日常

「スウェーデンボルグの思想―科学から神秘世界へ」

2013-03-12 11:09:32 | 
高橋和夫さんの「スウェーデンボルグの思想―科学から神秘世界へ」講談社現代新書(1995) を再読しました。
この本は新書のレベルをはるかに超えてすごい本です!復刊大希望!!


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<商品の説明 内容(「BOOK」データベースより)>
時代を先取りした宇宙論や大脳観の先見性。夢や幻視体験から得られた、独自の霊界論と、普編宗教への希求。一八世紀スウェーデンの天才の、科学と神秘をかけ渡す思想を概観。
<著者について>
1946年、新潟県生まれ。学習院大学大学院博士課程修了。専攻は哲学・宗教学。現在、文化女子大学文学部教授。訳書に、カッシーラー『カントの生涯と学説』(共訳)──みすず書房──などの他、ラーセン編『エマヌエル・スウェーデンボルグ』──春秋社──日本版監修。
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スウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg:1688-1772年)は、スウェーデン生まれの科学者・神学者・神秘主義思想家です。

精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などあり、現代ではノーベル賞級の研究を多数行っています。飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボルグ26歳の時で、アメリカのスミソニアン博物館に保管されているとのこと。
その果てに、あの世(霊界)まで研究しているので、その文脈だけで取られることが多い人ですが、オカルトやスピリチュアルのような狭い概念をはるかに超えた壮大な世界観を開拓していった大巨人です。

田口ランディさんの「アルカナシカ」にも、大哲学者カントとの比較で述べられています。
田口ランディ「アルカナシカ」(2011-07-03)




■スウェーデンボルグに関して

スヴェーデンボルグから影響を受けた著名人としては、
ヘレン・ケラー、ゲーテ、バルザック、ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドガー・アラン・ポー、ストリントベリ、ボルヘス、ウィリアム・ブレイク・・・・など。数知れずいます。


ヘレン・ケラー
「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。
もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」


内村鑑三
「彼の心は余の構想力を越えた心であった。彼の洞察ははなはだ多くの場合においてまことに驚嘆すべきものである。
・・・あの著しい人の余の思想に及ぼした影響は常に健全であった。」




そして、そのスウェーデンボルグを日本に初めて紹介したのは世界的禅僧の鈴木大拙老師なのです!これには驚いた。

鈴木大拙「スヱデンボルグ」諸言
『神学界の革命家、天界・地獄の遍歴者、霊界の偉人、神秘界の大王、古今独歩の千里眼、精力無比の学者、明敏透徹の科学者、出俗脱人の高士、之を一身に集めたるをスヱデンボルグとなす。』



鈴木大拙は自宅に
To do good is my Religion 
という、スウェーデンボルグの標語を板に彫って掲げていたとのこと。仏教や禅などの狭い宗教世界を超えて、本質の領域でいかスウェーデンボルグを尊敬していたかがわかるかと思います。


スェデンボルグ
「All religion has relation to life, and the life of religion is to do good.」
宗教はすべて生命(Life)と交渉す、而して宗教の生命(Life)は善をなすにあり

スウェーデンボルグ「生命」
『宗教はすべて生命に関係し、宗教の生命は善を行なうことにある。』






エマヌエル・スウェーデンボルグの「エマヌエル」は「神が我らと共に存す(います)」という意味。

彼が子供のころ、呼吸が停止してまうような状況に度々遭遇し、その時の意識状態を自分の体で人体実験していたようです。
そして、呼吸数を心臓の拍動数と一致させようとすると、理解力がほとんど消えそうになる、ということも子どもの時に発見したと。
これはかなり危険な呼吸法ではありますが、偶然にもヨーガでいう「プラーナーヤーマ」という思考を制御する呼吸法のひとつにもなっていた。

こういう呼吸法を無意識に行っていたことも、あらゆる学問を修めた後にあの世の学問までも包括して行った一因かもしれません。
無意識の呼吸法で、体外離脱現象の練習になっていたのかもしれません。



スウェーデンボルグはハレーの下(ハレー彗星の発見者!)で天文学を研究し、軍事的天才とされるカルル12世と共に貴族院議員、鉱山技師としても活動した。
その後、ニュートンの重力伝達の問題や宇宙生成の問題に哲学的に挑戦して、『太陽系生成論』を発表した。
これは、1687年『自然哲学の数学的原理(プリンキピア)』(ニュートン)に対抗したものらしい。



