《この子たちは「入試」を利用する社会に何を伝えてきたか》(その4)
《二つの問い》
(1)何年も浪人する15歳の覚悟は、「言葉」で表現できるだろうか?
(2)それを私たちは、「言葉」で理解できるだろうか?
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《言葉では不可能な対話》
もし完全な言語能力を持っていたとして、7年間RONINしても「行きたい場所」、「生きたいつながり」があることを、15歳の子が言葉で伝えることは可能だろうか。
15歳の人生をかけて、「この生き方をしたい」、「これまでの人生で最も大切な学びはこれだ」と、言葉で伝えられる子がいるだろうか。
それを、言葉で理解できる親がいるだろうか。
言葉や学力ではなく、もっと違う何かで、この子たちは「伝える」をしてきた。
友だちには伝わっている。
親に伝わるのはそれよりも後になる。
そして、本当に伝わるのは入試の後や、定員内不合格の後であることが多い。
中学の先生に伝わることもある。
時には校長先生や教頭先生にも伝わる。
何によって伝わるかは分からない。
言葉によってでないことは確かだ。
時には小学校入学に大反対した教育長にさえ、伝わることもある。
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《共通の学び 伝承の中身》
伝えられたのは言葉でないと、誰もが了解している。
だから、言葉では確かめない。
願いが難しいことは予想できる。この子も知っている。
こうした「未来の予測」についてのやり取りにさえ、「言葉」や「抽象概念」は必要ない。
そうでなければ、私は35年前も今も、同じやり取りに出会うことはなかっただろう。
35年前からのやり取りを、伝承する教育はない。
それなのに、日本中で、15歳の子が、「言葉以外」で友だちに、先生に、そして親に、ちゃんと伝えている。
ちゃんと受け取る仲間がいる。先生がいる。親がいる。
基礎となるのは、小中学校のふつう学級という体験と、高校という目的が明確であることだった。
そこには、共通の「学び」と「何か」が、ある。
「ことば」以外の共通の何か、魔法のようなものがある。
受け取る親の「魔力」がある。
それは何だろう๛ก(ー̀ωー́ก)