■心を磨くこと
新しい職場の仕事初めまで、2ヶ月間も休みがあって、長期の旅へ出る気も今はないので、最近は自分の部屋に大量にある本やマンガや映画のDVDを見直す作業をしようと思って、日々勤しんでいます。
最近は、30歳になって心境も変化してきたのか、あまりに仕事に忙殺されていた過去の日常をふと見直しています。
自分は、他の誰でもない自分の人生を生きていくのだから、一生付き合う自分という存在を磨くというか、自分の魂とか心を磨くような作業をしないといかんかなぁとか思い始めていて、以前にも増してものごとをゼロから見つめなおそうとしておる日々なのです。
言ってみれば、赤ん坊に戻った心境で、何の偏見もなくこの世のあらゆるものを、再度素直にありのまま見つめなおしてみようかなーなんて思い立っているところとも言えますかね。
自分の全ての時間を仕事に使っていると、自分の肉体はそこについていくけど、心は置いてけぼりになって、自分の心を掃除もする暇もないもんだからドンドン埃がかぶってくる。それは、あまりに仕事に真面目に向き合いすぎると、陥りやすい落とし穴かもしれません。
医者にとっての30才って、仕事初めて5~6年目くらいだから、仕事を再度見直して見るべき丁度いい区切りの時期なのかもしれません。
10歳くらいで徐々に自意識が確立してきて、20歳くらいで大学に入ったり一人暮らしをしたり社会というものにもまれる。そして、仕事を始めて、肉体と精神を極限まで酷使する日々を送り、ここらでふと小休止、coffee breakと言ったとこでしょうか。
ここ3年間は常に病院からの呼び出しで待機(on call)している日々で、夜も休日もなんとなく気が休めなかったし、盆も正月も黄金週間も毎朝病院に行ってたし、この2カ月の休みは、よき休息の日。人間、休まないとダメね。
心の埃を払って、ピカピカに掃除する時期ですかね。まだ磨けば光る時期だし遅くない!
■『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』(稲盛和夫)
元々は、このブログにも書き込んでくれているともこさんと、お互いに本や漫画を数冊貸し借りしていて(お互い中高生みたいですが笑)、その中の一つにこの『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』(稲盛和夫)があって、読んでみました。
稲盛和夫さんは、京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者ですが、鹿児島県生まれで西郷隆盛の教えである「敬天愛人」を京セラの社是にもしています。
この本は2007年に出たんですけど、2007年は西郷隆盛没後130周年、生誕180周年にあたる年だったとか。130年と言えば、数代ご先祖様に戻る程度の過去なので、なんか遠いようで近いような気もしちゃいます。
その当時の西郷隆盛の考えを、山形県の旧庄内藩の有志がまとめたものが「南洲翁遺訓」というもので、その一つ一つを紹介している本なのです。
経営者が書く本って、いわゆるビジネス本に分類されるんでしょうか。
普段ビジネスの現場にいない自分はビジネス本関連のとこに行かないこともあって、すごく新鮮だった。やはり一流の経営者は哲学がある!
