2-1.勝手の違う戦争となった「第二次中東戦争」
1956年7月26日、エジプトのナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言。これが引き金となってイギリスとフランスの軍事介入を招いた。イギリスとフランスはスエズ運河の実力による奪還を計画し、その作戦にイスラエルを取り込んで侵攻作戦を立案した。
チェコスロバキアからの軍用機輸入が途絶えたイスラエルは、フランスからジェット軍用機を導入して近代化を進め、エジプト空軍に対抗した。この作戦でのイスラエル空軍戦闘機隊の主力はミステール、戦闘爆撃隊の主力はウーラガンで構成されている。
同年10月29日夕刻、スエズ運河奪還の戦いは、ミトラ(スエズ運河から約70km東方)への空挺作戦で開始された。イスラエル空軍が強く望んでいた地上での航空撃滅戦は、開戦2日目の10月30日に実施されたが、結果的にエジプト空軍主力を取り逃がすこととなり、シナイ半島の戦場ではイスラエル空軍戦闘機隊とエジプト空軍戦闘機隊の勢力が拮抗する事となった。
エジプト空軍はイスラエル空軍の主力戦闘機ミステールによく対抗して戦った。チェコスロバキア製MiG-15bisを操縦していたのは、エジプト空軍パイロットではなく、中国大陸の内戦や朝鮮戦争で見られたように、ソ連空軍パイロットだった可能性もある。
第二次中東戦争はイギリス、フランスが計画通りの成果を上げられないまま、両国への国際世論の反発の強まりと、これ以上の戦闘拡大を望まないアメリカ、ソ連の思惑によって同年11月6日に停戦を迎えた。
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