ワニなつノート

こだわりの溶ける時間 2018 (その4)



こだわりの溶ける時間 2018 (その4)


B 《ほら、ぼくはうまく逃げ出せたでしょう》



「怒られる」「禁止される」「だめ」と怒られるだけでは、何がダメなのかを学ぶ前に、不安と怖れに凍りついてしまう。そして同じことを繰り返してしまい、同じ怒られ方をかぶせられる。

何も学べず、自信をなくすだけ。自分がダメだということだけを学ぶ―――それが「ふつう学級」なら、子どもが学びに行く意味はない。無力さと屈辱を感じるためだけに行く意味はない

だけど、それは障害の話じゃない。
障害があるからじゃなく、そんな学校は誰にとっても意味がない。


自分がそう扱われることが苦しいだけじゃない。
子どもたちは、誰かがそう扱われるのを見るのも苦しい。


子どもが親に殴られるだけが、虐待じゃない。
父親が母親を殴るのを見ることも虐待だと、ようやく認められるようになった。

自分が殴られるより、大切な人が虐待されるのを目撃することが、深い傷になる場合もある。


学校も同じだ。

ある日、同級生の一人が、消える。
そのことに傷つかない子どもは、本当はいない。


だから、子どもを分けてはいけない。誰も分けてはいけない。

学校は、どの子も大切にされる場所だと学ぶことが基本なのだ。

ふつう学級は、人と人との間の安全な意思疎通の土台となるのだから。


学校に入る前から、5、6歳の子どもに対して、「45分すわっていられるか」と圧力をかけて脅すことに何の意味があるのか。

これから、ひとつひとつを、学んでいくんだろ。

ばくぜんとした不安や、単に先生の話がつまらないから、あるいは教室の外に興味をひかれるものがあるとか、急にトイレに行きたくなることもある…。

いろんな理由で、教室から出て行く子も、たまにはいるだろう。

トイレに行きたくなったら、ちゃんと言葉で伝えるように。
そう教えることも必要だが、相手はまだ人生の新人だ。

時に、「ほら、ぼくはうまく逃げ出せたでしょう」と認められる体験が、信頼や安心につながる子もいるんだよ。


           ◇


「レジリエンスは主体性の産物であり、自分の行動には何らかの効果があるのを承知していればこそ生まれる。

「身体はトラウマを記録する」
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