そぞろ歩きに関して。
街中をフラリと異邦人のように歩くのは、イイ。
昔からそぞろ歩きが好きだ。
そぞろ歩きの過程でふと古本屋を見つける。
そこで何か自分に呼びかけるものを感じて、ふと購入してみる。
ユニクロのTシャツが安いと世間が言うが、せいぜい1000円程度のレベル。
ユニクロのTシャツは、途方もない異次元に自分を連れて行ってはくれない。
1000円もかからない本に一人孤独に向き合うと、自分を異次元・異空間へといざなってくれることがある。
本を読むのは常に一人。常に孤独。その絶対的な一人が基礎になっているのは、本の書き手も同じである。
登山も孤独なプロセスだ。
誰かと一緒に登ることはあろうとも、究極的に向き合うべき世界は、自分の中にある深い内的な世界。その内的な深い世界への感動を、共に登る人と共有する。
本の世界も孤独なプロセスだ。
誰かと同じ本を読むことはあっても、究極的に向き合うべき世界は、自分の中にある深い内的な世界。
必ずしも、本の同じ部分で同じような事を感じるとは限らない。
この世界には何十億もの人間が生きているけれど、本の世界に向き合って、その世界の中へ潜っていくのは、自分一人に過ぎない。
そして、本を読むときは、ワタシがアナタ(書き手)であるような、アナタ(書き手)がワタシであるような、そんな感覚でアナタである書き手に好意や誠意を持って読むと、その人の世界観に深く入り込める。
実用書ではない本を読書をするときにたいせつなこと。
それは、自分をなくして書き手に自分を委ねる事。
そして、自意識過剰に勝手に、自分の人生を肯定化するためには本を読まない事。
そして、書き手を理解したいと思い、願い、その上で挑む。
ワタシとアナタは別の人間で、別の個性を持ち、別々の人生を歩んでいるかもしれないけれど、ワタシとは違うアナタが、何に喜び、嘆き、絶望し、悲しんだかに思いを馳せる。
書き手のアナタとワタシが、いかに『違う』か、でも同時に『同じ』であるか。
『違う』からこそ完全には理解できない。
でも同時に『同じ』だからこそ理解し合えるところもある。
完璧に『同じ』ではないけど、完璧に『違う』わけではない、そんな『同じ』と『違う』の二つの円が重なる部分を意識しながら本を読む。
そんな『同じ』と『違う』の二つの円が重なる部分を意識しだすと、どんどん深いところに入っていく。
書き手のアナタが深いところで本を書いていればいるほど、自分の奥深いところがそれに呼応して覚醒してくる。
そして、自分の深いところは、深い眠りから眼を覚ましてくる。
人間の深いところから人間の深いところへの働きかけで、自分の中の深い何かが動き出す。
自分が深めようと望めば、相互作用で自分と相手の深いところは呼応する。
神保町をそぞろ歩きしていると、以前は眼に入ってこなかった本が眼の中に飛び込んでくる。
そして、その本が到達している恐るべき深いところに思いを馳せると、いかに値段として安く売られているかに気付く。
改めて、資本主義というのはこの程度のものだと、逆に胸をなでおろす。
洋服と本の違いはあるかもしれないけど、一方で1000円のユニクロは安いと言い、一方で1000円以下の恐るべき深い本が神保町にはゴロゴロ転がっているけど、「見えない」で通り過ぎてしまう。自分に都合よく見えるものと見えないものを分けながら生きているものです。
資本主義のように、お金規格で統一化しようとする世界観では、そんなところにホコロビが見え隠れしている。
だから、全面的に信奉してはいけない。
意識的に一定の距離をとらないと容易に飲み込まれる。
『思索と体験 続「思索と体験」以後』西田幾多郎(岩波文庫)
は200円で買った。
『出家とその弟子』倉田百三(岩波文庫)
も150円で買った。
『物理学はいかに創られたか―初期の観念から相対性理論及び量子論への思想の発展 』アインシュタイン (著), インフェルト (著), 石原 純 (翻訳) (岩波新書)
も上下巻で500円で買った。
