
シュタイナー「死について」春秋社 (2012/2/16)を読みました。
この本は、以前紹介した
●『シュタイナー「魂について」』(2012-04-05)
と同じシリーズにあるものです。
シュタイナーは前から気になり、時々関連本のことを書いています。
●『「モモ」を読む シュタイナーの世界観を地下水として(2012-11-26)
●ワタリウム美術館「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(2014-05-12)
●高橋巌・荒俣宏「神秘学オデッセイ―精神史の解読」(2014-06-20)
先日、素敵なご縁をいただき、シュタイナー医学であるアントロポゾフィー医学の講演会にも参加させて頂きました。
ドイツ人講師のルース・マンデラさんの講義を聴きましたが、薬用植物学者さんであることがにじみ出るような植物の雰囲気をまとう素敵な先生でした。
シュタイナーの思想もアントロポゾフィー医学も、そう一筋縄では理解できないようなコード化された世界ですが、無性に惹かれるものがあり定期的に接しています。
*******************
シュタイナーは魂と霊という言葉を区別して使いました。
霊というのは、魂がぎりぎりのところに立たされたとき、言い換えれば、わたしたちが命がけになったとき、はじめて現れてくるような自分の在り方です。
いのちがけにならなければ、魂は霊的になることはなく、自己中心的であり続けます。
ですから、霊と死は、同じことを意味する二つの言葉なのだといえるような気がします。
その意味で、霊界は死後の世界、霊的認識は死後の認識と言い換えることもできます。
*******************
→
翻訳されている高橋巌先生の発言です。
人間の別の側面も同時に重ね合わせて見ることをシュタイナーは説いているようです。
人間は誰もが必ず死ぬ(この世からあの世に移動する)わけですから、やはりそういう死に接する医療現場で働いている身としては、どの考えにも固定化することなく、色んな人が色んな表現をしているものをいろいろ学びたいな、というのがあります。
============
死者との語らい
『人間生活の中で死者と結ぶ付くことのない眠りや目覚めの瞬間は存在しません。
眠りに入るときは、私たちが死者に向かい合うのに特別好都合な時間です。
死者に何かをたずねたいときは、眠るときまで、問いを心の中に抱き続けます。
問いかけたいこと、伝えたいことを眠る瞬間まで保持して、眠る瞬間になったら、死者にそれを問いとして発するのです。
これに対して、死者が私たちに伝えることがあるときには、目覚めの瞬間がもっとも適しています。
本来、私たちは無意識の中では絶えず死者たちと語り合っていますが、特に眠るとき、わたしたちは魂の深層で死者たちに語るべき事柄を語り、目覚めに際して死者たちが私たちに語りかけ、答えてくれます。
けれども、霊的な観点から言えば、いずれの場合にも時間の前後関係はありませんちょうど地上に二つの場所が同時に存在しているように、眠るときと目覚めるときとは、高次の世界において同時に存在しているのです。』
============
→エジプト人も、眠りは死ととらえていたようです。
僕らは日々眠ることで死んでいて、日々起きるときに再生している。
それはわかるような気がします。
眠りをそういう観点でみると、すでにそれは自分の中に生と死が一つになっていることのメタファーであるように思えます。
============
苦悩する時代に
『私たちがこの世に生まれたとき、肉体と結びついたエーテル体はすでに老いており、この世の人生の過程でますます若くなり、死の門を通るときに幼年期にいたるのだと。
ですからこうも言えます。
或る人が若くして死ぬとき、そのエーテル体も若いのではなく、特定の成熟段階に達しているのだと。』
============
『肉体は一種の神殿であり、小宇宙なのです。
人体の形姿は、本当に、宇宙全体から取り出されたものなのです。
人体は奇跡の産物なのです。』
============
『人間自身は脳によって思考しますが、地球はこの眠っている人間の体によって思考するのです。
ですから、眠っている一人ひとりは、いわばそれぞれの地球の脳の分子になっているのです。
・・・・
眠っている人間のエーテル体によって、地球は自分の中の宇宙的なものを霊視するのです。
若くしてこの世を去った人のエーテル体の中には、まだ非常に多くの未使用の天上の光が残っています。そうした夭折した人のエーテル体は、天井の力の仲介者になるのです。
人間の魂の個性の働きとはまったく別のところで、天上からの贈りもの、霊界からのイマジネーションがこのエーテル体から流れてくるのです。』
============
