■
冒険家、旅人、自由人、・・・・・・
いろんな方とお会いすると、自分の「時間」や自分の日々のことを考える。
忙しくせわしない自分の日々の時間・・・。毎日毎日、時間の感覚自体を失っている。
ゆったりした時間、とらわれない時間を生きている人。
うらやましいし、憧れもある。
ただ、だからと言って、すべてから自由になりたいと思っているわけでもない。時間を無尽蔵に欲しいわけではない。
■
現代で、とらわれのない時間を追求すると、職業としてはニートやフリーターと呼ばれることになる。
今は、定職につかない若者が増えた。
もちろん、ここで現象のいいとか悪いを言うつもりはない。
というか、物事には善悪などない。物事自体は常にニュートラルなものだが、そこに人間が関与することで善悪の問題が新たに与えられる。
世間での外的な情報源として働いているマスコミが、すぐに善悪二元論に話をすりかえる傾向がある。それに馴れているだけだ。
ものごとは善や悪で、そう簡単には語れない。
すべてのことは、現象として起こっている。善悪ではない。
現象がそこにある。存在している。問いのように存在している。答えではない。それは問いだ。
今起きている現象は、最適化のプロセスの結果、そういう現象となって現前した。
現象となって現れる前にも、それは潜在的なものとしてすでに存在していた。すべてはつながっている。
そのために「予感」という感覚がある。
「予感」は決してコトバにできない。モヤモヤとか、イライラとか、そういう微細な身体感覚。潜在的に存在しているから、気づきにくいだけ。適切な言葉を当てることは困難だ。
潜在的なものが時代の何かとマッチしフィットしたとき、何らかの現象としてこの世界に現前化してくる。
それは見えない世界に対しての見える世界にすぎない。善悪二元論のように、イイとかワルイとか、個人的な感情を付着させるのは別次元の話だ。
何かが起きるには複数の時間が錯綜し、複数な因果関係が錯綜する。そんな共時的な共存状態の中で起きる。
だからこそ「起こるべくして起こったのだ」という説明がしっくりくることがある。
すべての因果の紐のからまりを解きほぐすことは難しい。
自分がこの世に生まれる前も後も。あらゆるすべてが考察の対象になるべきだから。
■
脱線した。
人に会い、そこに「自由」を感じるとき、自分の中にある「不自由さ」がそこと反応しているのだろう。
でも、自分はその人ではない。
永遠にその人にはならない。
心理的な同一化はあるけれど、それはあくまでも心理的な出来事だ。
自分は自分の人生を生きている。それは誰にも奪われない聖域だ。サンクチュアリ。
色んな人と会うと、刺激を受ける。なぜなら、人間は情報のかたまりだから。
一つ一つの微細なシグナルをすべて受けとった結果、自分の中で微細に反応した「何らか」の正体を確認する作業をしていると、かなり疲れる。だから、自然と無口になり、聞き役となることが多い。それは自分の内部感覚と対話している時間だから。外的に見ると静かに見える。内と外が必ずしも同じ風景ではない。
話している方が楽だ。あまり自分の身体感覚に目を向けなくていいから。自分内部の声に耳を傾けなくていいから。そこに表と裏がある。
■
知らない人に会う。
知らない人の断片的な言葉から、その人の全体的な総体を想像していく。その工程は疲れるが、楽しい。
自分が仮想の相手を作り上げる。壊す。作り上る。壊す。
その作業を何万工程も何億工程も続けてゆく。
そのプロセスの中で、相手のその人となりが分かってくる。作り上げられていく。練り上げられていく。土から立体作品ができあがるように。
相手を理解しようとするとき、その人が「ひとつの受精卵」だった時代から夢想することが、よくある。
どういう親がいて、家族がいて、どういう環境世界があったのか。
その中でどういう風に育ち、環境と適応していったのか。
どういう風に自我が生まれたのか。
ひとは、自我が生まれることで、初めて自分以外の対象を自分と離れたものとして見る手段を得るのだと思う。
それまではすべてが連続してつながっていた。
自我の誕生は、切断を生む。
