■手紙
今回の文章は、NHKの若手番組ディレクターとしてこの番組を作成した吾が友に宛てる個人的な手紙のようなものになりました。共通の友人が多いので、ここに改変して載せてみることにしました。
■「ただいま」を待ち続けて ~拉致から30年・市川家の秋~
NHK「ドキュメント にっぽんの現場」という番組があります。
今回の放送は『「ただいま」を待ち続けて ~拉致から30年・市川家の秋~』というものでした。
ある鹿児島の家族の話。
その家族の息子さんは21歳のときに北朝鮮に拉致され、いまだ帰ってきていない。拉致された時期は昭和53年8月。自分が生まれたのは昭和54年1月。自分がこの世に生まれた、つい半年前の出来事。
彼は夕日を見に行くと言ったまま帰ってこず、そのまま30年の月日がたった。それは奇しくも自分の年齢、人生と同じ数。
この番組は、自分の友人が、彼のフィルターを通して、この世界に産み落とした作品なので、彼の思いを感じながら、鹿児島の彼を遠く思いながら、東京でこの番組を見たのです。
■心の揺らぎ
番組の最期は、息子さんが帰ってこないまま、息子を待ち続ける91歳の母親の予期せぬ死によって唐突に終わる。これは予期せぬ偶然だろうか。
このドキュメンタリーが放送される数日前にクモ膜下出血で倒れ、放送当日に亡くなったとのキャプションが流れていた。そして、そのキャプションと青空で、番組は唐突に終わった。
クモ膜下出血は基本的に脳動脈瘤が破裂して起こる。その破裂の誘因となるのは大きな血圧の変動。息子を待ち続ける91歳の母親は、日本政府の対応、北朝鮮の対応、日本や北朝鮮やアメリカなどのパワーバランスや思惑で揺れ動く拉致対策に振り乱される。
希望を持ち、そして失望・絶望する。その振り子の繰り返し。
人の行動も思いも、暴力的に振り乱される。
息子を待ち続ける91歳の母親は、表情が気丈だった。
91歳と思えぬ精神力で、日々の何気ない日常を送っていて、関節リウマチで手は痛々しく変形していて、その変形した手を使って食器を洗い、掃除をする。
日常を彩る植物が部屋にかざってあった。
ありふれた日常がそこにあった。
気丈な表情をしていたが、心の動揺は人間の体を循環する血液の動揺へと伝播し、その血圧の変動が死の原因となる。死ぬほどの我慢や忍耐をし、我慢と忍耐が限界を超え、命途絶えてしまったように感じられた。
最期まで、拉致された息子は帰ってこず、部屋には帰ってくる希望や思いを込めた、「カエル」の置物がおいてあった。
拉致問題は色々な問題をはらんでいる。敢えてそこには触れない。
自分が感じたことを書こうと思う。
■水俣
自分は熊本というところで生まれた。
熊本は山もあり海もあり緑と水にあふれていて、お洒落な町であり食事も美味しい。とても好きなところだ。
ただ、熊本は負の歴史も抱えている。そのひとつが水俣病。
水俣病はものすごく大きな問題をはらんでいる。過去や現在の日本の縮図ともいうべき、ほぼ全ての問題が内在している公害。
表面的には「チッソという企業が水銀を海に流し、その水銀中毒により引き起きた公害」というもの。そこには高度経済成長・利益至上主義の弊害、胎児性水俣病、差別、非水銀説を唱える医者・学者、未認定被害者・・・
水俣の風土や歴史と複雑に絡まりあい、その当時の時代性や時代のムードと複雑に結びついて、もつれにもつれた糸は未だにどほどけていない、ほどけそうで、ほどけばほどくほど更に複雑に絡んできた。
成長すると共に新聞や報道でも熊本の負の歴史を知ったし、
文学では『苦海浄土 わが水俣病』(石牟礼道子)
写真では『MINAMATA』(ユージン・スミス)
漫画では「ブラック・ジャック」(手塚治虫)
などでも、水俣を感じたのです。
水俣では色々な人が死んでいった。その事実に自分は無力感を感じた。複雑に絡みすぎていて、善とか悪とか2項対立ではこの問題は捉えることは不可能で、そんな簡単に引き出しにしまうこともできず、モヤモヤした全体的なよくわからない雰囲気と、圧倒的な無力感や絶望感や虚無感だけがそこに残ったのです。
■医師としての日常
自分はこの水俣という問題やそこから派生し表現に迫られた芸術群。