■医学研究の質の高さ
宇宙論の次は生命論、霊魂論へと移行する。

未完の大著『霊魂の王国(レグナム・アニマーレ)』では、10年もの間ミクロコスモスとしての人体を研究した。

その研究の中で、
1.大脳皮質が意識の座
2.大脳皮質機能の局在性
3.脳脊髄液の性質
4.脳のリズミカルな運動が(心臓や血流とではなく)呼吸と同調して起こる。
5.内分泌線の機能の解明、脳下垂体の重要性
6.脳波
7.右脳と左脳の機能の違い
8.心身医学的知見の提唱
というのは、医学研究の中でスウェーデンボルグが初めて提唱したものらしい。あらゆるジャンルで先駆的な研究を残している。




■あの世の研究
その後、スウェーデンボルグは神秘思想、霊界研究へと移る。

ケネスリングは、「臨死体験者は死の入り口を垣間見たに過ぎないが、Swedenborgは死と言う家全体を探索したのだ。」と称している。

スウェーデンボルグによると、霊界(あの世)で産出する環境は幻影ではなく、生きた霊的な自然。実在的な外観(apparentiae reales)であると。もう一つのRealityであると言っている。
霊界では空間に代わって生命の状態があり、時間に代わって生命の状態の変化がある。として、
『想念や情念に照応した生きた霊的な自然物を瞬時に産出する。』と言う。
この世では自分の本音は心の中で隠せてしまうが、あの世では本音(思い)がそのまま形となり、隠し事や嘘ができない世界らしい。
それを考えると、この世では素直で正直な状態になる練習をしているようなものかもしれない。





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「霊魂は死後に生きる人間そのものであり、霊魂と言うよりも霊、内的な人間と言った方が適切である。」
スウェーデンボルグ『天界の秘儀』
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「死とは絶滅ではなく、生の連続であり、一つの状態から別の状態への移行に過ぎない。」
スウェーデンボルグ『真のキリスト教』
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「肉体がその霊と一致して活動できないような状態に入ると、分離、つまり死が起きる。
そのとき照応が消滅し、連結が消滅するからである。
その消滅は呼吸の停止ではなく、心臓の拍動が停止する時に起こる。  
心臓が動いている限り、愛はその生命の熱として留まって、生命を維持しているからである」
スウェーデンボルグ『神の愛と知恵』
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この本では、スウェーデンボルグが見てきた霊界(あの世)がどんなとこだったかが学者的な精密さで記述されていく。



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「霊界全体が理想的な形態をとるとき、ひとりの人間の形態となるという。
それは最大にして神的な人間である(maximus et Divinus Homo)。」
『天界と地獄』
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○「死後は、人間の宗教的・道徳的性格(愛や信仰、善や悪)を縦軸とし、個性や好みを横軸として幾層にもすみ分けられている。」
→グループ化されているらしい。

○「死後3日で「霊たちの世界」に入る。上層ないし内部からくる「善」と、下層ないし外部から来る「悪」との霊的な均衡によって存在する世界。」
→あの世はイメージ(想念)が現実化する世界のようですが、イメージの中に善と悪があるかぎり、あの世でも善と悪の均衡は存在しているらしい。
地獄も、自分の悪の想念によって自分が居心地良い場所として自分から行く場所であるようだ。罪の罰で地獄に行くのではなく、あくまでも自分の心的世界の反映とのこと。

○「霊界では思考と言葉、意図と行動は必ず一致する。この一致の法則が自覚されるようになる世界。この過程で、新参者の霊は少しずつ本性をあらわにしていく。」
→素直で正直なのが一番なのでしょうね。その練習を少しずつしないといけません。

○「人間の真の性格を決定づけるのは、各人の優勢となった「愛」(Amor regnans)。愛とは意欲・意志・情愛・感情・情動などの総称。知性的な機能よりも根源的なもの。」
→このあたりが、現代のスピリチュアルの原型のようなものなのかもしれません。

○「剥奪(vastatio)」の過程で、霊となった人間は自由意志によって自らのいちばん居心地の良い場所を求める。愛は、神への愛、隣人愛、世俗愛、自己愛がある。優勢となった愛が衝き動かす自由によって、善人は天界へ、悪人は地獄へと向かう。この過程に関与する唯一のものは、自分自身。」
→この辺りはシビアですよね。究極の自己責任!