稲盛和夫さんの西郷隆盛、儒教、仏教をベースにした哲学感と、そこから派生する経営哲学はとても興味深く面白かった!示唆に富むと思った。
■『南洲翁遺訓』
『南洲翁遺訓』の西郷隆盛の言葉の中で、特に感じ入ったのだけを簡単に挙げて、自分が感じたことも補足します。
●南洲翁遺訓第五ケ条:
『幾歴辛酸志始堅(いくたびかしんさんをへてこころざしはじめてかたし)。丈夫玉砕愧甎全(じょうぶぎょくさいせんぜんをはず)、一家遺事人知否(いっかのいじひとしるやいなや)。不為児孫買美田(じそんのためにびでんをかわず)。』
→
<現代語訳>
逆境の後、志は始めて固く定まる。志を持った人間が玉となり砕けようとも、志をすてて瓦のようになり長生きすることは恥とせよ。自分は、子孫の為に財産を残さないという事を家訓にしている。
→
<自分の解釈>
逆境により自分の大事なものというものが逆説的に見えてくる。自分から不要なものをそぎ落としても残ってくるもの、それが志というもので、その志というものを軸に自分の生き様や死に様は決まるのかもしれない。
●南洲翁遺訓第七ケ条:
「事大小と無く、正道を踏み至誠(しせい)を推し、一時の詐謀を用う可からず。」
→
<現代語訳>
どんな大きい事でも、小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心をつくし、一時の策略を用いてはならない。
→
<自分の解釈>
何事においても誠の心(稲盛さんは常に真心と訳していた)を尽すべしと。結果とか利益とか、そういうものを打算的な目標を立てず、自分が誠の心を尽すという、自分の心のありように思いを馳せろと聞こえる。結果はおのずからついてくるんだろうし、それでいいんじゃないかと思える。
●南洲翁遺訓第九ケ条:
「忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に彌(わた)り、易(か)ふ可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、西洋と雖(いえど)も決して別無し」
→
<現代語訳>
忠孝、仁愛、教化(良い方に教え導くこと)は政治の基本で、未来永遠に、宇宙・全世界に大事な道である。道は天地自然の物であり、西洋でも同じである。
→
<自分の解釈>
政治のような泥臭いことにも、常に「忠孝、仁愛、教化」という3つの軸を心に持つこと。それは国や文化や宗教や言語の壁を越え、人の心に必ず伝わるということか。
●南洲翁遺訓第二十ケ条:
「何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば、行はれ難し。人有りて、後方法の、行はれるものなれば、人は第一の宝にして、己れ其の人に成るの心懸け肝要なり。
→
<現代語訳>
どんなに制度や方法を論議しても、それを行なう人がダメならばうまく行われない。人こそ宝であり、自分もそういう立派な人物になるよう心掛けることが大事である。
→
<自分の解釈>
方法やシステムは、それを扱う人間の心の働きにより良くも使えるし、悪用もできる。単なる方法・手段に過ぎないものをアレコレ議論するより、自分がどうありたいかという心の問題や志を突き詰めないといけない。その心の働きの方向性が定まれば、自ずと方法は決定されるということだろうか。
●南洲翁遺訓第二十一ケ条:
「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、『毋意(いなく)、毋必(ひつなく)、毋固(こなく)、毋我(がなく)』。総じて人は、己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。」
→
<現代語訳>
道は、天地自然の道理であるから、学問の道は『敬天愛人』を目的とし、己れに克つ事を心がけねばならない。己れに克つという事の目的は「意なし、必なし、固なし、我なし」。つまり、「我儘をしない。無理押しをしない。固執・執着しない。我を通さない。」という事だ。自分に克つ事によって成功し、自分を愛し自己本位になる事で失敗する。
→
<自分の解釈>
無私とか無我の境地か。「自分が自分が」という人を蹴落としてのし上がっていく手法も、短期的には成功したように見えるかもしれないが、長期的にはきっと人はついてこない。おそらく、同じようなやり方で自分も裏切られることがあるだろうし、自分も踏みにじられるかもしれない。そんな短期的で浅はかな発想ではなくて、『敬天愛人』の心、つまり人間からは超越的なものである天・自然・宇宙のようなものを敬い、畏怖と謙虚の心を持ち、それでいて他者を愛すること。こういう『敬天愛人』の心を持ちながら、自分を溺愛する、自意識過剰な自分という閉じられた世界から抜け出ないといけないということだろうか。自分を愛するように、当たり前に他者を愛すればいいんだろう。
●南洲翁遺訓第二十二ケ条:
『己に克つに、事々物々、時に臨みて克つ様にては、克ち得られぬなり。兼て気象を以て克ち居れよと也』
