ワニなつノート

《知的障害児の高等教育を考える》(その4)



《知的障害児の高等教育を考える》(その4)



私は人との出会いに恵まれてきた。

石川先生と篠原先生を、私は勝手に「師匠」だと思っている。
でも、東大病院の医師、あるいは大学教授として先生たちに出会ったのではなかった。

アルバイト先で出会った知ちゃんと、「病院の子どものスキー旅行」に参加して、石川先生に出会った。

知ちゃんの地域の「子ども会のキャンプ」に参加して、篠原先生に出会った。

そのことが、私にはとても幸運なことだと思っている。

師匠の教えを学問や権威としてではなく、目の前の一人の子どもへの「まなざし」として、多くのことを教わることができたと感じている。


その篠原先生も、「知的障害」の人が大学に入るのが当たり前とは言わなかった。
「〇点でも高校へ」は当たり前だが、大学はそうではない、という話だった。


             ◇


【さて、和光大学も、当初からいつでも、どんな「障害」者に対しても開いてきたのではない……。

大学の姿勢と周囲の眼差しのなかで、「見えない」者、「聞こえない」者、「松葉杖をつく」者、そして「車イスにのる」者が順番にハードルを下げさせながら入学してきた。

……ぼくは、…勉強ができてもできなくても「どの子も地域の学校へ」そして「0点でも高校へ」という願い、主張、そして運動に共鳴して、その流れに関わってきたが、この子どもたちも、長じて、何とか高校には入るのだが、こと「大学」というところは、彼らにとって余りにも高嶺の花だった。

ぼくは、大学教員の立場から、彼らの思いにつながって痛みを引きずってきたが、といって、「0点でも大学へ」という一部の主張には共鳴することができなかった。

職場では、「障害」を理由に入学を拒否することには抵抗してきたが、「特別枠」を設けて優先入学させるといういかなる考えにも同意できなかった。

だれにも開かれた「公平、公正な試験」であり続けるほかないと考えてきた。

とすれば、誰にも開かれた唯一の回路は聴講生制度だった。

……ぼくの退職時期までの四年間、ぼくの教室には、「知恵おくれ」の二、三人が、この場合、“ニセ学生”のままずっと出入りしていた。】

(「関係の現像を描く」篠原睦治・編著 現代書館)


          ◇


私も、高校は「みんな」が行くところだけど、大学は違うと思っていた。

それは、ちゃんと考えた答えではなく、私に知的障害児の「高等教育」を考える発想もなかっただけだったのだと、今は思う。


だから、この先は、ゆうきくんやまゆちゃんが、私に教えてくれた「未来」を基にして考えてみたい。

(つづく)
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