そして、思春期を迎え、学校で社会の縮図を学び、他者や集団の論理を学ぶ。その後仕事をするようになり、色んな人の感情の投影を受け続け、時間を使いながら、今へと至っていく。
そんな相手の歴史が鮮明に浮かんだ時、そこで虚像と実像は結ばれる。
そして、人間が持つ深みというものが浮かび上がる。
どんなにくだらないことでも、そのくだらさなを発する深みというものがある。
軽薄なコトバでも、そういう軽薄な言葉を成立させた地層がある。その上で成立している。
ヒトは、いきなりは大人にならない。
成長して自我が生まれる。自我の誕生は3歳くらいらしい。
コドモからオトナになる。その境目は14歳くらいらしい。
僕らは「受け入れられない現実をなんとか受け入れよう」として一生を過ごしているようにも思える。
それは、誰かの怒り、悪、この世界の不正や偽り、自然環境・・・あらゆるすべて。
いろんな「受け入れがたきもの」を「受け入れよう」として日々過ごすことが、日々の営みになる。
この世には色んな人がいて、複雑な影響を受け続ける。それがその人の深みとなる。
相手のいいところが見えると、その人に吸い込まれないよう、無意識にその人の悪いところも探す。合理化して自分の中のバランスを取ろうとする。
ただ、それはこちらの脳の中で「受け入れる」方便に過ぎない。
その合理化を経ても、現実は何も変わっていない。
花は相変わらず咲く。ハチは受粉に飛び交う。川は流れる。雨は降る。朝は来る。惑星も星も動く。
そう考え出すと、「受け入れがたい現実」なんていうものは、最初からなかったような気さえしてくる。
■
脱線した。
人と会う。
いろんな人生を生きている人と会う。
そこで時間が錯綜して混線し融合する。
いろいろな感情が起こるけれど、結局は自分に戻ってくる。
では、お前は何をして寿命をまっとうするのだ、と。
きっと、黒澤明監督の映画「生きる」のように、僕らはこの世界に大したこともできずに死んでいくだろう。
ただ、そういう「大したことない」と思っているのも、それは自分の頭の中での問題だ。
それが本当に大したことがないのかどうかなんて、誰にも永遠に分からない。
すべては何らかの形でつながっている。リンクしている。
自分が調和にあった生き方をすることで、宇宙の不調和と少しは拮抗させることができる。
調和は、別の調和へと波紋を起こす。波動のような、波のようなもの。
人間が放つ魅力というものは物質ではない。きっと波のようなもの。
自分はどう生きるのか、自分は何者なのか。
事の大小によらず、この世に何の使命を与えられて生を授けられたのかと、考えることになる。
■
そういえば、自分は子供のころ大病をしている。
全身のヘルペス感染症で、口からものを食べることができず、1年くらいは鼻からチューブで栄養を送られて生きていた。その記憶は映像としてある。
ただ、悲しいとか、イヤだとか、そんなことは僅かなりとも思ったことがなかった。
そういうものだと思っていた。そのことは疑うべき対象ではなかった。
受け入れがたい、などとは夢にも思わなかった。
いつも天井を見ていた。永遠に抜けないと思われる点滴の水滴を見ていた。
同じ病室の人も、いつのまにかいなくなって別の人に代わっていた。
それは死んだってことかもしれないし、退院したのかもしれない。
それはよくわからない。考えたこともない。
周りの人と窓の風景が変化していたのはよく覚えている。
でも、怖いなど思ったこともなかった。
自分の親がベッドの下に寝泊りをしていたような記憶はある。そこで愛の原型は与えられた。
生も死もひとつだった。重なっていた。
というか生死の感覚はなかった。
そんなものは誰かに後知恵で教えられた教育のたまものに過ぎない。
■
今こうして生きて生活している。
すべてはいただきもの。そう思っている。ありがたくいただいた。
自分の守護霊か何かが、こいつを生かそう、と、あの世の会議で決めたのだと思う。
そういうことをふと思った。
昨日が誕生日だったからかもしれない。
誕生ということは死と裏腹で、何かが死ぬから何かが生まれる。
自分が生まれたということは、何らかのエネルギーの循環や原子・分子の循環を前提にしている。何かが死んだから生まれたのだ。
誕生日は、自分の誕生を思い出す日。