その世界に必死で向き合うと、1000円もお金をかけずに、自分の中のかなり奥深いところまでいける。
作者が奥深いところまで行っていると、そこで読者が来るのをじっと待ってくれているからなのだと思う。
・・・・・・・・・
神保町の珈琲屋は、昔からの店が多いから、喫煙も禁煙も同じ席であることが多い。分煙なんて文化はあまりない。
神保町ではそんな慣習に抗うのも野暮なので、その文化に従う。
気に入った古本を買い、ふと立ち寄った店でコーヒー飲む。
そこが意外にまずくて高くて、二度と行くかーなんて思ったり、意外にうまくて安くて、いい店だなーなんて思ったり。
わしも、いづれ喫茶店をやりたい。
個人的には、できれば禁煙にしたい。
自分の『からだ』はここにあるのに、自分の『こころ』だけを異空間に連れて行ってくれる、そんな本を深く愛する人のために、心地よい空間を準備したい。
思う存分本の世界に没入できるようにしたい。
でも、タバコも本も両方好きな人もいるし、その人を排除するのも野暮だから、なんとか喫煙席もうまい具合に作りたい。
わしは神保町という町が好きです。
あそこに行くと、なんか古き良き日本の「結界」のような何かで強く守られている不思議な気がしてくるのです。
街中をフラリと異邦人のように歩くのは、イイ。
昔からそぞろ歩きが好きだ。
そぞろ歩きの過程でふと古本屋を見つける。
そこで何か自分に呼びかけるものを感じて、ふと購入してみる。
ユニクロのTシャツが安いと世間が言うが、せいぜい1000円程度のレベル。
ユニクロのTシャツは、途方もない異次元に自分を連れて行ってはくれない。
1000円もかからない本に一人孤独に向き合うと、自分を異次元・異空間へといざなってくれることがある。
本を読むのは常に一人。常に孤独。その絶対的な一人が基礎になっているのは、本の書き手も同じである。
登山も孤独なプロセスだ。
誰かと一緒に登ることはあろうとも、究極的に向き合うべき世界は、自分の中にある深い内的な世界。その内的な深い世界への感動を、共に登る人と共有する。
本の世界も孤独なプロセスだ。
誰かと同じ本を読むことはあっても、究極的に向き合うべき世界は、自分の中にある深い内的な世界。
必ずしも、本の同じ部分で同じような事を感じるとは限らない。
この世界には何十億もの人間が生きているけれど、本の世界に向き合って、その世界の中へ潜っていくのは、自分一人に過ぎない。
そして、本を読むときは、ワタシがアナタ(書き手)であるような、アナタ(書き手)がワタシであるような、そんな感覚でアナタである書き手に好意や誠意を持って読むと、その人の世界観に深く入り込める。
実用書ではない本を読書をするときにたいせつなこと。
それは、自分をなくして書き手に自分を委ねる事。
そして、自意識過剰に勝手に、自分の人生を肯定化するためには本を読まない事。
そして、書き手を理解したいと思い、願い、その上で挑む。
ワタシとアナタは別の人間で、別の個性を持ち、別々の人生を歩んでいるかもしれないけれど、ワタシとは違うアナタが、何に喜び、嘆き、絶望し、悲しんだかに思いを馳せる。
書き手のアナタとワタシが、いかに『違う』か、でも同時に『同じ』であるか。
『違う』からこそ完全には理解できない。
でも同時に『同じ』だからこそ理解し合えるところもある。
完璧に『同じ』ではないけど、完璧に『違う』わけではない、そんな『同じ』と『違う』の二つの円が重なる部分を意識しながら本を読む。
そんな『同じ』と『違う』の二つの円が重なる部分を意識しだすと、どんどん深いところに入っていく。
書き手のアナタが深いところで本を書いていればいるほど、自分の奥深いところがそれに呼応して覚醒してくる。
そして、自分の深いところは、深い眠りから眼を覚ましてくる。
人間の深いところから人間の深いところへの働きかけで、自分の中の深い何かが動き出す。
自分が深めようと望めば、相互作用で自分と相手の深いところは呼応する。
神保町をそぞろ歩きしていると、以前は眼に入ってこなかった本が眼の中に飛び込んでくる。
