ワニなつノート

『逝かない身体』より(その3)  

『逝かない身体』より(その3)  

勝手にワニなつ翻訳


【つくられる意味】

◆【私には口文字の読み取りはできなかったが、
意訳し説明することは任された。
普段の会話ではいちいち意訳することもないが、
公式の場ではもう一段階の通訳が必要なのである。
すると、回を重ねるにつれて、
だんだんと橋本さんの表現方法がわかってきて、
「あっ」と気がつく瞬間がやってきた。】


☆言葉のない子どもであっても、どんなに重い障害があっても、
たとえ医者に「この子は耳も聴こえていないし、
目も見えていない」と言われても、
一日入学で学校に入った途端、
その場の子どもたちのエネルギーをあびて、
生まれて初めて出会う「ともだち」に
笑顔でこたえる子どもの表情に、
親が「あっ」と気がつく瞬間があります。

そのまわりにいた大人たちには、
その子どもの笑顔がみえなくても。
母親にだけ、見える笑顔がたしかにそこにはあります。

そうでなければ、養護学校の入学通知を返してまで、
4月になってもなお、「ふつうの小学校にいきたい」と
言い続けることはできません。


◆【橋本さんの意訳をしているとき、
その場で彼女が何を言いたいのかを即座に予測し、
こちらで言葉を足して説明することがよくある。
私はそのたびに「こういう意味?」と
確認するようにしているが、
橋本さんは「そうだ」とばかりに目で頷く。】



☆親の次に、言葉のない子どもと、
ふつうにコミュニケーションできるようになるのが、
子どもたちでした。

また、言語障害のある言葉にならない言葉を、
先生はもちろん親でさえ、聞き分けられない子どもの言葉を、
ふつうに聞き分けることができるようになるのもまた、
子どもたちでした。

しかも、その「聞き分けている発音」が、
勝手に翻訳しているのではなく、
ちゃんと聞こえているのだということは、
後から分かります。

その子の発音が少しずつ成長してくると、
大人たちにも聞き分けられるようになるからです。


◆【意訳者は大勢の人に向かって、
「こういう意味を橋本さんは言っている」と
説明することになるのだが、それがどの程度まで正確に
彼女の真意を捉えているかはわからない。
たまに意訳しすぎて彼女の意図していないことまで
言ってしまうこともあるかもしれない。
そんなときも橋本さんは、にやっと笑うだけ。】



☆言葉が話せようが、話せまいが、
コミュニケーションというのは、完全ではありません。
言葉にとらわれすぎているから、言葉の障害のある子どもに、
「ことば」と同じようにコミュニケーションに必要な、
「ただいること」「いっしょにいること」
「いることを、お互いに知っていること」
「ひとりじゃない」ということを、
二の次にしてしまう間違いを繰り返すのだろう。

◆【…「私はいちばん重いよ」
「私に大きな声が出せたなら…」
二重の通訳を介さないと討論に参加できないのでは、
壇上にいても言いたいことが言えない。
自分の声で自由に表現できない悔しさを、
シンポジストの橋本さんは抑えていた…】


☆特別支援教育は、ここで、
「では、自分でしゃべれるように、個別で訓練しましょう」
というのだろう。
でも、やるべきことは、根性なしのこちらに、ある。


◆【そんなとき意訳者は、橋本さんの顔を見ながら、
何か言いたいんだろうというタイミングで
議論に横槍を入れることもある。
お手つきになるかもしれないが、そんなことは構わない。
他者の議論に割り込み、橋本さんの出番をつくるのも
私たちの役目である。】


☆みんな一緒の学校に割り込み、子どもの出番をつくるのも、
普通学級の介助者の役目である。
普通学級の介助。
そのことに理解のある教師がいれば、
普通学級の介助者が出番がなくなることもある。
それが、もっとも高度な「普通学級の介助の専門性」という。
介助なんて、そこにいることが
最初から「お手つき」みたいなものだと、
自分を知っておくことが大事なことだと思います。
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