
最近の読書遍歴の流れの中で(伊藤比呂美『読み解き「般若心経」』(2011-01-24)、『ブッダの真理のことば、感興のことば』(2011-02-02))、ふと思いだして、ヘッセ「シッダールタ」(新潮文庫)を読んだ。
ブッダは「目覚めたもの」という意味。
シッダールタも、最初からブッダと言うわけではなくて、人が成長していくことで「ブッダ(=目覚めたもの)」と呼ばれる存在へとなっていくみたい。
(これは、手塚治虫「ブッダ」を読んでから知ったこと。⇒『ブッダ』手塚治虫(2009-02-03))
その「ブッダ」になる前のシッダールタの旅を追体験しながら、ヘッセの人間に対する深い優しさのようなものを感じた。
ヘッセを読んでいると(村上春樹さんもそうだけど)、渦巻きの螺旋運動のように深い深い意識の層へと吸い込まれて行く。
人間が、いろんな意識状態を行ったり来たりしながら、それでいてそのことに無自覚に生きているかということに気づかせてくれる。
なんだかボーっとしてきて、朦朧としてきて、覚醒しながら「夢」を見続けているような感じになってくる。
まるで抽象絵画のように。
コトバの束をつかんで深い場所へと下降していきながら、コトバでは表現されえない夢幻のような場所へと連れて行かれる。
そんな刺激的で危険な旅への案内人が、作家という存在だ。
そのことで、書き手と読み手の間には強い信頼感が生まれる。
ひとは、物語やフィクションをどれだけ同時並行に、どれだけ入れ子状に自分の中に取り込めるかで、「現実」世界への強度が増すんだと思う。
それが、そのひとのほんとうの「つよさ」になる。
もちろん、最後には「現実」世界へと戻るための「つよさ」だ。
「現実」とは、いま(Now)、ここ(Here)。
でも、この「いま(Now)」、「ここ(Here)」をふたつをつなげると、「nowhere(ここではないどこか)」になるというのも面白いものだ。
いろんな場所も時間も、メビウスの輪のようにねじれながらもつながっている。
ヘッセ「シッダールタ」より
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『「なんじの魂は全世界なり」とそこには書かれていた。
人間は眠りにおいて、深い眠りにおいて、自己の内奥に立ち帰り、真我の中に住む、と書かれていた。』
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『さぐり求めるとは、目標を持つことである。
これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。』
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『何よりも川から聞くことを学んだ。
静かな心で、開かれた待つ魂で、執着を持たず、願いを持たず、判断を持たず、意見を持たず、聞きいることを学んだ。』
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『無言で水に耳を傾けた。
水はふたりにとって水ではなく、生命の声、存在するものの声、永遠に生成するものの声だった。』
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ブッダは「目覚めたもの」という意味。
シッダールタも、最初からブッダと言うわけではなくて、人が成長していくことで「ブッダ(=目覚めたもの)」と呼ばれる存在へとなっていくみたい。
(これは、手塚治虫「ブッダ」を読んでから知ったこと。⇒『ブッダ』手塚治虫(2009-02-03))
その「ブッダ」になる前のシッダールタの旅を追体験しながら、ヘッセの人間に対する深い優しさのようなものを感じた。
ヘッセを読んでいると(村上春樹さんもそうだけど)、渦巻きの螺旋運動のように深い深い意識の層へと吸い込まれて行く。
人間が、いろんな意識状態を行ったり来たりしながら、それでいてそのことに無自覚に生きているかということに気づかせてくれる。
なんだかボーっとしてきて、朦朧としてきて、覚醒しながら「夢」を見続けているような感じになってくる。
まるで抽象絵画のように。
コトバの束をつかんで深い場所へと下降していきながら、コトバでは表現されえない夢幻のような場所へと連れて行かれる。
そんな刺激的で危険な旅への案内人が、作家という存在だ。
そのことで、書き手と読み手の間には強い信頼感が生まれる。
ひとは、物語やフィクションをどれだけ同時並行に、どれだけ入れ子状に自分の中に取り込めるかで、「現実」世界への強度が増すんだと思う。
それが、そのひとのほんとうの「つよさ」になる。
もちろん、最後には「現実」世界へと戻るための「つよさ」だ。
「現実」とは、いま(Now)、ここ(Here)。
でも、この「いま(Now)」、「ここ(Here)」をふたつをつなげると、「nowhere(ここではないどこか)」になるというのも面白いものだ。
いろんな場所も時間も、メビウスの輪のようにねじれながらもつながっている。
ヘッセ「シッダールタ」より
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『「なんじの魂は全世界なり」とそこには書かれていた。
人間は眠りにおいて、深い眠りにおいて、自己の内奥に立ち帰り、真我の中に住む、と書かれていた。』
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『さぐり求めるとは、目標を持つことである。
これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。』
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『何よりも川から聞くことを学んだ。
静かな心で、開かれた待つ魂で、執着を持たず、願いを持たず、判断を持たず、意見を持たず、聞きいることを学んだ。』
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『無言で水に耳を傾けた。
水はふたりにとって水ではなく、生命の声、存在するものの声、永遠に生成するものの声だった。』
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卒論でも扱ったとはすごいですね。驚きです。
ヘッセは心理学者ユングとも交流があるので、自己の最深部を扱った作品が多いですね。しかも、その文章表現が官能的なまでに美しいので(原文のドイツ語はもっとすごいのでしょうが)、流れるように読まされてしまいます。
『ブッダの完全な教えを聞いても満足できないところに作者の苦悩が窺えます』
そういう一節ありますよね。ああいうのもすごく好きです。
「それはわかる。言ってる事はわかる。でも、自分の中にまだ落ちてこないんだ。」というような叫びのようなものを感じます。
どんなものでも、ほんとうに自分の中に落ちて、血となり肉となるには、その人にとってのオリジナルで個別的な体験が必要になるのでしょう。それはなかなか一般化できない類のものです。
そもそも、小説家というのは多かれ少なかれ自分の《個別的な体験》を基にしていて、しかしそれだけでは自伝になってしまうから、フィクションとして面白いようにドラマティックなストーリーを考える。ヘッセは結構自分の経験を盛り込む小説家ですが、同時に詩・絵・音楽など美の追究と、東洋西洋のあらゆる思想による救いの探求が高次元で進行している。だから多くの読者が強い魅力を感じて普遍的な価値を得る。ヘッセの作品は、specialからuniversalへの一つの完成形と言えるかもしれません。
『ヘッセの作品は、specialからuniversalへの一つの完成形と言えるかもしれません。』
そうですね。僕もそう感じました。
その人なりの特別な体験や、一瞬で通り過ぎてしまうものを、豊饒なイメージを喚起させる言語へと変換させて、僕ら読者の中にしっかりと種子を植え付ける感じですね。 それはすぐ発芽するかもしれないし、時間がたってしかるべき時期に発芽するかもしれない。 でも、確実にそういう種子が伝わり、植え込まれたような感覚があります。
ドイツ人でも日本人でも、人種や地域を超えて、<ひとりの人間として>人間を丁寧に書いているからこそ、世界文学というものになっていくのかもしれませんね。