→エーテル体は、肉体の周りにある目に見えないもう一つの体のことです。
このエーテル体は肉体の鋳型で、そしてエネルギーの通路としての役割もあるとされています。
こういう別の体(第二の身体)を受け入れるか受け入れないかで、医学も人間の見方も、広くも狭くもなりうるものですね。
地球にとっての脳が人間、というのは自分もよく感じます。
だからこそ、人間が自然に少しだけ手入れをして調整する役割が与えられたのだろうと思いますし・・・。
============
ゲーテと19世紀の危機 第九講 ドルナハ 1916/10/2
『エーテル体をどう感じ取るか
地球における植物は、大地から成長します。
人体における「植物」は、根を外に持ち、人体の中へ成長していきます。
ですから花は人体の内部に求めなければいけません。
この人体は、つまり眠っている人の内部は、非常に美しいのです。
その内部は、いわば地球そのものになって、芽生え、成長する植生がそこに現れているのです。
しかし、その時、その植生をそこなうものも見えます。
アストラル体がその根をかじっているのです。
動物界が夏の間に成長する植物を上から下へ食べつくす一方で、私たちのアストラル体は実際に動物のように、生命の根を齧るのです。
地球の中に沈潜するとは、地球の中を貫き、世界を霊化する神的なものの中に沈潜することに他ならないのです。』
============
『思い出すとは、無意識の読書行為なのです。
そこにあるものは、エーテル体が肉体に刻み込んだ記号なのです。』
============
「人間とは、私たちが普段そう思っているような、からだをまとった小さな存在とは、まったく違った存在なのだ。」
どうぞ、私たちの日々の厳しい体験が、魂の感受性を深めるために役立ってくれますように。
ベルリン 1915/4/20
============
============
死後、しばらくして意識が目覚める、という言い方が正しくはありません。
死者はあまりにも多くの意識を持ち始めるので、自分の担える範囲内に意識を調整しなければいけない、という言い方が正しいのです。これが霊界における新たな目覚めなのです。
============
死後の人びとの魂は宇宙と結びついています
============
戦争は、進化のためのひとつの病気のようなものだと考えることができます。
============
死は人生の一種の場面転換です。
============
人は、地上で学んだことを、死の門をとおった後、霊界に差し出さなければいけないのです。
============
→死という現象にはいろいろなものが含まれているようですね。
============
音楽について
死後の私たちは、アストラル体を脱ぎ捨て、いわば、私たちの音楽を宇宙音楽に切り替えるのです。
ですから、音楽と詩文を体験するときのわたしたちは、死後の世界を先取りして、その中で生きているともいえるのです。
空間について
地上では、中心にいる自分が周囲を見ているのですが、死後の私たちは周囲にではなく、自分の内部に目を向けます。人体そのものの秘儀に目を向けるのです。
地上の生活では皮膚の内側に隠されていたものを、自分の世界として見るのです。
============
→「宇宙音楽」というのはすごい言葉で魅惑的です。
そして、死ぬと、自分の内部の世界こそが世界そのものになる、というのはすごいです。
思考そのものがこの世界に反映される、というのはスウェーデンボルグも指摘していますが、思考も含めた内部すべてが反転する、というのは不思議な納得感があります・・・。
●「スウェーデンボルグの「天界と地獄」」(2013-03-27)
●「スウェーデンボルグの思想―科学から神秘世界へ」(2013-03-12)
============
たとえ私たちが地上で体験する鉱物界、植物界、動物界、森や山、星空などのすべてを集めても、人体の内部に秘せられている内容の豊かさにははるかに及ばないのです。
============
→僕ら全員に平等に与えられている『からだ』にこそ、自然全ての叡智が込められているようですね。
============
魂がユーモアに心を開いていることは、厳粛なことを本当に厳粛に受け止めるための良い手段なのです。
ユーモアのない人は、自分を不純にし、まじめさをセンチメンタルな気分によってごまかしてしまいます。
そして、センチメンタルな気分くらい、人生の深刻な事柄を深刻に受け止めるのに妨げとなるものはありません。
============
→笑う瞬間に、だれでもエゴが外れて悟りと似た状況になっている、とはよく聞きます。
ユーモアは、そうしてひとつ上の次元から余裕を持って自分を見つめる視点をもてることなのだと思います。
ユーモアや笑いを忘れず、それでいて「死」のことから色んなことを学べれば、こんなに素敵なことはないですよね。(^^