○「愛とは自らを他者に与えようと願うことであり、自己ではなく他者に使えることに喜びを感ずることである。こうしたものが多くいるとき、そこに相互的な愛が生まれる」
→愛という言葉に酩酊するのではなく、その本質をつかみ、実践するのが大事なんでしょう。

○「天界の言語は学ばれるものではなく、各自にうまれつき備わっており、彼らの情愛と思考そのものから流れ出ている。音調は情愛に照応し、音が分節化した単語は情愛から発した思考の観念に照応している。照応ゆえに言語そのものが霊的である。なぜなら、その言葉は情愛の響きであり、思考の語りかけだからである。」『天界と地獄』
→言霊(ことだま)というのもあるんでしょう。宗教の究極もマントラ(真言)にありますしね。

○「天界と地獄とは、生命の「状態」である。」『天界と地獄』
→シンプル イズ ベスト!





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(ここからさらに長いです!)
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■最古の宗教心理学としての聖書解釈

スウェーデンボルグは、旧約聖書の創世記1-2章を、個人としての人間と、類や種族としての人間の、新生のプロセスとして解釈して説明している。最古の宗教心理学の書。


●一日目:虚無の深淵と、光の創造
「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあった」『創世記』

「外なる人間」は、「自己愛」と「世俗愛」、つまり自己中心性、感覚的なものへの傾き、単なる知識の偏向、所有欲、支配欲などに染まっている。
そのため、「内なる人間」は無意識の領域に潜在したままになっている。

天とは、「内なる人間」「霊的な心」:霊性
地とは、「外なる人間」「自然的な心」:世俗的、非宗教的

「神は光あれ、と言われた。すると光があった」『創世記』
→光とは、「知性」「内なる照示」「無意識の意識化」の象徴。

光と闇の分離。
このとき自覚される内的なものを、「残されたもの(reiquiae)」。
幼少のころから心の奥底に蓄積した無垢、善良さ、愛と言った内なる情愛のこと。


●二日目:天の上下に分けられた水
「水の真中に天と呼ばれる広がりがあって、この広がりによって水が上下に分けられた。」『天界の秘儀』

「水」は理解力、知性、知識に関わるもの。

「残されたもの」と言う内なる情愛を意識化する。内なる情愛を意識にもたらすものが、「天と呼ばれる広がり」によって意味される「合理的なもの」。
「合理的なもの」は自然的なものと霊的なものとの中間にある啓発的な知性機能のことを指す。

理性とは混成された知性。

広がりの上の水は、宗教的で啓示的な知識。霊的な心に属する善や真理。内なる道によって心に入ってくるものを指す。

●三日目:地に生える青草
「地」に植物が生えるのは、理性的な思考や内省。
低次の自我の中へ浸透してくる宗教的、霊的な知識のことを指す。

そこで生える植物は水草であり、まだ未熟な段階であることを示している。


スウェーデンボルグは、宗教的信仰の内面化のプロセスを、
「単なる知識・記憶の信仰」
→「理知的な理解力のある信仰」
→「愛の信仰、救う信仰、信条のうちにある信仰」
としている。


●四日目:二つの光と星の創造
「神は「大きい光」と「小さい光」と「星」を創った。」
『創世記 一章一四-一九節』

霊的な生命が吹き込まれ、自己や世俗を目的とする肉に属する古い生命は克服される。
内なる理性の声を聞き、自分の低我の衝動に打ち勝つ時、心は生ける愛の熱を実感し、内なる高次の生命の実在を確信し始める。

「大きい光」は内なる宇宙に輝く太陽、「愛」である。愛の内に住まう心は無限の愛である神の内に安らう。「大きい光」の創造とは、内なる愛への覚醒を意味する。

「小さい光」は月のこと。新生への途上には「こころ(霊魂)の暗夜」(聖ヨアンネス)がある。いつも愛に感動しているわけではなく、苦悩し闇に彷徨うときには、暗夜を照らす月明かり、「信仰」が必要となる。

「星」は霊的で宗教的な知識全般を意味している。万人に対して遠い時代から伝承されている普遍的な霊的知識のこと。


愛は天的原理、信仰は霊的原理。
天的原理は、人間の心の意志的で情緒的なレベルに属する根源的な生命原理であり、霊的原理は、心の理解力や認知力のレベルに属する二次的な生命原理を指す。


