原研哉さんの「白」(中央公論新社:2008/05)を読んだ。
============
内容紹介
日本文化の繊細さ・簡潔さを生み出し、支える美意識の原点--白。それは、色であって色を超えたもの。短い文章にこめられた、白の美学。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
原/研哉
1958年生まれ。グラフィックデザイナー。武蔵野美術大学教授。
2002年より、無印良品のアートディレクションを担当。
「もの」ではなく「こと」のデザインを志向している。
デザインという語の意味を問い直しながら世界各地を巡回し、広く影響を与えた「RE‐DESIGN:日常の二十一世紀」展(世界インダストリアルデザインビエンナーレ、インダストリアル・グラフィック両部門大賞、毎日デザイン賞受賞)をはじめとして、「HAPTIC」「SENSEWARE」など既存の価値観を更新するキーワードを擁する展覧会を制作し世界に巡回。
また、長野オリンピックの開・閉会式プログラムや、愛知万博のプロモーションでは、深く日本文化に根ざしたデザインを展開した。
AGF、JT、KENZOなどの商品デザインのほか、松屋銀座リニューアル、森ビル、梅田病院サイン計画などを手がける。
一連のデザイン活動によって日本文化デザイン賞ほか受賞多数。
著書『デザインのデザイン』(岩波書店、2003年)は、サントリー学芸賞を受賞。
============
「白」というのを余白と考える。
そうしたところから考察した本だった。
物理学では、全ての色の可視光線が乱反射されたときに、その物体の表面を見た人間が知覚する色を「白」としている。
僕らはものを見ているようで、乱反射された光の波長を、波動を見ているわけで、そこに量子力学で言う「粒子」と「波動」の重ね合わせ、というコンセプトの本質があるように思える。
■
この本の内容は、以前無印で行われた講演にある。
ネットで読める素晴らしい講演。この講演の文章に、この本の本質は詰まっている。
〇【無印良品 原研哉氏トークイベント】(2010年)
白を、シンプル(Simple)と言うよりエンプティネス(Emptiness)(空:から:クウ)と捉える。
見えないものが満ち満ちている場のようなもの。
何もないからこそ、そこには何でも入れることができる。
すでに満ちた場所には何も入れることができない。
何もない余白が多い場所には「何でも入れることができる」。潜在的な場のエネルギーがある。
すでに色んなものが書かれた画用紙では、そこに描かれる未来の絵の方向性はある程度決まってしまう。
ただ、「白」の画用紙には何を書くのも自由。可能性に満ち満ちている。
そこにダビンチがモナリザを書くかもしれないし、北斎は富士山を書くかもしれない。
白やemptyは、そういう潜在的なエネルギーに満ちている。何もないところは、溢れているところ。
それを簡潔に言語で表すと、ないところにある、となる。
これはトンチではない。言語のリミットを示しただけだ。
仏教の般若心経でも「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という有名な文章がある。
鈴木大拙禅僧は、この有名な色即是空、空即是色を
Every form in reality is empty, and emptiness is the true form.
と英訳した。
自分は、この言葉を聞くたびに頭の上の空(そら)を思い出す。
特に登山の時に、ふと空を見るし、ふと雲を見る。そうして天地自然の動きを読み解く。
何もない空に、いつのまにか雲ができて、雲は空に消えていく。
水滴の小さな塊は、霧となる。水滴も微粒子になると目に見えないけれど、それが雲と言う形になると目に見える。
そういう風に人間の周りには生命や動的なものに満ちている。「形」として見えるようになったときだけ、目の前を通り過ぎるように僕らをハッとさせる。周囲は、そういう潜在的なエネルギーに満ちている。
ちなみに、色即是空、空即是色を
Phenomena become Void and the Void becomes the phenomena. (Form is Void and Void is Form)
と訳す人もいる。この訳もよくわかる。
Buddha was in a state of absolute nothingness, we might say.
But it was not just "nothing" as we understand it.
In that nothingness, there was something moving, something stirring.
That stirring was what made him oblivious of all things.