そういうものが医者になるきっかけの要素の一つして働いたのは間違いないと思っている。
高校から浪人して医学部に入り、今は医者として現場で働いている。
医療の現場では人が死ぬのは日常。死の淵から生き返るのも日常。そんな無数の死に行く人に寄りそいながら日常を送っている。そんな日常。
水俣の問題などを感じながら医者になった自分と、熊本を愛してやまない自分。
その自分は何かに向かって日々医療を行っているんだろうけど、自分のことのはずなのに、どこに向かっているのかは吾ながらさっぱり分からなかった。
その方向性は、世界から勝手につかまれてしまうような、自分の中での必然性や切実性が沸いてこなかったのだけれど、29歳という長い月日の日常が、その緩やかな時間の流れと共に、漠然とした方向性を示そうとしているような気がしている。それはみずから(自ら)ではなく、おのずから(自ずから)。
■過去を現在の中に引き受けること
死にたいして無常や無力を感じた故に、そこで立ち上がった思いがある。
『死んでいった人たちの思いを受け止め、引継ぎ、手渡していくこと。』
そういうことを、イマ考えている。
彼らの無念さ、辛さといった負の側面と共に、うれしい、楽しいという正の側面もそこにはある。部分的にではなく表面だけではなく、全体として受け継いでいくこと。過去を現在の中に引き受けること。そこに自分の興味が収束し帰着してきたような気がしている。
只、一人でやるのは到底無理。
できれば、同時代に生きていて、同じようなことを感じている人と同期して協力してやってきたいと思っている。
自分は医学・医療の分野で協力したい。あくまでも科学・サイエンスの観点から協力したい。それ以外の手法は、自分は不得意でやりにくい。それ以外はそのことが得意な他の人に任せて、必要あれば緩やかに協力していけばいいと思ってる。
ただ、芸術は自分の手法として少しとりいれたい。
過去の縦糸を、現在・イマの横糸でつなぐ。その上で未来を待つ。
今まで29年という時間は自我を強化することに一生懸命だった。色々なものを学んで感じて吸収してきたが、その出口がなくてオロオロ困っていた気がする。
次は肥大した自我をユルユルと世界にほどいていって自我をなくす。今まで世界から学んできたことを、出口として自我をほどく感じで世界に放出していこうと思う。それは何らかの表現につながるのかもしれんし、その実態が何なのかはよくわからん。まず、表現っていうものが謎に満ちているので、今は表現というものを浴びるように学んでいる途中。
表現はこの世に無数にあって、言語的なものはもちろんだし、非言語的なものもそれ以上にたくさんある。
何の表現でもいいんだけど、死んでいった人たちが僕らに伝えようとしていたことや伝え切れなかったこと・・・そういうものを感じながら引き受けていきたいって、そう思ってる。それは、果てしなく死んでいった無数の人たちから感じたことだし、学んだこと。
今までたくさんの死んでいった人を肉眼で見てきて、助かって生き返った人もたくさん見てきた。それぞれの人に愛する人がいて、大切な人がいて、人生や生活があって、全てが完璧に違う。無限な多様性がそこにはある。
■過去~イマ・現在
友人が作成したドキュメンタリーを見て、そういう思いを新たにした。
人間が生まれ、死んでいく。このサイクルは謎に満ちている。こういう生命の謎であったり人間の謎というものは、自分が医者としても一人の人間としても一生追いかけていきたい大きなテーマのひとつ。
だからこそ、一回コッキリの人生を費やすだけの価値や魅力が、そこにはある。
無力感や絶望感を感じた上で、立ち上がってきた思いがある。
過去とは現在にドンドン積み上げられていくもの。消え去るものではないと思う。死んでいった人たちも、消えて消滅したように見えるけれども、その肉体や思いは水となり元素となり、また永久にリサイクルされていく。そうやって過去は、このイマも現在にドンドン積み上げられていると思う。そして、自分もいづれその積み上げられる全体の部分になってしまうんだと思う。それは望むと望まざるに関わりなく。生まれた時からの宿命なのかな?
