当直明けに時間があって、医療チームのあり方とか医者のあり方とか、現場のあり方に不満を感じている内容を矢作教授と話していて、なんとなくの流れでブラブラ散歩しながら話して、その流れで流れ着いて「カムイ外伝」の映画を見てきた。
「カムイ外伝」は白土三平の漫画。
初出は1965年なので、もう45年!も昔の漫画で、自分がまだ生まれてない頃からやっている。カムイ伝自体もまだ完結せず続いている現在進行形の漫画でもある。
ちなみに、カムイ(kamui)とは、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のことを指す。人間にはできない大きなもの(いいことも悪いことも含め)をもたらすものがカムイで、そういう能力を持つものが内在している霊的知性体のようなものをカムイと呼んでいる。
そういう語源を持つカムイが主人公。
カムイは徳川時代の忍びの人間であったが、そこから抜け出して「抜忍(ぬけにん)」として命を追われながら永遠に逃げ続ける。終りがない逃亡と流浪の物語である。
カムイが元々忍びには入ったのは、士農工商のどの身分にも入れなかった存在として生まれたからだ。そういう人間を、当時は人に非ず(ヒトニアラズ)と書いてと呼んでいた。
そんな身分社会からの逃走であり、自由への逃走の物語である。
この漫画の根底に流れているもの。
それは「悲しみ」であると感じる。
この物語は、果てしなく、悲しい。
固定化された身分社会の中で、弱く小さい存在である人間は絶望的に無力であって、頼れるのは自分だけである。
絶望的に悲しい旋律が根底に流れている。
信じては裏切られ、裏切られては信じる。信じているようで信じていなくて、信じていないようで信じている。
人を裏切るのにも、その人なりの悲しい理由があって、誰もお互いを非難できない哀しみを持つ構造がそこにはある。
そんな悲しみの入れ子構造が延々と螺旋構造を形づくっている。
カムイ伝、カムイ外伝、中学生の時に全部読んで、そのあまりにも悲しく非情で非人間的な描写に衝撃を受けた。
と呼ばれた人たちへの容赦なき社会からの迫害。
社会構造の歪みのしわ寄せ。
権力をもった人間こそ、「人に非ず」。
意味のない暴力や横暴がはびこる。
そんな人にあらざる権力をもつ人間の振舞いは、その下の立場に暴力や怨念や怒りとして伝播する。
さらに農民などの弱い立場へとさらに増幅して伝播していき、そんな負の連鎖はと呼ばれた、社会構造が作りだした場所へと収束していかざるをえない。
そんな矛盾を一心に受ける。
そんなどうしようもない社会構造で、鬼子のような存在として生まれたのがカムイである。
映画を見て、僕は延々と悲しい感情が渦巻いた。
映画は少し毒を薄めて作られていたが、原作の白土三平の漫画は、更に延々と悲しい。
どうしようもない運命に身を委ね、否応なしに殺しあいの螺旋に入りこまざるを得なかった人々。
そういう人たちは、常にとてつもない悲しみ(哀しみ)を背負って生きている。
それは、井上雄彦のバガボンドにおいてもテーマになっているように思えた。
また原作の漫画が読みたくなって、思わず大人買いして「カムイ外伝」を全巻買いした。今改めて読んでいる。
あまりに悲しすぎて、自分の意思と無関係に涙が出てくることがあって、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」のだと、思う。
「悲しさ」の旋律に自分のからだが同期して、勝手に反応している。
・・・・・・・・・・・・・
東大応用倫理学の竹内整一先生が、NHKラジオでやった『<かなしみ>と日本人』という内容をベースに「悲の哲学」という本を書いているらしい。
『<かなしみ>と日本人』(もう中古でしか売っていない)を読んでいて、この一節が心に響いた。
**************************
<かなし>とは、「……しかねる」のカネと同根とされる言葉で、力が及ばず、どうしようもない切なさを表す言葉です。
