日常

東田直樹「風になる―自閉症の僕が生きていく風景」

2016-12-13 20:13:42 | 
自閉症をふくめ、何を考えているのかわからない・・・、と思われていた人が、実はとてつもなく深く豊かな内面世界を持っている、という事実。

外側へ意識が向かいやすい現代社会の中で、病気や障害のせいで内面へと意識を向けざるをえなかった人たちがいる。
ただ、その豊かな世界をぴったり表現する手段がないため、外側の表面から見ているだけでは人の奥深くに潜む豊かな内的世界は分かりにくい。

そういう意味で、東田直樹さんの存在は貴重だ。
芸術や文学や詩というものは、こういうものを基盤として生まれてくるものだと思う。

人間誰もが持つ豊かな内的世界を、過不足なく表現する手段を求める営みのプロセスとして。生きるプロセスとして。
そのことは、日々を創造的に生きる、ということと同じことだと思う。

日々は、発見と創造と成熟の手段として、異なる1日1日として与えられていると思う。

<ことば>は、意識と無意識の異なる世界に橋をかけるもの。
東田さんの中で異なる世界を結んだ橋は、読む人の内的世界にさえも、見えない橋をかけてくれる。


東田直樹さんの「風になる―自閉症の僕が生きていく風景」ビッグイシュー日本(2015/09)を読んで、改めてそういうことを感じました。
以下に、本書からご紹介します。

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<内容(「BOOK」データベースより)>
言いたかった最初の言葉は、「ごめんなさい」と「ありがとう」―。
通常の会話はほとんどできないという重度の自閉症者である作家・東田直樹。
二十歳になるまでの2年間、雑誌ビッグイシューに連載したエッセイをまとめた一冊。
文字盤で思いを伝えられるようになるまでや、家族と日々のこと、自分にとっての自閉症、ありのままの自分を生きるなど、自閉症として生きるなかで見えている風景を綴る。
演出家・宮本亜門さんとの対談も収録。2012年刊の増補版。
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<参考>
東田直樹さん(2016-04-15)
東田直樹『ありがとうは僕の耳にこだまする』(2016-05-15)
創造の本質(2016-11-06)


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他の人から見れば、僕は言葉も通じない知的障害のある気の毒な子どもだったでしょう。
でも、僕自身はかわいそうだと思われたかったわけでも、守られたかったわけでもありません。
ただ、このひとりぼっちの洞窟のような世界から、どうやったら抜け出されるのか、教えてもらいたかっただけなのです。

意味のない行動を繰り返すこだわりは、僕から自由を奪ってしまいます。
奇声やひとり言も、自分が望んでやっているわけではありません。
人を困らせてばかりいると思われていますが、 実は 、僕自身がいちばん困っていることを、いったい誰が想像できるでしょう。

自分が話せなかった頃、僕は透明人間のようでした。
確かに生きてはいますが、僕という人間はこの世界のどこにも存在していなかったのです。
今は、自分の思いを伝えることができて、とても幸せです。
僕は、どんな人も、内面というものを持っていると信じています。
それを表現できるかどうかは、その人の努力だけでは、どうしようもないことなのだと思います。
なぜなら、コミュニケーションがとれない人にとって、自分の気持ちを伝えるのは、大きな壁に穴を開けなければいけないくらい大変なことだからです。

小さい頃の僕は、いつも迷子になっていました 。
どこかに行きたかったわけではありません。
道を見ると歩きたくなってしまうのです。
それが、幸福への一本道であるかのように、ぼくは歩き続けてしまいます。
迷子になるのが、怖いと思ったこともありません。歩いていると、花や木や石ころが僕を応援してくれているかのように思え、うきうきした気分になれます。誰とも会話できませんが、自然はいつでも僕の味方でした。
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当事者の思いを尊重するということは大切だが、意外に難しいものだ。
こちらの価値観や考えや思い込みを押し付けてしまうことがある。
東田さんのような自閉症の方に限らず、すべての人に通じる普遍的なメッセージだと思う。