→
<現代語訳>
自分に克つと言う事は、場あたり的に克つのではなくて、常に自分の心を奮い起こして準備しなくてはいけない。
→
<自分の解釈>
己に克つ(克己)というのは言うのは簡単だが実行するのは難しい。嘘や欲望や執着など、色んなものに自分の心は揺れ動く弱い存在である。常に自分を見つめて、弱い自分を見つめながらその自分と対話してよりよく生きたいと願うこと。そういうものを軸にしながら日々の生活を送ることが重要であるということか。己に克つ(克己)という単純で難しいことを、場当たり主義の哲学ではなく、人生を貫く軸として、自分の生活の大きい柱の一つに据えよ。という風に聞こえる。
●南洲翁遺訓第二十四ケ条:
道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も、同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。
→
<現代語訳>
道は天地自然のものであり、之にのっとって生きるとすれば、天を敬う事を目的とすべきである。天は誰もを平等に愛するから、自分を愛する心をもって人を愛すべきだ。
→
<自分の解釈>
これは、「南洲翁遺訓第二十一ケ条」に近い。視点を自意識という狭いところから引いて、大自然や宇宙というところまで持っていけば、自分も他者も同じようなものだ。自意識にとらわれている人間も、単なる豆粒や塵のような存在にすぎない。そういう大きい広い視点を持てば、自分を愛すように他者も天も愛せるし、敬えるのではないか。
●南洲翁遺訓第三十ケ条:
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして、国家の大業は成し得られぬなり。」
→
<現代語訳>
命も、名声も、官位も、金もいらぬという人は一見扱いづらいが、こんな人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を成し遂げる事は出来ない。
→
<自分の解釈>
逆説的に、命や名声や地位や金など大したものではないと言っている。そんな小さい目先のものにとらわれず、大義や大きい志を持ち、そういう熱い志を共にする同志と仕事をやりなさいと言っているのだろう。
そういう人が自然に集うためには、西郷さんが言うところの「己に克つ」心を保ちつつ、自己犠牲や利他が伴うものなのだろう。自分の心が常にそういう方向性をもっていれば、同じ方向性を持つ人々が自然に集ってくるのかもしれない。
●南洲翁遺訓第三十一ケ条:
「道を行ふ者は、天下挙(こぞって)て毀(そし)るも、足らざるとせず、天下挙て誉るも、足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。」
→
<現代語訳>
正しい道を生きてゆく者は、文句や陰口をたたかれようとも不満を言わず、周りが褒め讃えても、満足しないのは、自分を深く厚く信じているからだ。
→
<自分の解釈>
他者からの評価は気になるものだが、それ以上に自分の心のありようを深く見つめ、自分が誠をつくし真心を尽していると固く信じる境地にあれば、他者によって自分の軸がぶれることはない。これは他者の意見を聞くなとかそういうことを言っているのではなく、自分との対話を続けながら、自分の心を深く信じれるような心境となり、果てしない歩みを続けなさいということだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ちょっとだけ引用しようと思っていたら思わず長くなった。(いつもの癖!)
ほんとは、この西郷隆盛の考えを読んで、ふと思い出した『代表的日本人』内村鑑三(岩波文庫)も読み返して(→西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人が紹介されている)、その感想も合わせ技で書こうかと思っていたんだけど、疲れてきた&長くなったのでまた別の機会に。(とか言って忘れることも多い)
(→*2009-04-02に忘れず書いた。『代表的日本人』内村鑑三)
■「敬天愛人」
稲盛和夫さんの『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』を読んで如実に感じたのは、西郷隆盛が、「自分」とか「心」のありようをしつこく繰り返し言っている点。そして、その軸と平行して、『天』という概念も軸として出てくる。
『天』は、ほかの宗教だと『神』のような概念で、つまり人間を超えた超越的な存在なのだろうけど、西郷さんは朱子学(儒教)・陽明学・仏教の知識をベースにしている日本人なので、そういう超越的な存在は「大自然」であったり、途方もない「宇宙」であったりしていると思えた。
やはりこれは日本人が綿々と自然に受け継いできた世界観なのかなぁ。
なんとなく自分にもしっくりくる。
天から雨が降り、それによって水がこの世界や人体を潤して、循環している。