すなわち<かなしみ>とは、みずからの有限さ・無力さを深く感じとる感情ですが、しかし、そうしたことを感じることにおいて、そこに、ある種の倫理性、あるいは無限(超越)性を獲得できる感情としても働いています。
**************************
<悲>
非は、羽が左右に反対に開いたさま。両方に割れる意を含む。悲は「心+非」で、心が調和統一を失って裂けること。胸が裂けるようなせつない感じのこと。
<哀>
衣は、かぶせて隠す意を含む。哀は「口+衣」で、思いを胸中におさえ、口を隠してむせぶこと。
**************************
カムイ伝を読んでいると、胸が裂けるように切ない。
言語化できない思いを胸中におさめるしかなく、口を隠してむせぶ。
それは、正しく「悲しみ」であって、「哀しみ」だ。
でも、「優しさ」も「強さ」も、同じ根っこを経て出てくるのではないかともふと思った。
カムイは、「悲(哀)しさ」だけではなく、底しれぬ「優しさ」も「強さ」も共存している。
人の「悲しみ・哀しみ」。
それは、医療のように「献身」を仕事の根本に持ち、人様の「生き死に」を扱う仕事において、人間を扱う仕事において、常に根底に流れているメロディーだと感じた。
人の「悲しみ・哀しみ」を分かること、感じること、そこで心が割れるような思いをすること。
カムイ伝は、そんな人間の深いところを容赦なく揺さぶる。
漫画の金字塔だと言われる理由がよくわかる。
・・・・・・・・・・・・
漫画はもちろんすごいし、映画版「カムイ外伝」もよかったですよ。(過剰にCGが使われてた場面でろは少し興ざめしちゃったところもあったけど・・)
よくぞあの悲しい漫画をあそこまで。松山ケンイチの演技も光っていました。
そういえば、映画でも印象的だったのは、当時の人々の貧しい生活。
みんな、剥き出しで動物のように野性で生きていた。
みんな、自分のからだ一つで生きている。
そんな生きざまが、特に自分の心に刺さりました。
そんな風景が、心から離れません。
「カムイ外伝」は白土三平の漫画。
初出は1965年なので、もう45年!も昔の漫画で、自分がまだ生まれてない頃からやっている。カムイ伝自体もまだ完結せず続いている現在進行形の漫画でもある。
ちなみに、カムイ(kamui)とは、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のことを指す。人間にはできない大きなもの(いいことも悪いことも含め)をもたらすものがカムイで、そういう能力を持つものが内在している霊的知性体のようなものをカムイと呼んでいる。
そういう語源を持つカムイが主人公。
カムイは徳川時代の忍びの人間であったが、そこから抜け出して「抜忍(ぬけにん)」として命を追われながら永遠に逃げ続ける。終りがない逃亡と流浪の物語である。
カムイが元々忍びには入ったのは、士農工商のどの身分にも入れなかった存在として生まれたからだ。そういう人間を、当時は人に非ず(ヒトニアラズ)と書いてと呼んでいた。
そんな身分社会からの逃走であり、自由への逃走の物語である。
この漫画の根底に流れているもの。
それは「悲しみ」であると感じる。
この物語は、果てしなく、悲しい。
固定化された身分社会の中で、弱く小さい存在である人間は絶望的に無力であって、頼れるのは自分だけである。
絶望的に悲しい旋律が根底に流れている。
信じては裏切られ、裏切られては信じる。信じているようで信じていなくて、信じていないようで信じている。
人を裏切るのにも、その人なりの悲しい理由があって、誰もお互いを非難できない哀しみを持つ構造がそこにはある。
そんな悲しみの入れ子構造が延々と螺旋構造を形づくっている。
カムイ伝、カムイ外伝、中学生の時に全部読んで、そのあまりにも悲しく非情で非人間的な描写に衝撃を受けた。
と呼ばれた人たちへの容赦なき社会からの迫害。
社会構造の歪みのしわ寄せ。
権力をもった人間こそ、「人に非ず」。