イマの自分は、目の前にある患者さんや医療と向き合いながら、医療の分野でできる限りのことをしながら、その軸を中心とした、ゆらぐ振幅の中で、死んでいった人たちの思いを引き継いでいけばいいと感じている。
そして、それは同時代の同じこと考えている人たちと一緒に、ノンビリと長い目で見て、焦らずにゆっくり、体を壊さない程度で丁寧に、日々の生活が疎かにならないようバランスを取りながら、その程度のスピードでやっていけばいい作業なんだと思う。だからこそ、そういう思いを持っている人が身近にいれば、最大限の礼儀と敬意を持って関係性を積み上げていきたい。
自分が一生で出会える人数なんてたかがしれている。
自分の身の丈にあった、自分が大切にできる人間の物理的な数の限界点っていうのが多分あって、そこを意識したい。それは自分の限界を知ること。身の丈を知ること。その上で、思いを同じにする人を大切にしていけばいいんだと思う。
出会えて嬉しかったら嬉しいと言えばいい。
感謝の気持ちがそこにあるのなら、表現手段なんてこの世に無限にあるのだから、その中の何かを使って感謝を示せばいい。
他者に対して、自我は自由自在でありたい!
大きな弧を描いては見たものの、戻ってきた着地点は至って単純。
こんな単純なこと、幼稚園のときも教わった気がする。
29年経たないとワカランもんなんですね。吾ながら頭が固いんだなぁー。理解遅し。
人生、ウロウロ、オロオロして、やっとこの周辺にたどり着いてきた。
もちろん、全般的には以前として霧の中ですが。
そういう色んなイマが無数の過去になって、その過去がドンドン積み上げられて、最終的には自分が完成した瞬間に死ぬんだろうと思う。
そういう意味で無駄な死はないと思う。
別にこれはポジティブシンキングとかではなく、心からそう思ってる。
■■■■■
番組を作った吾が大切な友は、あの息子を待ち続ける91歳の母親を肉眼で見て、近距離で話して、生々しい吐息を感じて、ヨロヨロ歩く後姿を見て、拉致された息子に会えないまま死んだという事実に接して、何を感じたのだろうか。
やっぱり無力感は感じただろうなぁ。やっぱり絶望も感じただろうなぁ。
吾が大切な友が感じた事、そのもの自体は分からないかもしれないけど、そういう無力感とか絶望感とかから立ち上がった思い、そして、その先の漠然と感じた雰囲気は、少しは共有できるつもり。
それは、自分も同じように無力感とか絶望感とかを日常で感じながら、それでも普通に生活していて、ヨチヨチとヨロヨロと歩いている無力な一人の人間なので。
吾が友が魂込めて作った番組を見て、番組のエンディングに無限に広がる青空の映像を見ながら、そんな思いを新たにしたのです。
思いは海や空を越えて伝播するのです。
ありがとう!!!