ブッダは完全に何もない状態に置かれたが、「何もない」は一般的な「何もない」とは違う。
何か動きがあるもので、かき回されているかのように動き回るもの。
その動的な動きのために、ブッダは全てのものの本性を見通した。
■
〇【無印良品 原研哉氏トークイベント】(2010年)
にもあるけれど、日本の「カミ」の概念をempty(emptiness)と捉えるのも魅力的だと思う。
自然の霊力に満ちた場所を囲う。縄を張る。そこには空っぽのemptyな場ができる。
そこを「カミ」がいる場と考え、人々は手を合わせた。
「代(しろ)」に屋根を付けると「屋代(やしろ=社)」になり、そうして神聖な場所としての神社ができる。
そういう古代人の心性を思いながら、神社に初もうでに行ってきました。
------------------------------------
キャンベル『神話の力』より
------------------------------------
P64
神とは、人間の生命の営みの中でも、また宇宙内でも機能している動因としての力、なしいし価値体系の擬人化です。
あなた自身の肉体のさまざまな力と、自然の様々な力との擬人化です。
神話は人間の内に潜んでいる精神的な可能性の隠喩(metaphor)です。
------------------------------------
P107
インドには美しい挨拶の形があります。両手の手のひらをあわせて相手に頭を下げるのです。
それは、自分の中にいる神が相手の中にいる神を認めている、という意味のあいさつです。あの人々は万有の中の聖なる存在を意識しています。
あなたがインドの家庭を訪問すると、あなたは神性を持った客として迎え入れられます。
------------------------------------
→(キャンベル『神話の力』(2012-04-21))
============
内容紹介
日本文化の繊細さ・簡潔さを生み出し、支える美意識の原点--白。それは、色であって色を超えたもの。短い文章にこめられた、白の美学。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
原/研哉
1958年生まれ。グラフィックデザイナー。武蔵野美術大学教授。
2002年より、無印良品のアートディレクションを担当。
「もの」ではなく「こと」のデザインを志向している。
デザインという語の意味を問い直しながら世界各地を巡回し、広く影響を与えた「RE‐DESIGN:日常の二十一世紀」展(世界インダストリアルデザインビエンナーレ、インダストリアル・グラフィック両部門大賞、毎日デザイン賞受賞)をはじめとして、「HAPTIC」「SENSEWARE」など既存の価値観を更新するキーワードを擁する展覧会を制作し世界に巡回。
また、長野オリンピックの開・閉会式プログラムや、愛知万博のプロモーションでは、深く日本文化に根ざしたデザインを展開した。
AGF、JT、KENZOなどの商品デザインのほか、松屋銀座リニューアル、森ビル、梅田病院サイン計画などを手がける。
一連のデザイン活動によって日本文化デザイン賞ほか受賞多数。
著書『デザインのデザイン』(岩波書店、2003年)は、サントリー学芸賞を受賞。
============
「白」というのを余白と考える。
そうしたところから考察した本だった。
物理学では、全ての色の可視光線が乱反射されたときに、その物体の表面を見た人間が知覚する色を「白」としている。
僕らはものを見ているようで、乱反射された光の波長を、波動を見ているわけで、そこに量子力学で言う「粒子」と「波動」の重ね合わせ、というコンセプトの本質があるように思える。
■
この本の内容は、以前無印で行われた講演にある。
ネットで読める素晴らしい講演。この講演の文章に、この本の本質は詰まっている。
〇【無印良品 原研哉氏トークイベント】(2010年)
白を、シンプル(Simple)と言うよりエンプティネス(Emptiness)(空:から:クウ)と捉える。
見えないものが満ち満ちている場のようなもの。
何もないからこそ、そこには何でも入れることができる。
すでに満ちた場所には何も入れることができない。
何もない余白が多い場所には「何でも入れることができる」。潜在的な場のエネルギーがある。
すでに色んなものが書かれた画用紙では、そこに描かれる未来の絵の方向性はある程度決まってしまう。
ただ、「白」の画用紙には何を書くのも自由。可能性に満ち満ちている。
そこにダビンチがモナリザを書くかもしれないし、北斎は富士山を書くかもしれない。
白やemptyは、そういう潜在的なエネルギーに満ちている。何もないところは、溢れているところ。
それを簡潔に言語で表すと、ないところにある、となる。
これはトンチではない。言語のリミットを示しただけだ。
仏教の般若心経でも「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という有名な文章がある。
鈴木大拙禅僧は、この有名な色即是空、空即是色を
Every form in reality is empty, and emptiness is the true form.
と英訳した。
自分は、この言葉を聞くたびに頭の上の空(そら)を思い出す。
特に登山の時に、ふと空を見るし、ふと雲を見る。そうして天地自然の動きを読み解く。
何もない空に、いつのまにか雲ができて、雲は空に消えていく。
水滴の小さな塊は、霧となる。水滴も微粒子になると目に見えないけれど、それが雲と言う形になると目に見える。
そういう風に人間の周りには生命や動的なものに満ちている。「形」として見えるようになったときだけ、目の前を通り過ぎるように僕らをハッとさせる。周囲は、そういう潜在的なエネルギーに満ちている。
ちなみに、色即是空、空即是色を
Phenomena become Void and the Void becomes the phenomena. (Form is Void and Void is Form)
と訳す人もいる。この訳もよくわかる。
Buddha was in a state of absolute nothingness, we might say.
But it was not just "nothing" as we understand it.
In that nothingness, there was something moving, something stirring.
