日常

山蔭基央「出雲と伊勢 神道の叡智」

2012-09-10 01:06:03 | 
山蔭基央さんの「出雲と伊勢 神道の叡智」講談社(2012/6/26) を読みました。


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<内容説明>
「日本の心の原点」出雲大社と伊勢神宮を結ぶ霊性の秘密を解明する

「日本の心のふるさと」として敬愛される出雲大社と伊勢神宮は、表裏一体の不思議な関係にあり、共に日本の精神文明の基礎である。
この由緒ある二大神社の本質を明らかにしながら、「神」とは何か、「神社」とは何か、「神道」とは何か、を解説し、新しい時代を築き上げていく神道の思想と、清明な本当の生き方を詳述する。

超宗教「神道」こそ明日を作り出す力である

第一章 神道の叡智とは
第二章 日本の中心としての出雲
第三章 伊勢神宮の霊性
第四章 出雲と伊勢と日本の甦り
第五章 日本人の「内なる神」
禊祓詞(みそぎはらえのことば) 大祓詞(おおはらえのことば)

<著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)>
山蔭/基央
1925年、岡山県生まれ。皇典講究所に学ぶ。
肺結核を患い仮死状態に入り、異次元世界を体験した後、奇蹟的快復をみる。
その後、神道修行に入り家学を修め、1949年、明治天皇外戚家「中山忠徳」の猶子として、
応神朝以来伝承する山蔭神道家第79世を相続して、古神道の体験的研究と学問的研究を行なう。
また1960年には、亜細亜大学で近代経済学を学び、古道と科学の両面を研修する。
その後、宗教法人山蔭神道を愛知県に設立し、管長に就任。
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日本人の宗教性や信仰や習俗やものの考え方の深層を調べていくと、神道にぶち当たります。
神道以外にも、日本は仏教、儒教、老荘、道教、陰陽道・・・色んなものが混在した影響を受けていますが、経典も教祖もいない自然宗教の神道は、「無宗教」とも称され「アニムズム」とも言われてしまう日本人の信仰心を考える上で最も深層にあると思っています。


冒頭で展開される「渦巻き」(螺旋)の話は自分の考えともぴったり合うので印象的でした。

縄文人は生命根源の神を「渦の神」と認識していた。
それは、生きとし生きるものの「生命の働き」が渦巻き状であることを直感していたからだ、と。

渦の波動は光となり4方8方に展開していて、渦巻き状に波打っている。
万物には生命の渦巻きがあり、その渦が形をつくる。
古代人は「神聖な場所(斎庭ゆにわ)には巨大な渦巻きが天降っている」と感じ、斎庭の周囲を清浄に保ち、祭りを行ってきた。それが神道に通じてゆく。
神社の社殿のバックにある木や森こそが神霊のいます処で、その森も植物も渦巻きに成長している。ちなみに、人間のDNAも螺旋で、宇宙の銀河も螺旋の渦模様ですよね。

やはり、生命や自然あるところに「渦巻き」(螺旋)のパターンは見出され、「渦巻き」(螺旋)があるところに生命がある。
自然を尊ぶ神道だからこそ、こういう自然の織り成すパターン(目に見えるもの)にも敏感だったのだと思いますね。


*【未開の森林】というブログの、【神秘は渦を巻いている その1 その2 その3】も勉強になる。

*「虚数の情緒」や「オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ 」を書かれている吉田武先生が、右回転螺旋は実数と虚数の立体合成(オイラーの公式を立体合成化したもの)とおっしゃっていて、宇宙の法則は数学と分かちがたくつながっているのですね。この辺もいづれ深めてみたいなぁ。



NASAの宇宙写真サイトより(このサイト、すごくいい!)

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宇宙の写真を見ていると、時を忘れて脱線しそうなのでこの辺で。



本題に戻って、山蔭基央さんの「出雲と伊勢 神道の叡智」講談社(2012/6/26)から印象的な部分をご紹介します。

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霊性の本質は「知恵」である。霊性を高めるとは知性を高度にすることである。
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神道とは何かと問われると、「大自然と共にある道」ということになる。
「無教祖、無教義、無戒律、無経典」こそが神道の本質である。
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→自分も自然を愛する人間なので、神道の考えはすごくしっくりくる。

カミサマというのは、まさに自然のあり方全てに現れていると思うのです。
人間が出現する前から存在していた大自然や宇宙。その大いなる存在に、自分は畏怖の念を持っています。
太陽も月も風も光も火も水も土も・・・この世界に存在するすべては自然の産物そのものです。
人間を教祖とする宗教もありますが、人間自体がそもそも自然の一部です。人間が現れるよりも遥か昔から、自然や宇宙は常に存在していたわけですから。
「お天道様が見ている」という言葉から受ける畏怖の念に似ている気がします。