今回の文章は、NHKの若手番組ディレクターとしてこの番組を作成した吾が友に宛てる個人的な手紙のようなものになりました。共通の友人が多いので、ここに改変して載せてみることにしました。
■「ただいま」を待ち続けて ~拉致から30年・市川家の秋~
NHK「ドキュメント にっぽんの現場」という番組があります。
今回の放送は『「ただいま」を待ち続けて ~拉致から30年・市川家の秋~』というものでした。
ある鹿児島の家族の話。
その家族の息子さんは21歳のときに北朝鮮に拉致され、いまだ帰ってきていない。拉致された時期は昭和53年8月。自分が生まれたのは昭和54年1月。自分がこの世に生まれた、つい半年前の出来事。
彼は夕日を見に行くと言ったまま帰ってこず、そのまま30年の月日がたった。それは奇しくも自分の年齢、人生と同じ数。
この番組は、自分の友人が、彼のフィルターを通して、この世界に産み落とした作品なので、彼の思いを感じながら、鹿児島の彼を遠く思いながら、東京でこの番組を見たのです。
■心の揺らぎ
番組の最期は、息子さんが帰ってこないまま、息子を待ち続ける91歳の母親の予期せぬ死によって唐突に終わる。これは予期せぬ偶然だろうか。
このドキュメンタリーが放送される数日前にクモ膜下出血で倒れ、放送当日に亡くなったとのキャプションが流れていた。そして、そのキャプションと青空で、番組は唐突に終わった。
クモ膜下出血は基本的に脳動脈瘤が破裂して起こる。その破裂の誘因となるのは大きな血圧の変動。息子を待ち続ける91歳の母親は、日本政府の対応、北朝鮮の対応、日本や北朝鮮やアメリカなどのパワーバランスや思惑で揺れ動く拉致対策に振り乱される。
希望を持ち、そして失望・絶望する。その振り子の繰り返し。
人の行動も思いも、暴力的に振り乱される。
息子を待ち続ける91歳の母親は、表情が気丈だった。
91歳と思えぬ精神力で、日々の何気ない日常を送っていて、関節リウマチで手は痛々しく変形していて、その変形した手を使って食器を洗い、掃除をする。
日常を彩る植物が部屋にかざってあった。
ありふれた日常がそこにあった。
気丈な表情をしていたが、心の動揺は人間の体を循環する血液の動揺へと伝播し、その血圧の変動が死の原因となる。死ぬほどの我慢や忍耐をし、我慢と忍耐が限界を超え、命途絶えてしまったように感じられた。
最期まで、拉致された息子は帰ってこず、部屋には帰ってくる希望や思いを込めた、「カエル」の置物がおいてあった。
拉致問題は色々な問題をはらんでいる。敢えてそこには触れない。
自分が感じたことを書こうと思う。
■水俣
自分は熊本というところで生まれた。
熊本は山もあり海もあり緑と水にあふれていて、お洒落な町であり食事も美味しい。とても好きなところだ。
ただ、熊本は負の歴史も抱えている。そのひとつが水俣病。
水俣病はものすごく大きな問題をはらんでいる。過去や現在の日本の縮図ともいうべき、ほぼ全ての問題が内在している公害。
表面的には「チッソという企業が水銀を海に流し、その水銀中毒により引き起きた公害」というもの。そこには高度経済成長・利益至上主義の弊害、胎児性水俣病、差別、非水銀説を唱える医者・学者、未認定被害者・・・
水俣の風土や歴史と複雑に絡まりあい、その当時の時代性や時代のムードと複雑に結びついて、もつれにもつれた糸は未だにどほどけていない、ほどけそうで、ほどけばほどくほど更に複雑に絡んできた。
成長すると共に新聞や報道でも熊本の負の歴史を知ったし、
文学では『苦海浄土 わが水俣病』(石牟礼道子)
写真では『MINAMATA』(ユージン・スミス)
漫画では「ブラック・ジャック」(手塚治虫)
などでも、水俣を感じたのです。
水俣では色々な人が死んでいった。その事実に自分は無力感を感じた。複雑に絡みすぎていて、善とか悪とか2項対立ではこの問題は捉えることは不可能で、そんな簡単に引き出しにしまうこともできず、モヤモヤした全体的なよくわからない雰囲気と、圧倒的な無力感や絶望感や虚無感だけがそこに残ったのです。
■医師としての日常
自分はこの水俣という問題やそこから派生し表現に迫られた芸術群。
そういうものが医者になるきっかけの要素の一つして働いたのは間違いないと思っている。
高校から浪人して医学部に入り、今は医者として現場で働いている。
医療の現場では人が死ぬのは日常。死の淵から生き返るのも日常。そんな無数の死に行く人に寄りそいながら日常を送っている。そんな日常。
水俣の問題などを感じながら医者になった自分と、熊本を愛してやまない自分。
その自分は何かに向かって日々医療を行っているんだろうけど、自分のことのはずなのに、どこに向かっているのかは吾ながらさっぱり分からなかった。