この本は、以前紹介した
●『シュタイナー「魂について」』(2012-04-05)
と同じシリーズにあるものです。
シュタイナーは前から気になり、時々関連本のことを書いています。
●『「モモ」を読む シュタイナーの世界観を地下水として(2012-11-26)
●ワタリウム美術館「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」(2014-05-12)
●高橋巌・荒俣宏「神秘学オデッセイ―精神史の解読」(2014-06-20)
先日、素敵なご縁をいただき、シュタイナー医学であるアントロポゾフィー医学の講演会にも参加させて頂きました。
ドイツ人講師のルース・マンデラさんの講義を聴きましたが、薬用植物学者さんであることがにじみ出るような植物の雰囲気をまとう素敵な先生でした。
シュタイナーの思想もアントロポゾフィー医学も、そう一筋縄では理解できないようなコード化された世界ですが、無性に惹かれるものがあり定期的に接しています。
*******************
シュタイナーは魂と霊という言葉を区別して使いました。
霊というのは、魂がぎりぎりのところに立たされたとき、言い換えれば、わたしたちが命がけになったとき、はじめて現れてくるような自分の在り方です。
いのちがけにならなければ、魂は霊的になることはなく、自己中心的であり続けます。
ですから、霊と死は、同じことを意味する二つの言葉なのだといえるような気がします。
その意味で、霊界は死後の世界、霊的認識は死後の認識と言い換えることもできます。
*******************
→
翻訳されている高橋巌先生の発言です。
人間の別の側面も同時に重ね合わせて見ることをシュタイナーは説いているようです。
人間は誰もが必ず死ぬ(この世からあの世に移動する)わけですから、やはりそういう死に接する医療現場で働いている身としては、どの考えにも固定化することなく、色んな人が色んな表現をしているものをいろいろ学びたいな、というのがあります。
============
死者との語らい
『人間生活の中で死者と結ぶ付くことのない眠りや目覚めの瞬間は存在しません。
眠りに入るときは、私たちが死者に向かい合うのに特別好都合な時間です。
死者に何かをたずねたいときは、眠るときまで、問いを心の中に抱き続けます。
問いかけたいこと、伝えたいことを眠る瞬間まで保持して、眠る瞬間になったら、死者にそれを問いとして発するのです。
これに対して、死者が私たちに伝えることがあるときには、目覚めの瞬間がもっとも適しています。
本来、私たちは無意識の中では絶えず死者たちと語り合っていますが、特に眠るとき、わたしたちは魂の深層で死者たちに語るべき事柄を語り、目覚めに際して死者たちが私たちに語りかけ、答えてくれます。
けれども、霊的な観点から言えば、いずれの場合にも時間の前後関係はありませんちょうど地上に二つの場所が同時に存在しているように、眠るときと目覚めるときとは、高次の世界において同時に存在しているのです。』
============
→エジプト人も、眠りは死ととらえていたようです。
僕らは日々眠ることで死んでいて、日々起きるときに再生している。
それはわかるような気がします。
眠りをそういう観点でみると、すでにそれは自分の中に生と死が一つになっていることのメタファーであるように思えます。
============
苦悩する時代に
『私たちがこの世に生まれたとき、肉体と結びついたエーテル体はすでに老いており、この世の人生の過程でますます若くなり、死の門を通るときに幼年期にいたるのだと。
ですからこうも言えます。
或る人が若くして死ぬとき、そのエーテル体も若いのではなく、特定の成熟段階に達しているのだと。』
============
『肉体は一種の神殿であり、小宇宙なのです。
人体の形姿は、本当に、宇宙全体から取り出されたものなのです。
人体は奇跡の産物なのです。』
============
『人間自身は脳によって思考しますが、地球はこの眠っている人間の体によって思考するのです。
ですから、眠っている一人ひとりは、いわばそれぞれの地球の脳の分子になっているのです。
・・・・
眠っている人間のエーテル体によって、地球は自分の中の宇宙的なものを霊視するのです。
若くしてこの世を去った人のエーテル体の中には、まだ非常に多くの未使用の天上の光が残っています。そうした夭折した人のエーテル体は、天井の力の仲介者になるのです。
人間の魂の個性の働きとはまったく別のところで、天上からの贈りもの、霊界からのイマジネーションがこのエーテル体から流れてくるのです。』
============
→エーテル体は、肉体の周りにある目に見えないもう一つの体のことです。