ふと天を見上げると、万物を成立せしめている生命の源とも言える水が不思議とポツリポツリと無目的に降ってくる。
西郷さんはすごく素朴な人だったというから、自然の不思議な現象を素直に感じて、「敬天愛人」という言葉にも込めたのかもしれない。
そして、西郷さんは天のような外の世界だけではなく、常に自分の内なる心へも視線を向けていた。
不断の絶え間ない努力を要することかもしれないけど、自分の心がよりよき方向へ向かってさえいれば、全てはよりよき方向へと自然の摂理に従っておのずからついてくるという世界観を感じた。
だからこそ、とにかく自分の心を磨きなさいと、そうして「徳」のようなものを血肉となるまで身につけなさいと。(この辺は儒教的な考えかな)
お金や地位や名誉や色んな世俗的なものに一時的に惑わされそうになるけど、己に克つことで、自分の魂や心を絶え間なく磨き続けることを忘れなさんなと聞こえる。
自分が誠心誠意、誠や真心を尽した結果、その結果が一見悪いように思える時もある。でも、それは短期的な視点から見たからそうなのであって、数年、数十年、もしくは自分が死んだ数百年という時の流れに思いを馳せれば、それで十分だと思えるのかもしれない。そんな懐広く、あたたかい彼の哲学も自然に自分に還流してきた。
最近引っ越した家の近くには上野公園があって、そこに西郷さんの大きい銅像がある。ブラブラ散歩したときに昨日も見かけたし、一昨日も見かけた。
銅像って何のためにあるんだろうか。
それは、西郷さんが僕らの世代に残したかった魂のようなもの、それを僕らの無意識の層に沈殿させるのではなく、意識上に浮かび上がらせるための触媒のような働きをしているのかもしれない。
西郷さんの銅像の前を偶然通りながら、この本を読んだ自分との不思議な縁も感じたものです。
新しい職場の仕事初めまで、2ヶ月間も休みがあって、長期の旅へ出る気も今はないので、最近は自分の部屋に大量にある本やマンガや映画のDVDを見直す作業をしようと思って、日々勤しんでいます。
最近は、30歳になって心境も変化してきたのか、あまりに仕事に忙殺されていた過去の日常をふと見直しています。
自分は、他の誰でもない自分の人生を生きていくのだから、一生付き合う自分という存在を磨くというか、自分の魂とか心を磨くような作業をしないといかんかなぁとか思い始めていて、以前にも増してものごとをゼロから見つめなおそうとしておる日々なのです。
言ってみれば、赤ん坊に戻った心境で、何の偏見もなくこの世のあらゆるものを、再度素直にありのまま見つめなおしてみようかなーなんて思い立っているところとも言えますかね。
自分の全ての時間を仕事に使っていると、自分の肉体はそこについていくけど、心は置いてけぼりになって、自分の心を掃除もする暇もないもんだからドンドン埃がかぶってくる。それは、あまりに仕事に真面目に向き合いすぎると、陥りやすい落とし穴かもしれません。
医者にとっての30才って、仕事初めて5~6年目くらいだから、仕事を再度見直して見るべき丁度いい区切りの時期なのかもしれません。
10歳くらいで徐々に自意識が確立してきて、20歳くらいで大学に入ったり一人暮らしをしたり社会というものにもまれる。そして、仕事を始めて、肉体と精神を極限まで酷使する日々を送り、ここらでふと小休止、coffee breakと言ったとこでしょうか。
ここ3年間は常に病院からの呼び出しで待機(on call)している日々で、夜も休日もなんとなく気が休めなかったし、盆も正月も黄金週間も毎朝病院に行ってたし、この2カ月の休みは、よき休息の日。人間、休まないとダメね。
心の埃を払って、ピカピカに掃除する時期ですかね。まだ磨けば光る時期だし遅くない!
■『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』(稲盛和夫)
元々は、このブログにも書き込んでくれているともこさんと、お互いに本や漫画を数冊貸し借りしていて(お互い中高生みたいですが笑)、その中の一つにこの『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』(稲盛和夫)があって、読んでみました。
稲盛和夫さんは、京セラ・第二電電(現・KDDI)創業者ですが、鹿児島県生まれで西郷隆盛の教えである「敬天愛人」を京セラの社是にもしています。
この本は2007年に出たんですけど、2007年は西郷隆盛没後130周年、生誕180周年にあたる年だったとか。130年と言えば、数代ご先祖様に戻る程度の過去なので、なんか遠いようで近いような気もしちゃいます。
その当時の西郷隆盛の考えを、山形県の旧庄内藩の有志がまとめたものが「南洲翁遺訓」というもので、その一つ一つを紹介している本なのです。
経営者が書く本って、いわゆるビジネス本に分類されるんでしょうか。
普段ビジネスの現場にいない自分はビジネス本関連のとこに行かないこともあって、すごく新鮮だった。やはり一流の経営者は哲学がある!