That stirring was what made him oblivious of all things.
ブッダは完全に何もない状態に置かれたが、「何もない」は一般的な「何もない」とは違う。
何か動きがあるもので、かき回されているかのように動き回るもの。
その動的な動きのために、ブッダは全てのものの本性を見通した。
■
〇【無印良品 原研哉氏トークイベント】(2010年)
にもあるけれど、日本の「カミ」の概念をempty(emptiness)と捉えるのも魅力的だと思う。
自然の霊力に満ちた場所を囲う。縄を張る。そこには空っぽのemptyな場ができる。
そこを「カミ」がいる場と考え、人々は手を合わせた。
「代(しろ)」に屋根を付けると「屋代(やしろ=社)」になり、そうして神聖な場所としての神社ができる。
そういう古代人の心性を思いながら、神社に初もうでに行ってきました。
------------------------------------
キャンベル『神話の力』より
------------------------------------
P64
神とは、人間の生命の営みの中でも、また宇宙内でも機能している動因としての力、なしいし価値体系の擬人化です。
あなた自身の肉体のさまざまな力と、自然の様々な力との擬人化です。
神話は人間の内に潜んでいる精神的な可能性の隠喩(metaphor)です。
------------------------------------
P107
インドには美しい挨拶の形があります。両手の手のひらをあわせて相手に頭を下げるのです。
それは、自分の中にいる神が相手の中にいる神を認めている、という意味のあいさつです。あの人々は万有の中の聖なる存在を意識しています。
あなたがインドの家庭を訪問すると、あなたは神性を持った客として迎え入れられます。
------------------------------------
→(キャンベル『神話の力』(2012-04-21))
日本人とはなにか?というので、何かオススメの本があったら、ぜひともリストアップしてください。笑。
最近読んでいる、前田英樹さんの 日本人の信仰心という本も、とてもよいんだよねー。稲作とのことなどを通じて見えてくることが大きい。自然と人との関わり方というか。やはり、日本人にとっては、田んぼというのは、原風景なのかもなあとか。仏像が輸入されたときの人々の驚きとか。むむー。色々考えさせられます。読んだかな?
日本人とはなにか?を考える上で、世界の民族がどうなのかというのも詳しく知ると、相対的に日本のことも、より深く分かってくるのかもなあ。これから、日本がどうなっていくのか、地球がどうなっていくのか、今は大切な変革期のような気がしますね。こういう時代に生きているというのも、何かのご縁なのだろうな。毎日を大切にしたいです。
…と、とりとめのないコメント…
この本、たしか、さ。さんにもらった本だよね。
本の装丁がすでにおシャレすぎる・・・
本も、もともとは白紙だったわけで、そこに黒色のドットの濃淡パターンがどうしみこむかで、人に感動を与えたり、人生に影響を与えたり・・・ということを考えると不思議なものです。
日本人とはなにか?ということですかぁ。やはり自分は河合先生や梅原先生の日本文化論が最初に頭に浮かぶね。ああいう知の巨人の業績にはいつも感動するばかり。
河合先生の<中空構造>論以上にインパクトを受けた考えはないかも。笑
あとは、神道、武士道とかは日本オリジナルだし、そこから色んな学びはあるよね。
自分も、熊本の阿蘇神社に初もうでしてきました。
阿蘇神社は孝霊天皇(第7代天皇)9年の創建で、紀元前280年くらいなんだよね。歴史が2400年くらいある・・・。
仏陀が生まれたのが紀元前400年くらいで、日本に仏教が伝わったのが西暦538年。
阿蘇神社は純粋に日本人の信仰を表現していると思いました。
神社の歴史はすごい・・・。
阿蘇神社の分社だけで全国500くらいあるらしいし、そういう風にスピリットを分けていき、祀る、という発想もあまり他にはない考え方のようだし。
やはり、死者をどう思い、どう祀ったか(生命や人間のとらえ方)、というのは、信仰の原始的なものを表現しているように思います。
その流れで言うと、やはり大和言葉とか、文字が日本に伝達する前のコミュニケーション手段というもににも興味がわきます。
母音(あおうえい)だけで意味をなすのが日本語くらい、とか。それは言霊の問題で、弘法大使の真言宗が言うようなマントラにつながる話。
あとは、神代文字とかね。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~choreki/sinmoji.htm
神代文字は超古代文明と同じで、ややオカルトめいた分野になってるみたい。学会ではあまり学術的に調べられてないらしい。
これは、科学の世界では魂や死後の話や超能力、第六感・・・とかが真面目に扱われないのと同じなのかもしれないけど・・・。
個人的には差別せずなんでも調べて追及してみれば面白い!と思っちゃう性質なんだけどね。偏見は自分を縛るだけで。
上のサイトから引用すると、
神代文字