そして、その本が到達している恐るべき深いところに思いを馳せると、いかに値段として安く売られているかに気付く。
改めて、資本主義というのはこの程度のものだと、逆に胸をなでおろす。
洋服と本の違いはあるかもしれないけど、一方で1000円のユニクロは安いと言い、一方で1000円以下の恐るべき深い本が神保町にはゴロゴロ転がっているけど、「見えない」で通り過ぎてしまう。自分に都合よく見えるものと見えないものを分けながら生きているものです。
資本主義のように、お金規格で統一化しようとする世界観では、そんなところにホコロビが見え隠れしている。
だから、全面的に信奉してはいけない。
意識的に一定の距離をとらないと容易に飲み込まれる。
『思索と体験 続「思索と体験」以後』西田幾多郎(岩波文庫)
は200円で買った。
『出家とその弟子』倉田百三(岩波文庫)
も150円で買った。
『物理学はいかに創られたか―初期の観念から相対性理論及び量子論への思想の発展 』アインシュタイン (著), インフェルト (著), 石原 純 (翻訳) (岩波新書)
も上下巻で500円で買った。
その世界に必死で向き合うと、1000円もお金をかけずに、自分の中のかなり奥深いところまでいける。
作者が奥深いところまで行っていると、そこで読者が来るのをじっと待ってくれているからなのだと思う。
・・・・・・・・・
神保町の珈琲屋は、昔からの店が多いから、喫煙も禁煙も同じ席であることが多い。分煙なんて文化はあまりない。
神保町ではそんな慣習に抗うのも野暮なので、その文化に従う。
気に入った古本を買い、ふと立ち寄った店でコーヒー飲む。
そこが意外にまずくて高くて、二度と行くかーなんて思ったり、意外にうまくて安くて、いい店だなーなんて思ったり。
わしも、いづれ喫茶店をやりたい。
個人的には、できれば禁煙にしたい。
自分の『からだ』はここにあるのに、自分の『こころ』だけを異空間に連れて行ってくれる、そんな本を深く愛する人のために、心地よい空間を準備したい。
思う存分本の世界に没入できるようにしたい。
でも、タバコも本も両方好きな人もいるし、その人を排除するのも野暮だから、なんとか喫煙席もうまい具合に作りたい。
わしは神保町という町が好きです。
あそこに行くと、なんか古き良き日本の「結界」のような何かで強く守られている不思議な気がしてくるのです。
資本主義がつける「価値」というものと、自分を深めていくのに必要な精神的な面での「価値」というのは、必ずしも一致していないですね。
今日、部屋で見せてもらった本たちはいずれも骨太で、思考を深めてくれる妥協のないものばかりだった気がします。
簡単にぱぱっとわかりやすくとは対面にあるけれど、だからこそ著者も命がけで書いていると思うし、読者もある程度苦しみながら、その思索を深めていけるのかもしれません。
思索と現実の世界が上手く融合して、現状を打開していく力になっていくよ、きっと。
ほんと、自分で言うのもなんだけど神保町に溶け込んでるからねー笑
今は骨太な本と戯れ中なのです。
じっくり深い層に入っていくのに、作家がより深い層に入っていると、そこにいざなってくれる気がします。
仕事で忙しく、日々の生活を雑に生きていた時は、重くて重厚な本なんて見たくもなかったし、眩暈がしてたけど、今はそんな重厚な本と正対して向き合えるだけの、心に秩序やゆとりができてきているんだと思いますね。
これは、寝ることを重視して、頭の中に秩序をつくる努力をした甲斐があったのかもしれん!
今の思索の世界と、現実の医療の世界とが、上手くシンクロして融合していくといいなー。
自分も、思索を閉じた世界の自己満足で終わらせようとは思っていなくて、現実世界でうまく活用できればなーと思っているんですよね。
自分が小学生の時考えてた30歳って大人だから、そんな子供のときの自分に恥ずかしくないように、いい大人へと深めていければいいなーなんて思ってます。
それは、閉じずに、開くことだと思ってます。