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日本神道の世界観は万物同根にあり、その究極は「争わない」ことにある。つまり「調和」こそが神道である。
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神社の由緒はさまざまだが、神の杜(森)という点では一致している。
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皇学館大学元学長の佐藤通次博士は、「祭る」とは「まとわりつく」の意とした。人が神にまとわりつくことを「まつり=祭」と言う。
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神道は日本人の根にあるものであり、「やさしさ」の基本であり、「ほがらかさ」の源であり、「明るさ」の源であり、「正しさ」の基本であり、「気高さ」を基本とし、明日を創りだす力である。
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→明るいとか朗らかとか・・そういう当たり前のように思えることを高らかに掲げてることに親近感がわきます。
どんな立派なことを掲げる教義や宗教でも、悪を為す正当化のように悪用されたら元も子もないわけで。
もちろん、どんなものでも使う側の人間の側が大事だし、そこは人間の知恵やモラルや理性がベースになります。

「争わない」、「調和」というものも、今後ますます必要とされる感覚だと思います。



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一霊四魂こそ神道である。
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人間には4つの魂(奇魂(くしみたま)、幸魂(さきみたま)、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま))があり、それを生かしめている直日霊(なおひのみたま)という一霊がある。
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ヒトの霊魂は太霊(混沌)から大元霊として分離するとき、自性(プラクリティ)(ものになるエネルギー)に周囲を取り囲まれた。それが大元霊である。これによって分霊の出現が可能となる。
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分霊である元霊の中核を直日霊(なおひのみたま)と呼び、元霊の外部をなす自性を四魂と呼ぶ。
一霊(直日霊)は左に回り、四魂は右に回る。
左回りの直日霊は不変、右回りの四魂は次第に軽くなる。
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北村博則博士による分類では
直日霊(なおひのみたま)=空(土)=causal body(原因体)
奇魂(くしみたま)=風(木)=mental body(意識体)(=知性)
幸魂(さきみたま)=火(火)=sakti body(力能体)(=感情)
和魂(にぎみたま)=光(金)=astral body(幽体)(=心、意識)
荒魂(あらみたま)=地(水)=etherial body(複体)(=肉体)

死後は荒魂(=肉体)を脱ぎ捨て、和魂(=astral body(幽体))を表の身体とする。
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死後に、感情体である幸魂が生前の痕跡を脱皮しきれないことがある。
つまり、生前から感情の浄化が以下に重要であるかを意味する。
死後の霊体が清明高貴になるかは、禊ぎ祓えを繰り返して霊的脱皮をしなくてはならない。
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→神道のこの考えは、Spiritualismの考えと同じ。シュタイナーも似ていることを言ってます。
人間が死ぬのは単に肉体が死んだだけで、その人の本体は別の次元に移行する、と。

感情体である幸魂(さきみたま)がスムーズに離陸できるように、生きてる時から自分の感情をキレイにクリーニングとメンテナンスしなさいよ、っていうのはいいですね。
この世はあの世にとっても大事な場所なのです。この世もあの世も大事。

肉体は、この世で生きていくためのヌイグルミのようなもの。性能の良し悪しや見てくれの良し悪しは千差万別だけど、その辺はあんまり気しなさんな、ということでしょう。
着ぐるみ(『肉体(etherial body(複体))』)にとらわれず、それ例外にも「わたし」を構成している残り3つの『知性(mental body(意識体))』『感情(sakti body(力能体))』『心、意識(astral body(幽体))』をちゃんと磨きあげなさいよ、という感じでしょうか。
それぞれ、神道では荒魂(=肉体)、奇魂(=知性)、幸魂(=感情)、和魂(=心、意識)と呼ぶのです。



このことを、昔の日本人は素直に感受してきて信仰してきたのかもしれません。その素直な感性は大事なことだと思います。

現代は、色んな科学技術で自分たちの能力を外部化してしまったせいで、内部にある直感(直観)力のようなものが鈍くなってしまったのかもしれませんね。
肉体以外にも自分を構成するものを感受できれば、それぞれの人間がこの世でやるべき大事なことはたくさんあることが分かります。





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太古神道の思想の根幹には、人間の霊魂には巨大なエネルギーから分裂、分離したもの(分魂(わけみたま)で、それが現世に出現すると言う考えがある。
だからこそ、現世での活動が終わると霊魂は殻を脱ぎ捨てて元の世界へと「帰元融合」すると考えているのだ。
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直霊(なおひ)はカオスのちゅうしん生命であり、この直霊こそが「人の内なる神」であり、これこそが「ヒト」なのである。この「ヒト」から、人間の四魂(心身)が生じたのであるとされる。
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→宇宙に渦巻く巨大なエネルギー(直霊(なおひ))の一部分からヒトは生まれた。ヒトの親は自然、大宇宙。
いづれにしても、どんなものでも最終的には形を変えて来たところへ戻っていくのでしょうね。

