重低音のBlue Canary

♪ 思いつくままを、つたない文と photo で …

デジカメ

2006-03-15 | ぼやき
デジカメって、便利ですよね。
パチリと撮って、写り具合をモニター画面で確認して、気に入らなかったら削除して、もう1度パチリ。

携帯カメラも最近は画素数が多くなり、きれいに写せて、そのままメールでパソコンに送ってブログにアップもできますし。
私もずいぶん重宝しています。ブログに載せている写真のほとんどを携帯カメラで写していますから。

でもねえ……。
なんか、味気ないんですよねえ、デジカメの写真って。
とりあえずきれいはきれいなんですが、深みがないというか、温かさが伝わってこないというか。

もちろん、自分に技術とセンスがないのが一番の原因だと自覚していますよ。
写している瞬間は、うまく撮れたはずと思っても、出来映えを確認してみると、「う~ん…」って思うことがほとんどですから。

けれど、デジカメ写真に感じる味気なさって、技術や感性の問題だけではないと思うんですよ。

科学的に言えば、無限の広がりを持つ銀塩フィルムの化学反応に対して、究極的には「0」と「1」の配列でしかないデジカメによる電磁的記録の違い――それが微妙な陰影や色彩を充分に再現し切れない最大の理由?

う~ん……。
でもまだ納得がいかないんですよね、下手は下手なりにある、銀塩写真とデジカメ写真で感じる、温かさの伝わり方の違いが。

もしかすると……。
写し手の、姿勢というか、心の持ち方の違いが、結果に表れるんじゃないでしょうか。そんな気がしてなりません。

下手ですが、写真を撮るのが大好きです。
北海道での単身生活時代、週末や連休には、銀塩カメラと数本のレンズと三脚を助手席に乗せ、北の大地の自然を写しに走り回っていました。

すると、向こうから目に飛び込んでくるんですよね、「私を撮って!」と訴えてくる被写体が。自分でキョロキョロ探さなくても。

広大な風景であったり、道端に咲く一輪の花であったり……。

車を止め、三脚を立て、カメラを据えて、ファインダーを覗きます。
けれど、すぐには写しません。
待ちます。
光の加減を。
そよ吹く風の息使いを。
「いまだ!」と、指が勝手にシャッターボタンを押すまで、待ちます。

だって、高いんですよ。フィルム代も、現像代も、結構。
貧乏サラリーマンの私に、手当たりしだい撮りまくる経済的余裕なんて、ないですから。
みみっちい話かも知れませんが、それも1つの現実です。

だから、「その瞬間」を感じるまで、待ちます。
待って、待って、待って写しますから、写した1枚の映像の中に、その時の写し手の「思い」が、一緒に閉じ込められるんだと思うんですよね。

ところがいま、デジカメを手にした自分は、どうなのか――。

失敗したら即「削除」すればいい――最初からそう思って撮り始めますから、レンズを向けた被写体に、きちんと、時間を掛けて、向かい合って撮ってはいないんですよ。
そんな撮り方をしている自分に、最近気づきました。

そんなことでは、満足いく写真を撮れるはずがありませんよね。
撮った写真に、気持ちが籠るはずもなければ、見ていただいた方に何かが伝わるはずもないんですよ。

最近ますます下手になっていく自分のデジカメ写真を見ながら、反省しきりの今日この頃です。