決して、プレゼントを受け取っていい気になって自己完結するものではない。
プレゼントを受け取るTakeではなく、Giveの日。
GiveとTakeは物々交換ではない。give and takeは必ずしもセットではない。それは経済原理が圧倒的となった時代の夢のようなもの。
この世はすべてGiveでできている。
自然からの贈与してヒトは誕生したのだから。
■
最近、山下達郎さんにはまり、毎日聞いています。素晴らしいですね。なんで今まで聞いてなかったんだろう。不思議だ。
あと、YMOの細野晴臣さんも聴いてる。この人たちは天才。
天賦の才能はGift。贈られたもの。
Giftは、自分で見つけて、開封しなければいけない。
それを自分で独占するのではなく、与えないといけない。
Giftの由来が、もともとそういうものだ。
・・・・・・・
よく考えたら、むかしはこういう雑然とした内容のことを書き散らしたことが多かった。ふと思い出した。すべて、自分の中の出来事だけを書いているから書評より気が楽だ。
自分は、人を見ると、結局は自分を見ている。
人と会うと、自分と会っている。
自分の中を見返すための巨大な鏡として他者と接している。
そうして鏡は乱反射する。だから、書き散らしてみたのだった。
冒険家、旅人、自由人、・・・・・・
いろんな方とお会いすると、自分の「時間」や自分の日々のことを考える。
忙しくせわしない自分の日々の時間・・・。毎日毎日、時間の感覚自体を失っている。
ゆったりした時間、とらわれない時間を生きている人。
うらやましいし、憧れもある。
ただ、だからと言って、すべてから自由になりたいと思っているわけでもない。時間を無尽蔵に欲しいわけではない。
■
現代で、とらわれのない時間を追求すると、職業としてはニートやフリーターと呼ばれることになる。
今は、定職につかない若者が増えた。
もちろん、ここで現象のいいとか悪いを言うつもりはない。
というか、物事には善悪などない。物事自体は常にニュートラルなものだが、そこに人間が関与することで善悪の問題が新たに与えられる。
世間での外的な情報源として働いているマスコミが、すぐに善悪二元論に話をすりかえる傾向がある。それに馴れているだけだ。
ものごとは善や悪で、そう簡単には語れない。
すべてのことは、現象として起こっている。善悪ではない。
現象がそこにある。存在している。問いのように存在している。答えではない。それは問いだ。
今起きている現象は、最適化のプロセスの結果、そういう現象となって現前した。
現象となって現れる前にも、それは潜在的なものとしてすでに存在していた。すべてはつながっている。
そのために「予感」という感覚がある。
「予感」は決してコトバにできない。モヤモヤとか、イライラとか、そういう微細な身体感覚。潜在的に存在しているから、気づきにくいだけ。適切な言葉を当てることは困難だ。
潜在的なものが時代の何かとマッチしフィットしたとき、何らかの現象としてこの世界に現前化してくる。
それは見えない世界に対しての見える世界にすぎない。善悪二元論のように、イイとかワルイとか、個人的な感情を付着させるのは別次元の話だ。
何かが起きるには複数の時間が錯綜し、複数な因果関係が錯綜する。そんな共時的な共存状態の中で起きる。
だからこそ「起こるべくして起こったのだ」という説明がしっくりくることがある。
すべての因果の紐のからまりを解きほぐすことは難しい。
自分がこの世に生まれる前も後も。あらゆるすべてが考察の対象になるべきだから。
■
脱線した。
人に会い、そこに「自由」を感じるとき、自分の中にある「不自由さ」がそこと反応しているのだろう。
でも、自分はその人ではない。
永遠にその人にはならない。
心理的な同一化はあるけれど、それはあくまでも心理的な出来事だ。
自分は自分の人生を生きている。それは誰にも奪われない聖域だ。サンクチュアリ。
色んな人と会うと、刺激を受ける。なぜなら、人間は情報のかたまりだから。
一つ一つの微細なシグナルをすべて受けとった結果、自分の中で微細に反応した「何らか」の正体を確認する作業をしていると、かなり疲れる。だから、自然と無口になり、聞き役となることが多い。それは自分の内部感覚と対話している時間だから。外的に見ると静かに見える。内と外が必ずしも同じ風景ではない。