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僕は、面倒をみてあげようとしている時の人の気持ちは、自分本位になっている場合もあると感じています。
ただ一緒にいたいと考えてくれている時は、誰かのために行動しているわけではないので、お互いにとって無理がありません。

子どもは、笑顔で元気でなければいけません 。
身体がすくすく大きくなるように、心もまっすぐに育つべきです。

子どもがいじめにあっても、仕方のないことだ、社会に出ればもっとつたいことはあるのだから、というのは大人の言い分です。

子どもだからこそ、いじめられてはいけないのです。子供は、大人が守るべき存在だと思います。

学校でいじめられている子どもがいれば、助けてあげてください。どこかで泣いている子どもがいれば、なぐさめてあげてください。

その子は、きっと、あなたが自分を救ってくれたことを一生忘れないでしょう。
僕は、記憶の中の自分がいつも幸せであってほしいと願っています。そうすれば、嫌なことがあった時も、いずれよくなると信じられるからです。
信じる力が、人の未来を切り開い ていくのではないでしょうか。

時間の流れという感覚がない人に、「今日」を理解させるために、カレンダーの日付を見るように言っても、意味がわからないのだと思います。

時間の流れを体感できない僕にとって、今何もすることがないのが永遠に何もすることがない状態と同じです。
漠然とした不安の中で、この先自分がどうなるのだろうという思いにかられます。
この瞬間、自分らしく生きることができているかどうか、それが僕には重要なことなのです。

障害について知ってもらっていても、怒られているときには反省している態度を強く要求されます。
しかし、当たり前の反応ができないから僕は悩んでいるのです。
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→「当たり前」は、100人いれば100人違う。
だからこそ、その前提を受け入れて共有しながら、その上でどういう風にすればみんなでうまくやっていけるか、そういう社会が成熟した社会だと思います。
生命の原理である「多様性と調和」というのは、まさにそういうことなのだと自分は思うのです。



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絵具で色を塗っている時,僕は色そのものになります.
目で見ている色になりきってしまうのです.
筆で色を塗っているのに,画用紙の上を,自分が縦横無尽に駆け巡っている感覚に浸ります.

一緒にいてくださる人は,僕の様子を観察したり,少しの言動に反応してくれたりします.
きっと,僕といると疲れるだろうと思います.

その人は,別れた後も自分の取った行動と僕の表情などを思い出し(あれはよかった,あそこは悪かったなど)反省会をしているかもしれません.
そんなに考えてくださって,とてもありがたいのですが,一緒にいてくださった人が疲れるのと同じくらい,実は僕も疲れているのです.

僕は確かに障害者で,一人でできる ことは限られているでしょう.
普通の人たちの中にいた場合、常に心配して下さる気持ちもありがたいです.

でも、僕がいちばん望んでいるのは,みんなと同じ時間を共有する事なのです.
ありのままの僕を受け入れてくれるみんなも,ありのままの自分であってほしいと願っています.
特別に僕を気づかうことなく,隣にいて, 同じ場所で生きている幸せを実感して下さい.
これは,もちろん僕を無視する事とは違います.

自然体でいることは,相手の人格を受け入れ,認めてくれることだと思うのです.
しかし,そのことが意外に難しいと言うことに,僕は気付きました.


僕の気持ちを代弁したものだと勝手に断定されると,間違っていた場合,悲しい気持ちになります.
「私は,君がこう考えていると思っているよ」と言ってほしいのです.
自分の想像は外れているかもしれないけれど,一生懸命に考えた結果がこれだと言ってもらえると,納得します.
僕は話せないし,表情や態度でも表現できないのだから,気持ちをわかってもらえないのは仕方ありません.

いちばん嫌なのが,わからないからとい って,見た目の行動だけで気持ちまで決めつけられることです.
答えられなくても,尋ねてくれたらいいのにと,思います.
そうしてもらえれば,その人が僕を大切に思ってくれていると伝わるからです.
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接したことがない人に出会うと、どう接すればいいか戸惑う。
こちらの反応も過剰になり、何かぎこちないものになってしまう。
でも、そういうときだからこそ、普段親しい人、心を許せる人と接しているときと同じような自然な態度で接するのが大事なんでしょう。
そういう多様な人との出会いこそが、お互いを成長させていくと思います。



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僕の望んでいる幸せも,みんなと変わりはありません.
ただ,自分らしく生きていきたいだけなのです.
自閉症であるために,みんなのようにはできないことも確かにありますが,それを不幸だとは思っていません.