●五日目:動物の創造
「創造の五日目に、神は水や海に棲む生き物や空を飛ぶ鳥を創った。」
『創世記 1章20-23節』

動物の意味するものは宗教的な内省や実践で獲得された知識。
この知識が、愛と信仰の原理が浸透していく基盤を形成する。
愛と信仰で霊化され、生命を帯びる。

爬虫類は人間の「感覚的思考」の象徴。多くの錯覚と迷妄を持つ。
鳥類は知性の象徴。感覚の束縛を断ち切った自在な思考能力。

生命の二大原理が「内なる人間」から「外なる人間」に浸透し、「外なる人間」も生動的な生命を帯びてゆくプロセスを示す。

スウェーデンボルグは、
『人間は「自らによるものとして」自分の力で悪を避け善をなさねばならないが、それでも善は自分自身に由来せず、神にのみ由来する事を信じなければいけない』
と考えていた。
それは、絶対自力でも絶対他力でも達成できない、宗教的な善の微妙な本質を指している。


スウェーデンボルグ『霊的な生命は神にのみ帰属させる。人間それ自体には本来的には生命はなく、神からの生命の受容体であり、器である』



●六日目:人間の創造
「神が人間を神のかたちにかたどって創り、しかも人間を「男」と「女」に創った。」
『創世記 一章二六-二七節』

ここでの「人間」とは、知性的にも精神的にも卓越した最高の型の宗教的人間を意味する。6日目は信仰よりも愛から善が生み出される時である。

スウェーデンボルグ
「第六の状態は人間が信仰によって、またこの信仰に続いて愛によって真理を語り、善をなす状態である。そのとき人間が生み出す物は「生きもの」「獣」と呼ばれる善である。
人間がその際、信仰と愛によって行動し、同時に信仰と愛が共になったところから行動し始めるので、かたちと呼ばれる霊的な人間になる。」



スウェーデンボルグは、人間の心の構成要素を「意志」と「理解力」、または「自由」と「合理性」に二分する。
「意志」は意志・意欲・感情・情愛の総体であり、心の根源的なもので愛や善に関係する。古代の賢人たちは、この側面を「女」と呼んだ。
「理解力」は、知性・理性・悟性などの知的能力の総体であり、派生的な心の側面で、信仰や真理に関係する。これが「男」である。

ある宗教が「女」の側面だけ発展させるなら、熱狂的で狂信的なものになり、「男」だけを発展させると抽象的で観念的なものになる。
人間の霊性においても、この二要素がバランスよく新生しないなら、偏向した霊性が形成されてしまう。


ユングは、感情の機能を知性の機能に対置し、愛や情緒的なものが人格の統合に不可欠なものであると指摘し、内なる異性(アニマとアニムス)の意識化の重要性を説いている。
「霊的な人間」とは、知性的でかつ情緒的な人間を指す。



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創世記第二章が扱う主題は、「霊的な人間」から「天的な人間」への新生。



スウェーデンボルグ「天界の秘儀」
『霊的な人間は抗争にさらされても常に勝利を得る。
彼を束縛するものは内的なものであり、それは良心と呼ばれる。
天的な人間には抗争はない。彼は悪や虚偽に襲われると、それらを軽蔑する。そのために彼は征服者と呼ばれる。
彼が束縛によって拘束されないのは明らかであり、彼は自由である。
彼を束縛しているものはただ、外面に現れない善と真理の覚知である。』




「霊的な人間」は良心に基づいて行動する人間である。
「天的な人間」は愛や善の天的原理の心情が刻印された真理から行動する。知的機能や意志に分裂も抗争もなく、行動はすべて自発的で自然で自由である。



孔子『論語 為政編』「心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず」
老子『道徳経 第四八章』「無為なれば即ち為さざるなし」

の状態に近い。


●七日目:天的人間の新生
東のかた、エデンの園とは、新生した天的な人間の入れられた生命の成層的な秩序であり、神から愛を通して流入する、天的な人間の復員された知性的機能と読む。

禁断の実を食べることは、自己中心性や世俗愛を象徴する。
生命の秩序が転倒し、心が霊的な意味で死んでしまうということ。


神は無限なるもの。
神が人間だからこそ、人間が創られた。
神は無限の人間であり、有限な人間の原型である。



神は人格神というわけではなく、神は「愛」と「知恵」そのものである。

神は無限の愛であり無限の知恵である。
人間は神の愛と知恵という『生命』の受容体であり、人間の生命とは受容された有限な愛と知恵である。
神はエッセ(本質)とエキシステレ(本質的な形)であり、根源的な実体と形態である。
神は全知、全能、偏在であり、無限である。時代を越えて普遍的流入によって自己を啓示するものである。

