ワニなつノート

新しいフルインクルの話(メモ5)



《感情の流れを重ねる ①》



感情の流れを重ねるという、つきあい方がある。

子どもの感情の流れに寄り添い、
お互いの感情の流れを重ねるというつきあい方がある。

言葉のつきあいとは別のものらしい。
言葉だけなら、知的な理解があればいい。
でも、言葉のない子どもとも「対話」するには、知的な理解よりも、
感情の流れを重ねあわせた上で、言葉をやりとりすることが必要だ。


基本のイメージは、赤ちゃんと目をあわせること。
赤ちゃんが対話していることに気づくこと。
赤ちゃんに寄り添っていると、
感情の流れがかさなりあう心地よい時間がある。
母親はそれを当たり前に知っていることが多い。

赤ちゃんの感情の流れに寄り添い、いつしか溶け込む感覚。
それは知的な行為ではない。
そこに言葉はまだない。

赤ちゃんの気持ちを「考える」ではなく、
赤ちゃんの気持ちが「分かる」でもない。
まして「理解」などおこがましく、
ただ同じ流れに身を委ねているのを、「感じる」。

いま同じ流れにいることを、
大人の側はかろうじて「意識」することができる。
それをむりに言葉にしてみると、こんな言葉になる。


(ふつう学級を望むのは、圧倒的に母親が多いのだが、たぶんそのあたりのせいだと思う。「子どもを分けてはいけない」にうなずくのは、知的な行為ではないから。)


赤ちゃん同士は、対話している。
感情の流れを重ねあわせている。

幼い子ども同士にもそれがあり、
子どもたちがそれを当たり前に、
身につけていると気づいてしまうとき、
母親の中に、ふつう学級という言葉がわき上がる。

それまで考えたこともない考えが、
心にうかぶことがある。

無理だと思っていた。
だって、この子はまだこれもあれもできない…。
だから無理…。なはず。

なのに、一度思い浮かべてしまった
「もしかしたら…」が心を離れない。
なんの根拠も自信もないのに、
「大丈夫かもしれない」と思ってしまう。


たぶん、根拠がある。

その根拠は何か。

言葉ではない寄り添い方、言葉とは違うつきあい方、
言葉とは別の了解し合う世界があることを、
見て、感じてしまったから。

それは知的な行為ではないから、うまく言葉にはできない。
だから、専門家や多数者の「言葉」に心折れてしまうこともある。

根拠はある。
確かな根拠はある。

子ども同士の感情の流れが、
親の感情の流れに注ぎ込んでしまったから。
子ども同士が感情の流れを寄り添い合わせるうれしさを、
どこかで見てしまったから。

確かな信頼が、そこになければ、
親が委ねられるはずがない。
心配で心配で、できれば手放したくない、
幼いわが子を、委ねられるわけがない。

だから、そこには、確かな信頼があり、
確かな根拠があるのだ。


私が、探しているのは、そういうことかなと思う。


《ふつう学級の良さは、学校を終えてから、より深く感じる》


子どもが小さいうちは、その根拠を確かめる暇もなく、
子どもに寄り添い、駆け抜けるように時間が過ぎる。
そして、子どもが学校を終えて、大人になり、
親たちが同じように口にする言葉がある。
「ふつう」に育ってきてよかったと。

「ふつう学級の良さは、学校を終えてからの方が、
より深く感じる。何度も。何度でも。」


今の学校は、子どもにとってよいとは言えない。
「ふつう学級」で辛い思いをしている子がたくさんいる。
でも、そこには同世代の子どもの「ふつう」があふれている。
一人一人みんなちがう「ふつう」がそこにあり、
いっしょに確かめ合うことができる。

それは、「ふつう」が何かを感じるためにかけがえがない。
障害があって「ふつう」だとわかるには、そこがいい。
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