====================
・神代文字の否定論拠としては、橋本進吉氏の提唱する古代8母音説により、イロハ47音・あいう50音で構成されている神代文字は、平安以降の偽作であるとされる。
・上代=奈良期には、母音がアイウエオの5音の他に、イエオについては甲乙2類あり都合8母音だった。そのため、「キ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ・ギ・ビ・ゲ・ベ・ゴ・ゾ・ド」には甲乙の音韻が2類あり、都合87(or88)の音があったといい、これを上代特殊仮名遣と呼称する。
・国学者大野晋氏らにより神代文字批判が行われ、即ちイロハ歌(47音)やアイウエオ(50音)は平安期に作られたものであるから神代文字といわれるものの大半が47字又は50字であることは、これらの文字が平安期以前には遡れないという。この説が長らく日本国語学界の主流だった。
・ところが「古代の日本で使われていた日本語はあくまでも5母音であったが渡来人の影響で8母音になった。」という説が浮上してきた。金沢大松本克己教授「母音の交代現象」・奈良女子 大森重敏教授「連接による臨時合成音」などの説によれば渡来人よりもたらされた「漢字」を国語化する際の一時的な虚像である、とのこと。
・平安期には8母音が死滅していたという事実は重要で、なぜ死滅したのかを明らかにしなければ8母音説は説得力に欠ける事になり、神代文字は再検討が必要となる
====================
ということなのです。
あと、『ホツマツタヱ』っていうのもあるよね。
画家の鳥居礼さんが本を書いてたりする。古本屋で買ったけど。
ホツマツタヱは、ヲシテ(神代文字のひとつ)を使って五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)で構成された日本の古文書のことですが。
まあこういうのは偽書だとか妄想の産物だ、とかいろいろあるけど、マジョリティーの歴史だけではなくて、マイノリティーの歴史も全部ひっくるめないと人類の歩みっていうのはなかなか分からないよね。特に自分はマイノリティーにシンパシーを感じてしまうらしく・・・(^^
前田英樹さんの<日本人の信仰心>という本。持ってるけど読んでない。
風の旅人に連載されていたのを本にしたものだよね?
当時の連載は自分に難しかったけど、すごく興味を持って読んだ覚えがあります。
日本人のカミの概念を、本居宣長が迦微(カミ)として説明しているのを前田さんが紹介しているところとか、なんとなくインパクト受けたのを覚えてます。
加藤周一『日本文学史序説』より
==================
「宣長の哲学の中心は、「人の情(こころ)のありのまゝ」(『源氏物語玉の小櫛』)、すなわち人間の自然状態である。
人間は誰でも生れながらにして、何でもすることができる(生まれつるまにゝゝ、身にあるべきかぎりの行(わざ)は、おのづから知リてよく為る」、『直毘霊』)。
そこに善悪の両面が含まれることは、カミの行いに善悪のあるのと同じである(「神には善もあり悪きも有リて、所行(しわざ)もそれにしたがふ」、同上)。
カミと人間との関係は、連続的であり、カミ(殊にムスビノカミ)は、自然現象を支配するばかりでなく、社会現象をも繰る(「みなことごとに神の御所為(みしわざ)なり」、同上)。
そのカミと人とが作る世界には、一種の秩序があって、その秩序を儒学用語を転用して「道」という。
このような自然状態は、儒(宣長の「漢意」)の影響の及ぶ以前の、日本の古代に見出されるはずであり、したがって「人の情のありのまゝ」は、また「大和心」ともよばれるのである。
「大和心」の根源をつきとめるためには、かくして、「漢意」を排し、古代文献に通じて、その復元につとめる他はない。しかるに『古事記』は、日本の古代をもっともよく伝える書である。したがって『古事記』理解が、学問の究極の目標となる。」
==================
本居宣長『古事記伝』より
==================
「さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしへのみふみども)に見えたる天地の諸(もろもろ)の神たちを始めて、其(そ)を祀(まつ)れる社に坐(いま)す御霊(みたま)をも申し、又人はさらにも云ず、鳥獣(とりけもの)木草のたぐひ海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり。」
==================
なんかどんどん脱線している・・・
ということで。
個人的にいろいろ研究しつつ勉強していると、時間がいくらあっても足りない。神代文字とか、そこまで自分はカバーできない・・・(^^;
結局、どんなジャンルでも、そのジャンルに詳しい人に会って話すのが、とりあえず大枠をつかむのには一番早いんだよね。だから人間関係は大事。そうなると、人を見る目も大事だし。
音楽の事は音楽家(演奏家)に、現代医学の事は医者や医学研究者や患者さんに、霊界の事は霊能者に・・・・・なんでも適材適所なのですよねぇ。まあ、自分は自分の本分を真面目にやりなさい、って話に戻るわけですが。