ワニなつノート

本のノート2012(その4)

『魂の殺人』A・ミラー  新曜社


(P150~152 要約)

【子どもに寄り添っていてくれる大人抜きでは…】

幼いころに虐待され殴られた子どもにとって、暴力を受けたときの苦しみが意識されぬまま残り、後に他人の苦しみを思いやる妨げとなることがあります。

自分がいじめる相手、殴る相手にわずかな同情も感じることができないのは、自分自身が幼いころに殴られたり侮辱されてきたのに、自分自身の中で、一人ぼっちの虐待される子どもを、意識にのぼせることができなかったからです。

「子どもを理解し、子どもに寄り添っていてくれる大人抜きでは、そんなことはできない相談ですから」

「そういう大人がいてくれてはじめて、子どもは自分がそのとき、弱く、頼りなく、無抵抗の殴られた子どもとして自分を意識することができるはずなのです。」


「話の上では、ある子どもが父親に殴られたけれども、その後優しいおばさんのところで泣きたいだけ泣き、どういうことがあったのかを話すことができて、
しかもこのおばさんが子どもの感じた痛みをごまかしてしまったり、父親を弁護したりすることもせず、
起こったことを起こった通りの重みのあるものとしてそのままにさせておいたという場合を想定することは可能です。
しかし実際にはそんな運のよい例は稀です。」

痛みをわけ合う人のいない子どもは、自分の魂の内にも、自分が泣きたいだけ泣ける部屋をこしらえることができません。

その子は、自分自身の中に「優しいおばさん」の懐を創ることもできず、「歯をくいしばってがんばれ」イデオロギーにしがみつくことになります。

あらがう力も助けてくれるものもない弱いものは、自分自身の中にも憩いの場所を見出せず、そればかりか、その子は成長した後、自分の中のその弱きものをあらゆるところから追い払おうとすることになります。



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初版は1983年。
この本は、私にとってこの30年の間、いつもいちばん大切なたからものでした。


子どものころ、私には世界一大好きな「おばさん」がいました。
雪で通勤の出来ない冬の間だけ、家族で会社の寮に住んでいたときの「おばさん」です。
わたしを「いい子」だと繰り返し言い続けてくれたのは、世界でおばさん一人だけです。

酔っぱらったときの父親が、唯一逆らえなかったのも、おばさんだけでした。


今日、本を開いたら、「そんな運のよい例は稀です」という言葉がとびこんできました。

私にとって、そんな運のよい稀な「おばさん」がいてくれたから、いまこうして、ここで子どもたちの隣にいることができているのだと思います。
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