このエーテル体は肉体の鋳型で、そしてエネルギーの通路としての役割もあるとされています。
こういう別の体(第二の身体)を受け入れるか受け入れないかで、医学も人間の見方も、広くも狭くもなりうるものですね。
地球にとっての脳が人間、というのは自分もよく感じます。
だからこそ、人間が自然に少しだけ手入れをして調整する役割が与えられたのだろうと思いますし・・・。
============
ゲーテと19世紀の危機 第九講 ドルナハ 1916/10/2
『エーテル体をどう感じ取るか
地球における植物は、大地から成長します。
人体における「植物」は、根を外に持ち、人体の中へ成長していきます。
ですから花は人体の内部に求めなければいけません。
この人体は、つまり眠っている人の内部は、非常に美しいのです。
その内部は、いわば地球そのものになって、芽生え、成長する植生がそこに現れているのです。
しかし、その時、その植生をそこなうものも見えます。
アストラル体がその根をかじっているのです。
動物界が夏の間に成長する植物を上から下へ食べつくす一方で、私たちのアストラル体は実際に動物のように、生命の根を齧るのです。
地球の中に沈潜するとは、地球の中を貫き、世界を霊化する神的なものの中に沈潜することに他ならないのです。』
============
『思い出すとは、無意識の読書行為なのです。
そこにあるものは、エーテル体が肉体に刻み込んだ記号なのです。』
============
「人間とは、私たちが普段そう思っているような、からだをまとった小さな存在とは、まったく違った存在なのだ。」
どうぞ、私たちの日々の厳しい体験が、魂の感受性を深めるために役立ってくれますように。
ベルリン 1915/4/20
============
============
死後、しばらくして意識が目覚める、という言い方が正しくはありません。
死者はあまりにも多くの意識を持ち始めるので、自分の担える範囲内に意識を調整しなければいけない、という言い方が正しいのです。これが霊界における新たな目覚めなのです。
============
死後の人びとの魂は宇宙と結びついています
============
戦争は、進化のためのひとつの病気のようなものだと考えることができます。
============
死は人生の一種の場面転換です。
============
人は、地上で学んだことを、死の門をとおった後、霊界に差し出さなければいけないのです。
============
→死という現象にはいろいろなものが含まれているようですね。
============
音楽について
死後の私たちは、アストラル体を脱ぎ捨て、いわば、私たちの音楽を宇宙音楽に切り替えるのです。
ですから、音楽と詩文を体験するときのわたしたちは、死後の世界を先取りして、その中で生きているともいえるのです。
空間について
地上では、中心にいる自分が周囲を見ているのですが、死後の私たちは周囲にではなく、自分の内部に目を向けます。人体そのものの秘儀に目を向けるのです。
地上の生活では皮膚の内側に隠されていたものを、自分の世界として見るのです。
============
→「宇宙音楽」というのはすごい言葉で魅惑的です。
そして、死ぬと、自分の内部の世界こそが世界そのものになる、というのはすごいです。
思考そのものがこの世界に反映される、というのはスウェーデンボルグも指摘していますが、思考も含めた内部すべてが反転する、というのは不思議な納得感があります・・・。
●「スウェーデンボルグの「天界と地獄」」(2013-03-27)
●「スウェーデンボルグの思想―科学から神秘世界へ」(2013-03-12)
============
たとえ私たちが地上で体験する鉱物界、植物界、動物界、森や山、星空などのすべてを集めても、人体の内部に秘せられている内容の豊かさにははるかに及ばないのです。
============
→僕ら全員に平等に与えられている『からだ』にこそ、自然全ての叡智が込められているようですね。
============
魂がユーモアに心を開いていることは、厳粛なことを本当に厳粛に受け止めるための良い手段なのです。
ユーモアのない人は、自分を不純にし、まじめさをセンチメンタルな気分によってごまかしてしまいます。
そして、センチメンタルな気分くらい、人生の深刻な事柄を深刻に受け止めるのに妨げとなるものはありません。
============
→笑う瞬間に、だれでもエゴが外れて悟りと似た状況になっている、とはよく聞きます。
ユーモアは、そうしてひとつ上の次元から余裕を持って自分を見つめる視点をもてることなのだと思います。
ユーモアや笑いを忘れず、それでいて「死」のことから色んなことを学べれば、こんなに素敵なことはないですよね。(^^