稲盛和夫さんの西郷隆盛、儒教、仏教をベースにした哲学感と、そこから派生する経営哲学はとても興味深く面白かった!示唆に富むと思った。
■『南洲翁遺訓』
『南洲翁遺訓』の西郷隆盛の言葉の中で、特に感じ入ったのだけを簡単に挙げて、自分が感じたことも補足します。
●南洲翁遺訓第五ケ条:
『幾歴辛酸志始堅(いくたびかしんさんをへてこころざしはじめてかたし)。丈夫玉砕愧甎全(じょうぶぎょくさいせんぜんをはず)、一家遺事人知否(いっかのいじひとしるやいなや)。不為児孫買美田(じそんのためにびでんをかわず)。』
→
<現代語訳>
逆境の後、志は始めて固く定まる。志を持った人間が玉となり砕けようとも、志をすてて瓦のようになり長生きすることは恥とせよ。自分は、子孫の為に財産を残さないという事を家訓にしている。
→
<自分の解釈>
逆境により自分の大事なものというものが逆説的に見えてくる。自分から不要なものをそぎ落としても残ってくるもの、それが志というもので、その志というものを軸に自分の生き様や死に様は決まるのかもしれない。
●南洲翁遺訓第七ケ条:
「事大小と無く、正道を踏み至誠(しせい)を推し、一時の詐謀を用う可からず。」
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<現代語訳>
どんな大きい事でも、小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心をつくし、一時の策略を用いてはならない。
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<自分の解釈>
何事においても誠の心(稲盛さんは常に真心と訳していた)を尽すべしと。結果とか利益とか、そういうものを打算的な目標を立てず、自分が誠の心を尽すという、自分の心のありように思いを馳せろと聞こえる。結果はおのずからついてくるんだろうし、それでいいんじゃないかと思える。
●南洲翁遺訓第九ケ条:
「忠孝仁愛教化の道は、政事の大本にして、万世に亘り、宇宙に彌(わた)り、易(か)ふ可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、西洋と雖(いえど)も決して別無し」
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<現代語訳>
忠孝、仁愛、教化(良い方に教え導くこと)は政治の基本で、未来永遠に、宇宙・全世界に大事な道である。道は天地自然の物であり、西洋でも同じである。
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<自分の解釈>
政治のような泥臭いことにも、常に「忠孝、仁愛、教化」という3つの軸を心に持つこと。それは国や文化や宗教や言語の壁を越え、人の心に必ず伝わるということか。
●南洲翁遺訓第二十ケ条:
「何程制度方法を論ずるとも、其の人に非ざれば、行はれ難し。人有りて、後方法の、行はれるものなれば、人は第一の宝にして、己れ其の人に成るの心懸け肝要なり。
→
<現代語訳>
どんなに制度や方法を論議しても、それを行なう人がダメならばうまく行われない。人こそ宝であり、自分もそういう立派な人物になるよう心掛けることが大事である。
→
<自分の解釈>
方法やシステムは、それを扱う人間の心の働きにより良くも使えるし、悪用もできる。単なる方法・手段に過ぎないものをアレコレ議論するより、自分がどうありたいかという心の問題や志を突き詰めないといけない。その心の働きの方向性が定まれば、自ずと方法は決定されるということだろうか。
●南洲翁遺訓第二十一ケ条:
「道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、『毋意(いなく)、毋必(ひつなく)、毋固(こなく)、毋我(がなく)』。総じて人は、己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。」
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<現代語訳>
道は、天地自然の道理であるから、学問の道は『敬天愛人』を目的とし、己れに克つ事を心がけねばならない。己れに克つという事の目的は「意なし、必なし、固なし、我なし」。つまり、「我儘をしない。無理押しをしない。固執・執着しない。我を通さない。」という事だ。自分に克つ事によって成功し、自分を愛し自己本位になる事で失敗する。
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<自分の解釈>
無私とか無我の境地か。「自分が自分が」という人を蹴落としてのし上がっていく手法も、短期的には成功したように見えるかもしれないが、長期的にはきっと人はついてこない。おそらく、同じようなやり方で自分も裏切られることがあるだろうし、自分も踏みにじられるかもしれない。そんな短期的で浅はかな発想ではなくて、『敬天愛人』の心、つまり人間からは超越的なものである天・自然・宇宙のようなものを敬い、畏怖と謙虚の心を持ち、それでいて他者を愛すること。こういう『敬天愛人』の心を持ちながら、自分を溺愛する、自意識過剰な自分という閉じられた世界から抜け出ないといけないということだろうか。自分を愛するように、当たり前に他者を愛すればいいんだろう。