障害者の誰もが,自分から望んで障害者になったわけではありません.
運命だと感じている人,これが自分の使命だと思っている人,どうしてこんなことになったのだろうと悩んでいる人,考え方は様々ですが,障害者である自分を受け入れようと,み んな必死で生きています.

僕は,ありのままの自分を愛してくれる人を,心から愛しています.

障害者である自分が嫌になる時もありますが,その人たちの存在が僕に生きる勇気と希望を与えてくれるのです.
ありのままの自分でいるというのは,成長するための努力をあきらめることではありません.
今の自分にできる精いっぱいのことをやりながら,生き抜くことだと思っています.
ただし,僕の場合には,泣いたり悔んだりしながら,障害のある自分を受容できるまで長い時間が必要なのです.

人は,ありのまま の存在を認めてもらった時に,自分の価値を自覚するのだと思います.
障害のあるなしにかかわらず,その人にとってかけがえのない人間だと言う実感,それが重要になります.

人が生きる上で最も大切なものは「希望」です.
障害者の中には,希望の無い毎日を送っている人もいます.
もちろん,生活の中で楽しみはありますが,しかし,楽しみは希望ではないのです.

希望というものは普通,将来の夢や目標で,自分の力で探すものだと思われています.
けれども僕はそれだけではないと考えています.

希望は生きる意欲を引き出すためのものだからです.
人から「好き」と言われることも「希望」ではないでしょうか.
明日の自分を待っていてくれて人がいる.
そう思えることが ,希望のない人の「希望」になるのです.

本当に困っているのは親ではなく子どもの方なのです.
親子だからこそ伝わりにくい愛情があります.
親子は心が通じ合うものだと思い込んではいけないと感じています.
子どものの胸の内を知りたいとなげく前に「あなたを愛している」という気持ちが,きちんとその子に伝わっているのか,確かめる必要があるのではないでしょうか.

ありのままの自分でいたいと願うのは,僕のわがままなのかもしれません.
みんながそんなことを言えば,この社会は成り立たないでしょう.

それが分かっているからこそ,ありのままの僕を受け入れようとしてくれる相手の優しさに触れた時,僕は未来に希望を抱けるのです.
そして,同じ時間を過ごす幸せに包まれるのです.
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みんなが自分らしく、無理がない自然体でいれるような社会づくりこそが、今後必要とされるものでしょう。
争いや対立や分離や阻害ではなく、多様性や矛盾をありのまま受け入れながら生きていける社会。
その一歩は、それぞれが自分の思いを自分の言葉で表現しながら、対話を続けていくプロセスの先にこそ、あると思います。
思い込みではなく、本当の相手の声に耳を傾けること。


社会が開かれたものになっていくためには、まず自分自身の心が開かれていることが、すべての前提なのかもしれません。

東田さんの存在からは、いつも勇気をもらいます。
ありがとうございます。

2 コメント

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Unknown (蓮如)
2016-12-19 16:38:04
うちの2女が知的障害で 自閉症です。
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自閉の世界 (スイッチ)
2016-12-15 19:02:55
保育園~小学校の時、場面緘黙の症状が強くあって
保育園の時は誰とも話せず、
小学校でも話せるようになったのは3年生頃からでした。

あの時は、本当に喉が苦しくて声が出なかったんですよ。
友達が一人もいなくて、
空ばかり見て、雲だけが友達でした。

治ったのは4年生ごろ。
いじめられ続けて強く、「このままじゃ損だ」
と思った時。テレビのお笑いに影響されて、
初めて口を開いて、冗談を言った。

世界が、開けていった気がしますね。
言葉の大切さを、言葉を発せたことを
それまでのどうにもならない世界を
変える可能性を感じた瞬間でした。
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