話している方が楽だ。あまり自分の身体感覚に目を向けなくていいから。自分内部の声に耳を傾けなくていいから。そこに表と裏がある。
■
知らない人に会う。
知らない人の断片的な言葉から、その人の全体的な総体を想像していく。その工程は疲れるが、楽しい。
自分が仮想の相手を作り上げる。壊す。作り上る。壊す。
その作業を何万工程も何億工程も続けてゆく。
そのプロセスの中で、相手のその人となりが分かってくる。作り上げられていく。練り上げられていく。土から立体作品ができあがるように。
相手を理解しようとするとき、その人が「ひとつの受精卵」だった時代から夢想することが、よくある。
どういう親がいて、家族がいて、どういう環境世界があったのか。
その中でどういう風に育ち、環境と適応していったのか。
どういう風に自我が生まれたのか。
ひとは、自我が生まれることで、初めて自分以外の対象を自分と離れたものとして見る手段を得るのだと思う。
それまではすべてが連続してつながっていた。
自我の誕生は、切断を生む。
そして、思春期を迎え、学校で社会の縮図を学び、他者や集団の論理を学ぶ。その後仕事をするようになり、色んな人の感情の投影を受け続け、時間を使いながら、今へと至っていく。
そんな相手の歴史が鮮明に浮かんだ時、そこで虚像と実像は結ばれる。
そして、人間が持つ深みというものが浮かび上がる。
どんなにくだらないことでも、そのくだらさなを発する深みというものがある。
軽薄なコトバでも、そういう軽薄な言葉を成立させた地層がある。その上で成立している。
ヒトは、いきなりは大人にならない。
成長して自我が生まれる。自我の誕生は3歳くらいらしい。
コドモからオトナになる。その境目は14歳くらいらしい。
僕らは「受け入れられない現実をなんとか受け入れよう」として一生を過ごしているようにも思える。
それは、誰かの怒り、悪、この世界の不正や偽り、自然環境・・・あらゆるすべて。
いろんな「受け入れがたきもの」を「受け入れよう」として日々過ごすことが、日々の営みになる。
この世には色んな人がいて、複雑な影響を受け続ける。それがその人の深みとなる。
相手のいいところが見えると、その人に吸い込まれないよう、無意識にその人の悪いところも探す。合理化して自分の中のバランスを取ろうとする。
ただ、それはこちらの脳の中で「受け入れる」方便に過ぎない。
その合理化を経ても、現実は何も変わっていない。
花は相変わらず咲く。ハチは受粉に飛び交う。川は流れる。雨は降る。朝は来る。惑星も星も動く。
そう考え出すと、「受け入れがたい現実」なんていうものは、最初からなかったような気さえしてくる。
■
脱線した。
人と会う。
いろんな人生を生きている人と会う。
そこで時間が錯綜して混線し融合する。
いろいろな感情が起こるけれど、結局は自分に戻ってくる。
では、お前は何をして寿命をまっとうするのだ、と。
きっと、黒澤明監督の映画「生きる」のように、僕らはこの世界に大したこともできずに死んでいくだろう。
ただ、そういう「大したことない」と思っているのも、それは自分の頭の中での問題だ。
それが本当に大したことがないのかどうかなんて、誰にも永遠に分からない。
すべては何らかの形でつながっている。リンクしている。
自分が調和にあった生き方をすることで、宇宙の不調和と少しは拮抗させることができる。
調和は、別の調和へと波紋を起こす。波動のような、波のようなもの。
人間が放つ魅力というものは物質ではない。きっと波のようなもの。
自分はどう生きるのか、自分は何者なのか。
事の大小によらず、この世に何の使命を与えられて生を授けられたのかと、考えることになる。
■
そういえば、自分は子供のころ大病をしている。
全身のヘルペス感染症で、口からものを食べることができず、1年くらいは鼻からチューブで栄養を送られて生きていた。その記憶は映像としてある。
ただ、悲しいとか、イヤだとか、そんなことは僅かなりとも思ったことがなかった。
そういうものだと思っていた。そのことは疑うべき対象ではなかった。