愛とは自分の外にいる他者を愛し、他者と一つになることを欲し、他者を幸福にしようと願うことである。
愛の自己投影的で自己表象的な機能が知恵であり、知恵の中の愛は自己実現へと向かう自分自身を見るのである。
神的な知恵とは神的な愛の活動そのものであり、宇宙とは知恵と言う自己実現活動をしている無限の愛そのものなのである。



ここからキリストの新解釈がある。当時は異端とされたが、一読の価値はある。


人間の霊魂の内部は父に由来し、外部は母に由来する。

イエスの処女降臨は、無限な神的霊魂が有限なものへ受肉するための生物学的、心理学的必然性だった。
イエスの中で神性と人間性とは順番を踏んで合一し、ついにその人間性が「神的人間性」となるプロセスを「栄化」と呼んだ。

真の三位一体。
父とは神性それ自体。
子とは神的人間性。
聖霊とは無限の神性が神的人間性を通してすべての被造物へ発出する神的発出。

父・子・聖霊は一なる神の三つの本質的な要素であり、この三つは、人間において心・身体・活動が一つであるように、一つになっている。

イエスは贖罪論が唱えるような人類の罪の身代わりとなった父なる神に罰せられた神の子ではない。
イエスは新生のプロセスで、自らに信頼を寄せる人間を、新生させる者、聖化する者、つまり聖霊とすて導き助ける救済神のこと。





神のみが生命であり、人間は生命の受容体である。
この受容体は「意志」と「理解力」という二つの受容組織を持つ。

生命それ自体である神的な愛が、神的な知恵を通して人間の霊魂に流入する時、人間がそれを「意志」の中へ受容すれば「善」と呼ばれる。
「理解力」の中へ受容すれば「真理」と呼ばれる。
意志は善の受容体であり、理解力は真理の受容体である。



人間の心の最も深い層は愛である。
人間の受ける生命とは、受容機能に応じて受け入れる愛そのもの。
神は無限の愛の主体であり、人間は有限の愛の主体である。
個人の愛はその人間全体を統御し規定する根源である。
人間の知性的機能は愛から発し、愛が形をとったものである。
「愛が対立すれば、認識のすべてが対立する」


人間の愛には善き愛も悪しき愛もあるが、愛はその人間自身である。


「意志」や「愛」の本質は自由であり、「理解力」の本質は合理性である。

自由とは自発性のことであり、愛し、意志し、意欲し、目的を遂げようとする能力である。
合理性とは物事の真偽、善悪を識別し判断する能力である。
人間は生まれつきこの二つの根源的能力を与えられており、奪われることは決してない。




罪や悪は人間の自由意志によってなされる神的秩序の転倒である。
本来は尊いものとして賦与された自由意志の濫用である。

罪や悪を知るために、私たちはどんな神学的・形而上学的な思弁も必要としない。
私たちは自らの内部に巣くう具体的な悪を反省して認め。これを取り除く現実的な努力をしなければいけない。


すべての善は、神から天界を経て人間の内部に流入し、悪は地獄より流入する。
もっとも、人間が理解力の中へ受容するものは善でも悪でもなく、人間が意志の中へ受容し、実行するものだけが善にも悪にもなる。
悪はひとたび具体的に実行されると習性となり、心の深層部に食い込んでいく。

人間は原罪によってではなく、現実に罪を犯し悪を行うことによって断罪される。
地獄とは神的秩序を転倒した状態であり、それ自身が罰を生みだす。
反対に、善はそれ自身報われており、天界を生み出す。自らの内部に善を受容して天界を生み出し、この状態を生きることが救いなのである。



信仰とは、自分を常に愛し導く絶対愛の神への信頼である。
信仰は「真理」に属し、理解力に関係する。
愛は「善」に属し、意志に関係する。






以上。
かなり壮大な内容です。
スウェーデンボルグは巨人です。なんとも形容しがたい。あまりに多くのものを包含しています。



最後に、スウェーデンボルグの文章、鈴木大拙「スヱデンボルグ」という文章、スウェーデンボルグが自分に課していた規律、詩人ボードレールがスウェーデンボルグのことを「照応 Correspondances」という詩に残しているので、それをそれぞれ紹介して終わります。



この本は新書の内容をはるかに超えてすごい本です。
今のような時代にこそ再版されてほしい!!