意味のない暴力や横暴がはびこる。
そんな人にあらざる権力をもつ人間の振舞いは、その下の立場に暴力や怨念や怒りとして伝播する。
さらに農民などの弱い立場へとさらに増幅して伝播していき、そんな負の連鎖はと呼ばれた、社会構造が作りだした場所へと収束していかざるをえない。
そんな矛盾を一心に受ける。
そんなどうしようもない社会構造で、鬼子のような存在として生まれたのがカムイである。
映画を見て、僕は延々と悲しい感情が渦巻いた。
映画は少し毒を薄めて作られていたが、原作の白土三平の漫画は、更に延々と悲しい。
どうしようもない運命に身を委ね、否応なしに殺しあいの螺旋に入りこまざるを得なかった人々。
そういう人たちは、常にとてつもない悲しみ(哀しみ)を背負って生きている。
それは、井上雄彦のバガボンドにおいてもテーマになっているように思えた。
また原作の漫画が読みたくなって、思わず大人買いして「カムイ外伝」を全巻買いした。今改めて読んでいる。
あまりに悲しすぎて、自分の意思と無関係に涙が出てくることがあって、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」のだと、思う。
「悲しさ」の旋律に自分のからだが同期して、勝手に反応している。
・・・・・・・・・・・・・
東大応用倫理学の竹内整一先生が、NHKラジオでやった『<かなしみ>と日本人』という内容をベースに「悲の哲学」という本を書いているらしい。
『<かなしみ>と日本人』(もう中古でしか売っていない)を読んでいて、この一節が心に響いた。
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<かなし>とは、「……しかねる」のカネと同根とされる言葉で、力が及ばず、どうしようもない切なさを表す言葉です。
すなわち<かなしみ>とは、みずからの有限さ・無力さを深く感じとる感情ですが、しかし、そうしたことを感じることにおいて、そこに、ある種の倫理性、あるいは無限(超越)性を獲得できる感情としても働いています。
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<悲>
非は、羽が左右に反対に開いたさま。両方に割れる意を含む。悲は「心+非」で、心が調和統一を失って裂けること。胸が裂けるようなせつない感じのこと。
<哀>
衣は、かぶせて隠す意を含む。哀は「口+衣」で、思いを胸中におさえ、口を隠してむせぶこと。
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カムイ伝を読んでいると、胸が裂けるように切ない。
言語化できない思いを胸中におさめるしかなく、口を隠してむせぶ。
それは、正しく「悲しみ」であって、「哀しみ」だ。
でも、「優しさ」も「強さ」も、同じ根っこを経て出てくるのではないかともふと思った。
カムイは、「悲(哀)しさ」だけではなく、底しれぬ「優しさ」も「強さ」も共存している。
人の「悲しみ・哀しみ」。
それは、医療のように「献身」を仕事の根本に持ち、人様の「生き死に」を扱う仕事において、人間を扱う仕事において、常に根底に流れているメロディーだと感じた。
人の「悲しみ・哀しみ」を分かること、感じること、そこで心が割れるような思いをすること。
カムイ伝は、そんな人間の深いところを容赦なく揺さぶる。
漫画の金字塔だと言われる理由がよくわかる。
・・・・・・・・・・・・
漫画はもちろんすごいし、映画版「カムイ外伝」もよかったですよ。(過剰にCGが使われてた場面でろは少し興ざめしちゃったところもあったけど・・)
よくぞあの悲しい漫画をあそこまで。松山ケンイチの演技も光っていました。
そういえば、映画でも印象的だったのは、当時の人々の貧しい生活。
みんな、剥き出しで動物のように野性で生きていた。
みんな、自分のからだ一つで生きている。
そんな生きざまが、特に自分の心に刺さりました。
そんな風景が、心から離れません。