書斎だった。

小学生の頃から使う文机(ふづくえ)で石牟礼道子さんは原稿を書いた。
封建的な農村地帯の主婦だから、夜しか書く時間がない。

1965年に始まった連載「海と空のあいだに」は福岡・筑豊の記録作家、上野英信の尽力で「苦海浄土」となって世に出た。


 他人の不幸を自分のことのように感じる人を水俣では「悶(もだ)え神(がみ)さん」と呼ぶ。

19歳で書いた「タデ子の記」は戦災孤児を自宅に引き取る話である。

苦しむ人を放っておけなかった。

水俣病患者の受難に深く感応し、患者の苦痛や孤独を自分のことのように感じるのは「悶え神さん」ならではである。


 しかし、「悶え神さん」の資質だけなら、石牟礼さんの書くものは通常のノンフィクションのレベルにとどまっただろう。

幼い頃から貧困や狂気と接し、この世から疎外されているような絶対的な孤独を抱え持ち、3度も自殺未遂したことが、作品のスケールを大きくした。


 水俣病患者一人一人の症状、境涯を具体的に記しながら、石牟礼さんは自分の表現の核に達した確かな手応えを感じたに違いない。

他人を書くことで自分の孤独が書ける。

「苦海浄土」は石牟礼さん自身が生きる道を見いだした書である。


 「絶対的な孤独」は安息を許さない。

私(米本)は約4年半、介護を兼ねて石牟礼さんに“密着”させていただいたのだが、慈母の掌(てのひら)に包まれたようなやさしさに時を忘れる一方、生きることへの違和感というしかない虚脱した顔をしばしば目撃することになり、「この人は心から楽しむということがないのではないか」との思いが消えなかった。


 もともと社交的で愛想のいい人だし、とくに来客には、南九州の婦人特有の全身全霊を込めたおもてなしをする。

しかし、石牟礼さん中心に座が盛り上がり、愉快な話題に笑みがこぼれる時でも、さえざえとした孤独がドライアイスの氷霧のように小さな体を包んでいるのが分かるのだ。


 ハゼの子が遊ぶ。巻き貝が落ちる。呼吸音が聞こえる。
石牟礼さんは晩年、「渚(なぎさ)」を好んで語った。

「生類(しょうるい)が海から上がって、最初のみずみずしい姿を保っている。そこが渚です。境目として盛んな行き来がある。大いなる原初の海……」


 10代で教壇に立つ。
炭鉱の「サークル村」に身を置いても、凄絶な水俣病患者救済闘争の現場にいても、いつも石牟礼さんは渚にたたずんでいたのではなかったか。

前近代と近代、生と死、人工と自然--それらのはざまで、リアルかつ夢幻的な文字を紡ぎ出していったのだ。


 石牟礼さんの誕生日は東日本大震災と同じ3月11日である。

2015年3月11日、パーキンソン病で体が不自由な石牟礼さんは「花ふぶき 生死(しょうじ)のはては 知らざりき」と毛筆で書いた。

被災者の惨苦に思いをはせてのことだ。

16年初夏、熊本地震の被災地を回った時は気を失うように倒れ、しばらく身動きできなかった。

水俣病患者の苦しみに終生寄り添った石牟礼さんは、最期まで「悶え神さん」だった。


【米本浩二】



          ◇       ◇       ◇



花を奉る

石牟礼道子



春風萌すといえども われら人類の劫塵 いまや累なりて 三界いわん方なく昏し

まなこを沈めて わずかに日々を忍ぶに なにに誘わるるにや 虚空はるかに一連の花 まさに咲かんとするを聴く

ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視れば常世なる仄明かりを 花その懐に抱けり

常世の仄明かりとは、あかつきの蓮沼にゆるる蕾のごとくして 世々の悲願をあらわせり


かの一輪を拝受して 寄る辺なき今日の魂に奉らんとす



花や何 

ひとそれぞれの涙のしずくに 洗われて咲きいずるなり


花やまた何 

亡き人を忍ぶよすがを探さんとするに 声に出せぬ胸底の想いあり 

そをとりて花となし み灯りにせんとや願う


灯らんとして消ゆる 言の葉といえども いずれ冥途の風の中にて 

おのおのひとりゆくときの 花あかりなるを


この世のえにしといい 無縁ともいう その境界にありてただ夢のごとくなるも花


かえりみれば まなうらにあるものたちの御形かりそめの姿なれども おろそかならず 

ゆえにわれら この空しきを礼拝す 然して空しとは云わず


現世はいよいよ 地獄とやいわん 虚無とやいわん ただ滅亡の世せまるを待つのみか 


ここにおいて われらなお 

地上にひらく一輪の花の力を念じて 


合掌す
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