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スウェーデンボルグ
『聖書はそのどこにも、悪を避け、善を行い、主なる神を信ずること以外のどんなことも教えてはいない。この三つがなければ宗教は存在しない。
なぜなら、宗教は生命に関わるものであって、生命とは悪を避け善を行うことだからである。
また、人間は自分自身によるものとして善を行い悪を避けなくては、善を行い悪を避けることはできないからである。』
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スウェーデンボルグ
『宗教と健全な理性をもつ世界のどの民族が、次のようなことを知らなかったり、信じなかったりするだろうか。
つまり、一なる神が存在する事、悪を行えば神にそむき、善を行えば神と共にいるということ、善は神から流れ入り、善から宗教は成り立つが、人間は善を自らの霊魂、自らの心から、すなわち自らの力によって行わねばならないということを。』
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スウェーデンボルグ
『人間の新生のプロセスにおいて、時間的には信仰が愛に先立つが、重要性においては愛が信仰より優位を占める。
また、信仰を欠く愛は時として盲目的、偽善的になり、愛を欠く信仰は本当の信仰ではない。そうした信仰は「記憶の信仰」であり、心情への単なる固執にすぎない。真の信仰は愛の実践の内に働き、愛は生きて働いている信仰であり、信仰の生命である。』
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スウェーデンボルグ
『仁愛(caritas)とは、各人が従事する務めや仕事や職業において、正当かつ忠実に行動することである。なぜなら、こうした人の行うすべてのことは社会に役立ち、その役立ちこそが善だからである。』
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鈴木大拙「スヱデンボルグ」
『スヱデンボルグが神学上の所説はおおいに仏教に似たり。
我(proprium)を捨てて新生の動くままに進退すべきことを説くところ、真の救済は信と行の融和一致にあること、神性は智(Wisdom)と愛(Love)との化現なること、而して愛は知よりも高くして深きこと、神慮(divine providence)はすべての上に行き渡りて細大洩らすことなきこと、世の中には偶然の事物と云うもの一点もあることなく、筆の一運びにも深く神慮の籠れるありて、此処に神智と神愛との発現を認め得ること、かくの如きは何れも、宗教学者、ことに仏教徒の一方ならぬ興味を引き起こすべきところならん。』
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スウェーデンボルグの貴族院議員時代の規律
一:神の聖言を勤勉に読み、聖言を黙想すること。
二:神の摂理の配列に満足すること。
三:行動の礼節を守り、良心を清く保つこと。
四:自分の職務と仕事を忠実に果たし、自分をあらゆることにおいて社会に役立たせること。
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「ボードレール詩集」佐藤朔 (訳) (白凰社; 愛蔵版 (1981/04) )より引用

照応 Correspondances
 
自然は 一つの神殿 生きている柱
時おり おぼろげな言葉を漏らす。
人は 象徴の森を過ぎて そこを通り、
森は 親しげな眼差しで見守る。

遠くまじり合う長いこだまのように、
夜のように 光明のように 果てしなく
暗くて 深い 統一のなかに
薫りと 色と 音は 互いに照応する。

幼子の膚のように爽やかに、木笛のように
甘く、牧場のように緑の薫りがある。
‐‐また、腐った、豊かな、ほこらかな薫りは、

竜涎(りゅうぜん)、麝香(じゃこう)、安息香(あんそくこう)、薫香(くんこう)のように、
無限のものさながらに ひろがって
精神と感覚の恍惚を歌い上げる。


Correspondances — Charles Baudelaire

  La Nature est un temple où de vivants piliers
  Laissent parfois sortir de confuses paroles;
  L'homme y passe à travers des forêts de symboles
  Qui l'observent avec des regards familiers.

  Comme de longs échos qui de loin se confondent
  Dans une ténébreuse et profonde unité,
  Vaste comme la nuit et comme la clarté,
  Les parfums, les couleurs et les sons se répondent.

  II est des parfums frais comme des chairs d'enfants,
  Doux comme les hautbois, verts comme les prairies,
  — Et d'autres, corrompus, riches et triomphants,

  Ayant l'expansion des choses infinies,
  Comme l'ambre, le musc, le benjoin et l'encens,
  Qui chantent les transports de l'esprit et des sens.
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