●南洲翁遺訓第二十二ケ条:
『己に克つに、事々物々、時に臨みて克つ様にては、克ち得られぬなり。兼て気象を以て克ち居れよと也』
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<現代語訳>
自分に克つと言う事は、場あたり的に克つのではなくて、常に自分の心を奮い起こして準備しなくてはいけない。
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<自分の解釈>
己に克つ(克己)というのは言うのは簡単だが実行するのは難しい。嘘や欲望や執着など、色んなものに自分の心は揺れ動く弱い存在である。常に自分を見つめて、弱い自分を見つめながらその自分と対話してよりよく生きたいと願うこと。そういうものを軸にしながら日々の生活を送ることが重要であるということか。己に克つ(克己)という単純で難しいことを、場当たり主義の哲学ではなく、人生を貫く軸として、自分の生活の大きい柱の一つに据えよ。という風に聞こえる。
●南洲翁遺訓第二十四ケ条:
道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も、同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。
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<現代語訳>
道は天地自然のものであり、之にのっとって生きるとすれば、天を敬う事を目的とすべきである。天は誰もを平等に愛するから、自分を愛する心をもって人を愛すべきだ。
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<自分の解釈>
これは、「南洲翁遺訓第二十一ケ条」に近い。視点を自意識という狭いところから引いて、大自然や宇宙というところまで持っていけば、自分も他者も同じようなものだ。自意識にとらわれている人間も、単なる豆粒や塵のような存在にすぎない。そういう大きい広い視点を持てば、自分を愛すように他者も天も愛せるし、敬えるのではないか。
●南洲翁遺訓第三十ケ条:
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして、国家の大業は成し得られぬなり。」
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<現代語訳>
命も、名声も、官位も、金もいらぬという人は一見扱いづらいが、こんな人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を成し遂げる事は出来ない。
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<自分の解釈>
逆説的に、命や名声や地位や金など大したものではないと言っている。そんな小さい目先のものにとらわれず、大義や大きい志を持ち、そういう熱い志を共にする同志と仕事をやりなさいと言っているのだろう。
そういう人が自然に集うためには、西郷さんが言うところの「己に克つ」心を保ちつつ、自己犠牲や利他が伴うものなのだろう。自分の心が常にそういう方向性をもっていれば、同じ方向性を持つ人々が自然に集ってくるのかもしれない。
●南洲翁遺訓第三十一ケ条:
「道を行ふ者は、天下挙(こぞって)て毀(そし)るも、足らざるとせず、天下挙て誉るも、足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故也。」
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<現代語訳>
正しい道を生きてゆく者は、文句や陰口をたたかれようとも不満を言わず、周りが褒め讃えても、満足しないのは、自分を深く厚く信じているからだ。
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<自分の解釈>
他者からの評価は気になるものだが、それ以上に自分の心のありようを深く見つめ、自分が誠をつくし真心を尽していると固く信じる境地にあれば、他者によって自分の軸がぶれることはない。これは他者の意見を聞くなとかそういうことを言っているのではなく、自分との対話を続けながら、自分の心を深く信じれるような心境となり、果てしない歩みを続けなさいということだろう。
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ちょっとだけ引用しようと思っていたら思わず長くなった。(いつもの癖!)