その方向性は、世界から勝手につかまれてしまうような、自分の中での必然性や切実性が沸いてこなかったのだけれど、29歳という長い月日の日常が、その緩やかな時間の流れと共に、漠然とした方向性を示そうとしているような気がしている。それはみずから(自ら)ではなく、おのずから(自ずから)。
■過去を現在の中に引き受けること
死にたいして無常や無力を感じた故に、そこで立ち上がった思いがある。
『死んでいった人たちの思いを受け止め、引継ぎ、手渡していくこと。』
そういうことを、イマ考えている。
彼らの無念さ、辛さといった負の側面と共に、うれしい、楽しいという正の側面もそこにはある。部分的にではなく表面だけではなく、全体として受け継いでいくこと。過去を現在の中に引き受けること。そこに自分の興味が収束し帰着してきたような気がしている。
只、一人でやるのは到底無理。
できれば、同時代に生きていて、同じようなことを感じている人と同期して協力してやってきたいと思っている。
自分は医学・医療の分野で協力したい。あくまでも科学・サイエンスの観点から協力したい。それ以外の手法は、自分は不得意でやりにくい。それ以外はそのことが得意な他の人に任せて、必要あれば緩やかに協力していけばいいと思ってる。
ただ、芸術は自分の手法として少しとりいれたい。
過去の縦糸を、現在・イマの横糸でつなぐ。その上で未来を待つ。
今まで29年という時間は自我を強化することに一生懸命だった。色々なものを学んで感じて吸収してきたが、その出口がなくてオロオロ困っていた気がする。
次は肥大した自我をユルユルと世界にほどいていって自我をなくす。今まで世界から学んできたことを、出口として自我をほどく感じで世界に放出していこうと思う。それは何らかの表現につながるのかもしれんし、その実態が何なのかはよくわからん。まず、表現っていうものが謎に満ちているので、今は表現というものを浴びるように学んでいる途中。
表現はこの世に無数にあって、言語的なものはもちろんだし、非言語的なものもそれ以上にたくさんある。
何の表現でもいいんだけど、死んでいった人たちが僕らに伝えようとしていたことや伝え切れなかったこと・・・そういうものを感じながら引き受けていきたいって、そう思ってる。それは、果てしなく死んでいった無数の人たちから感じたことだし、学んだこと。
今までたくさんの死んでいった人を肉眼で見てきて、助かって生き返った人もたくさん見てきた。それぞれの人に愛する人がいて、大切な人がいて、人生や生活があって、全てが完璧に違う。無限な多様性がそこにはある。
■過去~イマ・現在
友人が作成したドキュメンタリーを見て、そういう思いを新たにした。
人間が生まれ、死んでいく。このサイクルは謎に満ちている。こういう生命の謎であったり人間の謎というものは、自分が医者としても一人の人間としても一生追いかけていきたい大きなテーマのひとつ。
だからこそ、一回コッキリの人生を費やすだけの価値や魅力が、そこにはある。
無力感や絶望感を感じた上で、立ち上がってきた思いがある。
過去とは現在にドンドン積み上げられていくもの。消え去るものではないと思う。死んでいった人たちも、消えて消滅したように見えるけれども、その肉体や思いは水となり元素となり、また永久にリサイクルされていく。そうやって過去は、このイマも現在にドンドン積み上げられていると思う。そして、自分もいづれその積み上げられる全体の部分になってしまうんだと思う。それは望むと望まざるに関わりなく。生まれた時からの宿命なのかな?
イマの自分は、目の前にある患者さんや医療と向き合いながら、医療の分野でできる限りのことをしながら、その軸を中心とした、ゆらぐ振幅の中で、死んでいった人たちの思いを引き継いでいけばいいと感じている。
そして、それは同時代の同じこと考えている人たちと一緒に、ノンビリと長い目で見て、焦らずにゆっくり、体を壊さない程度で丁寧に、日々の生活が疎かにならないようバランスを取りながら、その程度のスピードでやっていけばいい作業なんだと思う。だからこそ、そういう思いを持っている人が身近にいれば、最大限の礼儀と敬意を持って関係性を積み上げていきたい。
自分が一生で出会える人数なんてたかがしれている。
自分の身の丈にあった、自分が大切にできる人間の物理的な数の限界点っていうのが多分あって、そこを意識したい。それは自分の限界を知ること。身の丈を知ること。その上で、思いを同じにする人を大切にしていけばいいんだと思う。
出会えて嬉しかったら嬉しいと言えばいい。
感謝の気持ちがそこにあるのなら、表現手段なんてこの世に無限にあるのだから、その中の何かを使って感謝を示せばいい。
他者に対して、自我は自由自在でありたい!