受け入れがたい、などとは夢にも思わなかった。
いつも天井を見ていた。永遠に抜けないと思われる点滴の水滴を見ていた。
同じ病室の人も、いつのまにかいなくなって別の人に代わっていた。
それは死んだってことかもしれないし、退院したのかもしれない。
それはよくわからない。考えたこともない。
周りの人と窓の風景が変化していたのはよく覚えている。
でも、怖いなど思ったこともなかった。
自分の親がベッドの下に寝泊りをしていたような記憶はある。そこで愛の原型は与えられた。
生も死もひとつだった。重なっていた。
というか生死の感覚はなかった。
そんなものは誰かに後知恵で教えられた教育のたまものに過ぎない。
■
今こうして生きて生活している。
すべてはいただきもの。そう思っている。ありがたくいただいた。
自分の守護霊か何かが、こいつを生かそう、と、あの世の会議で決めたのだと思う。
そういうことをふと思った。
昨日が誕生日だったからかもしれない。
誕生ということは死と裏腹で、何かが死ぬから何かが生まれる。
自分が生まれたということは、何らかのエネルギーの循環や原子・分子の循環を前提にしている。何かが死んだから生まれたのだ。
誕生日は、自分の誕生を思い出す日。
決して、プレゼントを受け取っていい気になって自己完結するものではない。
プレゼントを受け取るTakeではなく、Giveの日。
GiveとTakeは物々交換ではない。give and takeは必ずしもセットではない。それは経済原理が圧倒的となった時代の夢のようなもの。
この世はすべてGiveでできている。
自然からの贈与してヒトは誕生したのだから。
■
最近、山下達郎さんにはまり、毎日聞いています。素晴らしいですね。なんで今まで聞いてなかったんだろう。不思議だ。
あと、YMOの細野晴臣さんも聴いてる。この人たちは天才。
天賦の才能はGift。贈られたもの。
Giftは、自分で見つけて、開封しなければいけない。
それを自分で独占するのではなく、与えないといけない。
Giftの由来が、もともとそういうものだ。
・・・・・・・
よく考えたら、むかしはこういう雑然とした内容のことを書き散らしたことが多かった。ふと思い出した。すべて、自分の中の出来事だけを書いているから書評より気が楽だ。
自分は、人を見ると、結局は自分を見ている。
人と会うと、自分と会っている。
自分の中を見返すための巨大な鏡として他者と接している。
そうして鏡は乱反射する。だから、書き散らしてみたのだった。
ご自身を書かれた今日のブログ
すごくよかったデス。
いつもは、宇宙と同調していらっしゃるようで
たゆたう海や広い砂漠や深い森みたいな
いい “ ゆらぎ ” をいただいておりますが。
全身ヘルペス症とは・・・壮絶でしたね。
ご両親の愛が、ただただ素晴らしく
そして今の先生に繋がっているんですね。
帯状疱疹30回の私は、いけないと思いながら
また親近感を持ってしまいましたよ。
今年もブログ更新、楽しみにしてます。
私のエネルゲンです。
わたしも6日が誕生日でした。近いですね^^
今年もブログ楽しみにしてます。
>自分が相手を理解しようとするとき、相手が「ひとつの受精卵」だった時代から夢想する。
ここ私も同じだなーと想いました。
いつも読んでいて共感したり刺激を受けたり
それが心地よいです。ありがとうございます。
まずは先日はどうもありがとう!誕生日をお祝いできなかったことが心残りです。。。
経済的に自立していて、人を幸せにできて、かつ自分も幸せであれば一番いい状態なのかなと思います。
僕自身も一度仕事を辞めて、異国で学生に戻り、過去の蓄積のおかげで自由な生活を続けていますが、これを2年を超えて続けるようだとまずいなと感じています。もっとも、だからといって焦りすぎずという気持ちもあるのですが、やっぱり自分の外側の世界の評価を受けながら何かを生み出していくということは尊いことですし、金銭的な見返りは仕事の価値バロメーターかなとおもいます。
働いているときは、そこそこ忙しかったけれど、労働していることが当たり前になってしまってありがたみが今一わかりませんでした。今、一年近く離れてみて過去の自分に扶養されてみて、その行為が偉大だったことがわかります。