神道が言うように、「ヒト」=「人の内なる神」と考えることは、
曹洞宗の開祖、道元和尚が
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『一切衆生悉有仏性(いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう)』
⇒一切は衆生なり。悉有(すべて)が仏性なり。
⇒全世界、全存在、全宇宙が仏性である。仏である。
自分の行いは、すべて仏の行いであると思って生きなさい。
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と言っている事と同じだと思います。





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室町時代用語として「善(ヨシ)・悪(アシ)」とう言葉が出てくるが、古代では善悪の対比ではなく、「良(ヨシ)・吉(ヨシ)・好(ヨシ)」で用いられていたわけで、「善(ヨシ)」とは「めでたい」ことであった。
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太古神道では「禍事(まがこと)・罰科(つみとが)」を祓い清める行事があるが、「禍(まが)」とは「ゆがみ」のことで、すべてを「素直」にすることが「良(ヨシ)・吉(ヨシ)・好(ヨシ)・善(ヨシ)」であった。
「清・明・正・直」は同じものを言い分けたもので、「清い」に根本がある。
「善言(よごと)」とは「清い言葉」であり、「めでたく褒め称える言葉」である。「内に邪気を含まない言葉」のことである。
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→善悪という二元論の思考法も、はまりすぎると自分で自分の首を絞めちゃいますよね。

習慣的に反射的に「いい・わるい」の判断を下してしまう事が多いけれど、そういうものは全て時と場合による相対的なものです。
あまり人間的な感情を交えるのではなく、「ゆがみ」が「わるい」ものとする。
それを「よい」ものにするのは「素直」にすることで、素直になったときを「良・吉・好・善(ヨシ)」という状態だと考えれば、あまり善悪の感情に右往左往させられることもなさそうです。



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禊ぎ祓いの精神性は、イザナギの命の禊祓神話の中に累々と述べられている。
過去のことに恋々(れんれん)としない。二者択一を唯一に絞る。煩わしき事を捨てて心身さわやかにする。
そこに自(おのずか)らなる正しさが生ずる。善が生まれる。
善の最大は讃美・讃嘆である。また、美しき心で大自然を見る。社会を眺め、見直し、聞き直し、宣(の)り直すことである。
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他人の欠点を掘り返し、いじくり返し、責め立てても、その人はいじけるだけで良くもならなければ発達もなしないのである。
それよりは、良き(吉・好・善)ものを見いだして、大きく咲(わら)い合う、というものが太古神道である。
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犬が竹を冠(かぶ)るように「笑う」のではなく、花が咲くように「咲(わら)う」ことが真の「わらい」であると、古事記や万葉集は述べている。
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人間の笑顔は素晴らしいものです。
笑顔の時、人間はEgoが一瞬はずれるからでしょう。

神道で、鏡(カガミ)を見る行法があります。
鏡(カガミ)の自分からガ(我・Ego)を除けば、カミ(カガミ-ガ=カミ)になる、という教え。
笑いというのは、ガ(我・Ego)を抜き、誰もが持つカミ(神性)を垣間見せてくれる、人間だれにも備わった仕組みなのだと思いますね。


笑う門には福来る。ということわざもありますし、仏教でも和顔施(わがんせ)があります。

仏教での布施(=梵語で「檀那(旦那)(ダーナ))は、慈悲の心をもって他人に財物などを施すこと。
仏教でもっとも大切な六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧 )のひとつです。

必ずしもモノを持っていなくても布施はできる。ニコっ笑えば、それは和顔施(わがんせ)というお布施です。
マクドナルドにある「スマイル ゼロ円」と同じでしょう。あの札を外部化しなくても内部にこっそり掲げるだけでよい。


神道の教えはシンプルで好きです。
情報化社会となり、情報が膨大に大量に溢れていますが、本当に大切なことは毎日忘れないよう大切にしたいものです。



神道のことを学ぶと、はっとさせられることも多くて、いろいろと勉強になります。
日本では、どんな地方に行っても高層ビル街でも神社があります。
神社は森を守り、清浄で神聖な空間が守られています。
そんな神社の目に見えないエネルギーに守られているから、僕らはなんとかうまくやっていけているのかもしれません。縁の下の力持ちに感謝です。


以前、ブログでも感想を書きましたが、元形成外科医で春日大社の宮司さんである葉室頼昭さんの著作もとても論理的で簡潔で面白い。読みやすいのでお薦めです。
『葉室頼昭「神道 見えないものの力」』(2011-08-10)

1 コメント

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京都清水寺 (十神山)
2015-03-03 22:38:35
 伊勢も出雲も偉そうに古式神事をやりなされ。
ただし国論を分断するような過激さは陛下もお
望みであるはずかない。
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