大きな弧を描いては見たものの、戻ってきた着地点は至って単純。
こんな単純なこと、幼稚園のときも教わった気がする。
29年経たないとワカランもんなんですね。吾ながら頭が固いんだなぁー。理解遅し。
人生、ウロウロ、オロオロして、やっとこの周辺にたどり着いてきた。
もちろん、全般的には以前として霧の中ですが。
そういう色んなイマが無数の過去になって、その過去がドンドン積み上げられて、最終的には自分が完成した瞬間に死ぬんだろうと思う。
そういう意味で無駄な死はないと思う。
別にこれはポジティブシンキングとかではなく、心からそう思ってる。
■■■■■
番組を作った吾が大切な友は、あの息子を待ち続ける91歳の母親を肉眼で見て、近距離で話して、生々しい吐息を感じて、ヨロヨロ歩く後姿を見て、拉致された息子に会えないまま死んだという事実に接して、何を感じたのだろうか。
やっぱり無力感は感じただろうなぁ。やっぱり絶望も感じただろうなぁ。
吾が大切な友が感じた事、そのもの自体は分からないかもしれないけど、そういう無力感とか絶望感とかから立ち上がった思い、そして、その先の漠然と感じた雰囲気は、少しは共有できるつもり。
それは、自分も同じように無力感とか絶望感とかを日常で感じながら、それでも普通に生活していて、ヨチヨチとヨロヨロと歩いている無力な一人の人間なので。
吾が友が魂込めて作った番組を見て、番組のエンディングに無限に広がる青空の映像を見ながら、そんな思いを新たにしたのです。
思いは海や空を越えて伝播するのです。
ありがとう!!!
政治で刻々と変わって行く拉致被害者への対応、アメリカも日本も、どれだけ拉致被害者家族の当事者意識を持って、仕事に取りかかれるだろうか。
お兄さんが、母には政府の対応のことを知らせないと言っていたのが印象的だった。
期待させるだけ、失望も大きくなるからと。
そんなことをしなくても、90歳を超えた老体にどれだけの心労があることかと想像してみた。
どこかで元気で暮らしているんだろうな、生きているうちに会いたい、という感覚、強い想い。
言葉だけじゃなくて、表情や風景からそういったものがビンビン伝わってきた。
こういうのが骨太なジャーナリズムなんだなって思った。
いい番組だった、本当に。
わしも、当事者とか想像力とか他者性とか、根源的なものを問い直すきっかけになりましたね。
そういう想像力を喚起させて伝播させるのは流石!
あと、ジャーナリズムに関しても、このKディレクターがどういう風にとらえているのか、今度話してもらいたいとも思った。
わしが思っているのは、客観的な真実っていうのがあるのかってこと。ジャーナリズムは真実を追究すると語られることが多いと思うけど、わしは半分そうだと思うし、半分違うと思っている。
このNHKの番組も、Kディレクターの視点から世界を見ている。撮影した映像や語られた言葉、それを制限された時間内にどう組み立て、どう散りばめていくかはディレクターにかかっている。僕らはそのディレクターが再構成した世界を感じている。
そうなると、そこには必ずディレクターの思いや祈り(→主観)が絶対入る。
だから、わしはあの番組のおばあさんの死や拉致された無常観とかから、ディレクターの思いや祈りを重ねた上で伝播されてきたって感じた。
そういうある種の主観性が入ることに、作り手側は意識的であってほしいしと思う。Kディレクターは流石その辺理解していて、『・・すべきだ!』みたいなことがなかったからよかった。感じ方の押し付けっていうのはよくないって思うし、そこは自由でありたいからね。
脱線。
ShinK氏とからめて言うと、
<他者が当事者意識を持つこと>
→これはかなり深いテーマだと思うよ。やはり他者性を考えるとき根本の部分だと思う。
自分と他者は違うんだけど、違う立場から同じ方向を見ること。これはできる。
そこを越境していく要素は想像力とか思いやりとか?