稲葉くんは非常に高いレベルで人を技術とメンタル面でケアできる専門家だと思うので、ぜひその力を隣接関連分野へ拡張していかれる将来に期待します!その道は職業人のままでも、その他の道でもどちらからもいけると思います。
いい一年を。
読んでいただきありがとうございます。
全身ヘルペス症で、特に口内がひどかったようですね。いわゆる粘膜病変がひどかったというか。
口の中がただれてたので、おそらく経鼻チューブで栄養投与していたようです。当時は、両手の指で指同士がくっつくくらいのウエストしかなかったようで、相当に痩せていたらしく・・
いまだにそれほど食に対して欲望がないのは(毎日生きているだけの食事で十分満ち足りている)、その当時の影響なのかもしれません。
実際、江戸時代の武士など見ると、一汁一菜が基本だったようですしね。つまり、ご飯、味噌汁、漬物だけ。
今は相当豊かになりすぎているんでしょうね。なんでもバランスは大事ですし、生かされている事に対する感謝の思いは重要な気がします。
人間の治癒において、やはり愛が基本になるのだと思いますね。
もちろん、それは言う事は簡単だし、ありとあらゆる本の中で遠まわしに述べられているようなことでもあるわけですが・・・。
意外にこういう基本的なことって現場で強調されない事が多いのですが、自分は研修医に指導する時、このあたりに重点を置いて指導するようにしていますね。
医学技術も知識も、諸刃の剣で、善にも悪にも使われてしまいますから・・・。
それは、自分への戒めのためにも考えている事です。
>>>shiさま
6日が誕生日ですか。自分の3日前ですね。お誕生日おめでとうございます!!
共感していただいてうれしいです。
ある人の向かい合っている瞬間だけを見ると、相手の発言にムカッときたり、イラッときたりすることもあるとは思うのですが、その人にも先祖がいて両親がいる。いろんな偶然や奇跡の結果、その人は存在しているわけですし、いろんな環境条件の影響を受けながら、その人の今が成立している。そういう長い時間の流れの中でその人を見ると、プライベートな怒り、という感情は湧きにくくなると思いますね。
むしろ、その人をそうたらしめた様々な因果の網自体に怒りを感じるほうが自然な気がしますし。
ブッダも、怒りはよくない感情だと言っていますが、その怒りなどの感情がまったく湧かないような人間になれ、と言っているわけではないと思いますし。むしろ、その怒りのエネルギーを慈悲などの高次のエネルギーに変換させていくことを推奨していたのではないかと思っています。
いつも読んでいただき本当にありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。
>>>Shinくん
先日は久々に会えてうれしかったです。
最後の日に会った時に食べたお寿司はおいしかったですね。やはり日本の食文化は素晴らしいものがあります。
>経済的に自立していて、人を幸せにできて、かつ自分も幸せであれば一番いい状態なのかなと思います。
そうですね。自分も【自利利他】が大事かな、と思います。
自分をいい状態にもっていき、その余裕を他者に還元する。
自分も、今健康だからこそこうして日々仕事できるわけですし、だからこそ元気なうちには精一杯社会や他社の為に働きたいと思いますね。それが無理になった場合は、過去の自分の様な人間にお世話してもらえばいいかな、と。(^^;
まあすべてはなるようになると思いますが、与えられた条件の中で、理性と直感のバランスを常に働かせながら、自分に正直に素直に、ベストを尽くす。 人生(それは死んだ後もそのような気がしますが)とはこの永遠の成長のプロセスにあうるような気がしてます。
Shinくんが言うように、あまり自分の専門分野にとらわれず、関連分野へ拡張しながら、世界を広げていきたいです。何らかの意味で、統合して行くような方向を、常に夢想しています。今はあまりにものごとがバラバラに細分化されすぎていますし・・・。
お互いいい年にしましょう!お互いそろそろ結婚する年になるかもしれませんね!(^^;