日常

映画『シン・ゴジラ』

2016-08-28 11:53:55 | 映画
脚本・総監督が庵野秀明さん!監督が樋口真嗣さん!の映画『シン・ゴジラ』。
なんとしても映画館で見たかった。
本当にすごい映画で、しばし放心状態となり。驚きの連続。

「自分だったらどうする?!」ということを本気で考え続けたおかげで、完全に並行現実に入り込んでしまい、元の世界に戻ってくるのに苦労しました。嗚呼、いま生きていることが幸せだと、かみしめつつ。

色んな問題が象徴的に比喩的に埋め込まれていて、とてもとても考えさせられる内容でもありました。
それと同時に、何も考えずにポケーッと見てもエンターテイメントして娯楽としても成立している。素晴らしく総合的な映画だと思いました。誰にでも楽しめるような配慮が行き届いている。
映画に上から目線の批評を加えたい人には脚本に意図的に無数の穴が開けてあり、リアルな未来地図として見たい人には入念な取材に基づいた現場のリアリティーが息づいていた。上映後、1時間は現世に戻って来れないほどの放心状態が続き・・・。

ハラハラとドキドキの2時間!
是非とも、映画館で見て、異次元に迷い込むことをお薦めします!!!!


最後のエンディングロールを呆然と見ていたときにも、これだけの人たちが協力してできあがった映画なのだということに再度感涙。
伊福部昭さんの音楽も素晴らしく。
伊福部昭 SF交響ファンタジー第1番
伊福部昭 - ゴジラ (1954)
CD一枚に収まる伊福部昭メドレー


野村萬斎さんのすり足の動きをキャプチャーしたゴジラも、ものすごい迫力と存在感でした。
古典芸能の動きには、静止状態にこそ最大の動が必要とされるもの。それは綱引きで両方向から引っ張られている均衡状態と同じで、それは動を感じさせる静となる。その気迫がゴジラそのものの存在感となる。

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観世寿夫『観世寿夫著作集 二 仮面の演技』(平凡社 1981)
「能の舞台はご承知のように、三間四方の吹き抜けの舞台であるが、その上に立った時、その立った人間の前後左右上下といったあらゆる方向から目に見えない力で無限に引っ張られていて、その力の均衡の中に立つ。これがカマエである。

逆に言えば、前後左右上下に無限に気迫を発して立つ、ということでもある。
これをことばだけで説明することは至難であるが、からだ全体の力を開放し、腰なら腰というただ一点に意識と緊張を集め、すべての動きや発声のもとになる呼吸を調整して、舞台上のあらゆる行動における存在感と言ったものを把握することである、とでもいえばよいだろうか。」
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登場した役者さん全ての存在感がすごかった。キャスティングが素晴らしい。
防衛大臣役の余貴美子さん!
内閣官房副長官役の長谷川博己さん!
環境省自然環境局 野生生物課長補佐役の市川実日子さん!
が特に記憶に残った。

こうも官僚的な組織を皮肉かつリアルにとらえているのは、ディテールの効いた緻密な取材があったはずです。そういう事はなかなか表に出てきませんが、全体的な形となって顕在化してくるもの。
古生物や生物学の知識に基づく、浮世離れしないリアリティーのバランスにも感動しました。


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人間の持つ愛や憎悪などのエネルギーは目に見えないから軽んじられるが、それは必ず何らかの「形」となり顕在化してくる。
地球のエネルギーは、色々な形態をとりながら循環している。それは物質や放射能もそうだし、人類の憎悪や愛すらもエネルギーだからも色々な形に変えながら流転している。
ゴジラも、そうしたエネルギー総体のメタファーでもある。
一点に集中すると形は明確になり強大になり、薄く引き伸ばされると形は曖昧で捉えどころのない場の雰囲気のようなものとなる。

人は捉えどころのない感情をどうにかしてうまく扱おうと、悪戦苦闘してきた。

感情エネルギーは元々中性的なのものだが、それが愛や憎悪という形で両極の方向性を持つことがある。


ただ、
生きるという営みそのものは、本来は生きているだけで極めて前向きなものである。
なぜなら、それは統合してまとめあげる調和の力だから。
いのちの力は、宇宙の中でも例外的な存在だ。

バラバラになるのではなく、統合して調和させる不思議な力。
そんないのちの原点に戻りさえすれば、人は感情を平和利用できる道を選択できるだろう。


美術史は形の歴史であり、「こころの形」の歴史。
芸能史は体の歴史であり、「体の形」の歴史として見る。
人類の感情の平和利用の歴史は、美術や芸能の歴史として残っている。
美の世界へ、人類は昇華させたのだ。


ゴジラが、人類の憎悪や恐れの感情が形を持ったものだとすれば、ゴジラという美的な形に洗練し変換した。それは日本文化の神髄である。
能での般若の面は美しいが、人間の憎悪や怒りや悲しみという感情を、美的なかたちに変換することで乗り越えてきた歴史の表れだと自分は思う。
悲しみや死という受け入れがたい感情を、芸術や芸能という様式で違うエネルギーに変換し形にすることで、いのちを受け継いできたのだ。
ゴジラにさえ「美」を見るのは、そうした人類の感情の解決法の古層にも触れているからだ。


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個人的には、ゴジラと「戦う」という思考法から出たプランがアイディアとしても出なかったのが、やや残念な気がしました。映画なのでしょうがないですか・・。
さらに勝手に思ったのは、日本や地球の危機的状況に、何でもいいから力を貸せるように(地球防衛軍として政府から有識者として呼ばれるように)、日々を勉強と成長と精進の日々として、以前にも増して日常の質を上げて行こうと勝手に思いました。


成長において比べるのは自分自身。他の誰かと比べる必要は一切ありません。
敵も味方もすべて自分。

昨日の自分よりも今日の自分。今日の自分よりも明日の自分・・・・
「自分」が日々の成長と変化とを実感し続けながら、夢を現実のように、現実を夢のように寿命が来るまで生き続けたいものです。

色々な思いが頭の中をグルグルと駆け巡り、素晴らしい映画体験。
いまも、ゴジラの爪痕が自分の中にしっかりと残り、静かに発熱し続けています。


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キケロ(Cicero:BC106-BC43年)
「Dum spiro, spero.」
(while I breath, I hope)
(生きている限り、希望を持つことができる)
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