お婆ちゃんの生きているうちに会いたい!という強い想い。あの静かで強い眼差しから醸し出すものがあった。それは言葉を越えた感覚。あの遠く青空を見るやさしい眼差し、切ない眼差し。そこに全てが凝縮されてた。
お婆ちゃん、無念だったでしょうね。成仏してほしいね。
お婆ちゃんの思いは、Kディレクターに間違いなく託されて手渡された。彼はそれを受け取ったんだと思う。何十年後か経った後、彼もそれを違う形で誰かに伝えていくんでしょう。
わしもShinK氏も、そのほかのあの番組を見た人全員が、その営みのプロセスにもう既に組み込まれているんだと思う。そこに自覚的でありたいって思ってます。
色々書きたいことはあるのですが、番組名が出ている以上、自分の考えをここで述べるのは若干憚られるので、また別の機会に書きたいと思います。
当事者意識のことが出ていたのでその点について一言だけ。ドキュメンタリー番組を制作するとき、自分が常に意識しているのは傍観者の視点で描くということです。
昔誰かが言っていたか書いていたかしていた例え話ですが、とあるディレクターが農村で田植えを撮影していたとします。番組に必要なシーンを撮り終えたとき、まだ、田植えの作業は半分以上残っていました。そこでディレクターの選択肢は2つ。田植えを手伝うかあるいは手伝わずに眺めて過ごすのか。
僕自身は眺めて過ごすディレクターであろうとしています。傍観者の視点とはそういう意味です。
ディレクターという肩書きで仕事を始めて4年半になるけど、未だに自分のことをジャーナリストだと思ったことはありません。なんとなくですが、ジャーナリストという言葉の大げさな響きが苦手で。自分は自分のことをテレビ番組の企画・構成屋さんだと思っています。
ついに初登場だ!笑
まあまた別の機会にでもうまくコメントしてよ。自分の作品まるごとのTOPICのときに書くのって難しいと思うし。
やはり、同世代の、ある時間やある青春を共有した人が作るものっていうのは興味あります。
きっと、過去一緒に感じた物が、はっきりしたものではなくても、部分として要素として息づいているんだろうってのは思うからね。
<傍観者の視点>ってのはいいね。
呆然と立ちすくんで見ている者の視点。
主観でもなく、客観でもないってこと。
その境界。あわい。
当事者のようで当事者でないようなもの。
主観が強いとメッセージ性が強くなる。
客観が強いとあまりに抽象的すぎる。それはテレビのメディアにはそぐわないかも。
ジャーナリストではなく、テレビ番組の企画・構成屋さん。
秘かに尊敬している風の旅人編集長の佐伯さんも、そういう編集という形で一つの全体性を伴う希有で圧倒的な雑誌作ってるし。どう見せるかとか、どう構成するかってこと。
わしも貴方にはそうあってほしい。商店街の電気屋さんみたいな存在。時代はイマ、そういうものに再度戻りつつあると思います。
ジャーナリストとなると、なんか堅いし重い。
もっと自由に素直であってほしい。
ただ、そういう堅い肩書きをとり払って、緩く自由であるために最も必要な条件は『他者への敬意』、これなんだと思いますね。
自由さって自由だから自我がいかようにも肥大する。そこをつなぎ止める手綱が必要で、それが他者。世界から離れる自分をつなぎとめるもの。
これさえ失わなければ自我は自由自在であれる。
そんな自由自在でありつつ他者への敬意を含んでいるもの。そんな番組を作り続けてほしいです!今回の番組には、間違いなくその要素あったと思います!だから感じ入ったのです。感動しました。感じ入り、動き、その動きの余韻でブログを書いたのですから。