ワニなつノート

HalとNaoちゃんの待ち時間(7)



HalとNaoちゃんの待ち時間(7)


探しているものは、「失くしてしまった自分」であり、
「認められなかった自分」「受け止められなかった自分」
「消されてしまった自分」「いるのに、いない自分」
誰に消された?
学校に。
周囲に。
そして自分に。

そう、難しいのは、最後は自分で自分を消してしまうところまで
追いつめられることです。
(子どもの自殺を防ぐのが難しいのはここのところを、
私たちが理解できていないからだと思います。)
自殺という形でなくとも、自分で自分を透明と思わされてしまうことは
とてつもなく苦しいことです。

そして、自分で誤って消した自分は、自分一人では取り戻せません。
もう一度、「受けとめなおしてくれる」人に出会わないと
取り戻せないのだと思います。

Naoちゃんが当たり前に手に入れた「クラスの仲間」という宝物を、
Halはある時点でつかみそこねてしまいました。
クラスの仲間のなかに当たり前にいる自分が、
2年生のときにHalの手からこぼれ落ちてしまいました。

小学生が不登校することは、そういうことになります。
そして、その「行けない自分」「行かない自分」は、
小学生であっても自分で引き受けるしかありません。
Halはそこのところを、ずっとずっといつも抱え続けてきたはずです。

HalとNaoちゃんの「日常」のカタチの違い、
それは、HalとNaoちゃんの問題ではありません。
ひとりの子どもの問題ではありません。
すべての子どもを受けとめる場所としての学校の貧しさの問題です。
それは、単に学校が悪い、先生が悪い、ということではありません。

(制度のこと、親のこと、地域のこと等、
話が広がりすぎる部分はまた別の機会に)

私がちゃんと考えておきたいのは…、
HalとNaoちゃんという二人の「幸運」について、です。
その幸運は、やっちゃんも、なっちも、
ゆうきくんも、きひちゃんも、みんな同じなのですが…。

その子どもたちの笑顔の先には、
「ひたすら人間的な対応と、誰に対しても一人の人として
受けとめ合う覚悟をもった人たちのまなざしがありました。」(※1)

私は、HalとNaoちゃんの見事な「自分の成長」に
心から感心しています。
すごいなーと思います。

そこに共通しているのは、親の子どもへの信頼と、
子どもを取り巻く世界への親和性と、子どもを守り切る覚悟、
といったものでしょうか。

HalとNaoちゃんを育てた親の受けとめ方、
受けとめられている自分を十分に感じられる二人の幸運と幸せ。
どんなときも一人でここにいるのではなく、
自分を受けとめてくれる人とのつながりの中にあることの自覚。
それをどんなときも手放さないでいられる幸せ。

それがあったからこそ、Halは3年かけて、
もう一度学校に行っても消えない自分を、
取り戻すことができたのだと思います。

たった7才で、そのことに向き合う自分を引き受けて、
十分に自分と向き合い、
果てしない時間をかけて考えてきたのです。

Halが自分の持ち時間を思う存分使って自分に向き合えたのは、
透明になりかけた自分を、ちゃんと見てくれていた両親と
妹がいてくれたおかげでした。

みんなのいく学校、みんなのいる学級。
子どもがみんな安心して行ける場所のはずなのに、
そこでは消えてしまいそうだった自分を、ちゃんと、
はっきり、くっきり、Halのありのままの輪郭を見失わず、
見守ってくれた両親のおかげでした。

そのことを、十二分に了解した上で、
私にはHalにもNaoちゃんと同じように、
たとえ廊下で一か月寝ころんで暮しても、
水着にゴーグルで授業を受けても、
当り前にクラスの一人として、
安心して暮らせる学校を考えておきたいと思うのです。


(※1)
2008年8月14日のブログ「伊部さんへ」から。
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