ほんとは、この西郷隆盛の考えを読んで、ふと思い出した『代表的日本人』内村鑑三(岩波文庫)も読み返して(→西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5人が紹介されている)、その感想も合わせ技で書こうかと思っていたんだけど、疲れてきた&長くなったのでまた別の機会に。(とか言って忘れることも多い)
(→*2009-04-02に忘れず書いた。『代表的日本人』内村鑑三)
■「敬天愛人」
稲盛和夫さんの『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』を読んで如実に感じたのは、西郷隆盛が、「自分」とか「心」のありようをしつこく繰り返し言っている点。そして、その軸と平行して、『天』という概念も軸として出てくる。
『天』は、ほかの宗教だと『神』のような概念で、つまり人間を超えた超越的な存在なのだろうけど、西郷さんは朱子学(儒教)・陽明学・仏教の知識をベースにしている日本人なので、そういう超越的な存在は「大自然」であったり、途方もない「宇宙」であったりしていると思えた。
やはりこれは日本人が綿々と自然に受け継いできた世界観なのかなぁ。
なんとなく自分にもしっくりくる。
天から雨が降り、それによって水がこの世界や人体を潤して、循環している。
ふと天を見上げると、万物を成立せしめている生命の源とも言える水が不思議とポツリポツリと無目的に降ってくる。
西郷さんはすごく素朴な人だったというから、自然の不思議な現象を素直に感じて、「敬天愛人」という言葉にも込めたのかもしれない。
そして、西郷さんは天のような外の世界だけではなく、常に自分の内なる心へも視線を向けていた。
不断の絶え間ない努力を要することかもしれないけど、自分の心がよりよき方向へ向かってさえいれば、全てはよりよき方向へと自然の摂理に従っておのずからついてくるという世界観を感じた。
だからこそ、とにかく自分の心を磨きなさいと、そうして「徳」のようなものを血肉となるまで身につけなさいと。(この辺は儒教的な考えかな)
お金や地位や名誉や色んな世俗的なものに一時的に惑わされそうになるけど、己に克つことで、自分の魂や心を絶え間なく磨き続けることを忘れなさんなと聞こえる。
自分が誠心誠意、誠や真心を尽した結果、その結果が一見悪いように思える時もある。でも、それは短期的な視点から見たからそうなのであって、数年、数十年、もしくは自分が死んだ数百年という時の流れに思いを馳せれば、それで十分だと思えるのかもしれない。そんな懐広く、あたたかい彼の哲学も自然に自分に還流してきた。
最近引っ越した家の近くには上野公園があって、そこに西郷さんの大きい銅像がある。ブラブラ散歩したときに昨日も見かけたし、一昨日も見かけた。
銅像って何のためにあるんだろうか。
それは、西郷さんが僕らの世代に残したかった魂のようなもの、それを僕らの無意識の層に沈殿させるのではなく、意識上に浮かび上がらせるための触媒のような働きをしているのかもしれない。
西郷さんの銅像の前を偶然通りながら、この本を読んだ自分との不思議な縁も感じたものです。
本の第1章の「無私」では、『自分というものを捨ててでも、世のため、人のために尽くせるような「無私」のリーダーが求められている。」とあったけど、これは感動したな。。。これって「自分を消す」ということではなくて、「自分」から脱して「他」について真心をもって考え、「他」との関係の中で「自分」の存在があるという枠組みの中で物事を考えられる人と解釈しました。ストイック!
「自分が偉いんですよ~!」みたいなエゴや私心のない人。世のため、人のためにかなりのエネルギーを使うからこそ、「尽くす」という単語を上で使っていたのだろうね。ほんとに素晴らしい。洋書の”Good to Great”(和書では、ビジョナリーカンパニー2)というのがあるんだけど、Goodで終わる会社ではなくGood からGreatに変化した優れた会社の分析をしている本で、ここにも同じようなことが書いてあったんですよ。意外に東洋西洋問わず、優れた経営者というか優れた人というのは共通項があるものかもしれないです。
また、第2章の「試練」もいいですね。『リーダーとは、両極端の考え方を持っていながら、それを局面に応じて矛盾なく正しく発揮できる人』。たぶん、「リーダー」というか、「優れた人」であるためには、いいバランス感覚をもっていることはほんとに大事だろうなと思います。例えば「強さと優しさ」両方があるとか、「(組織の成長に対しての)ambitionと慎重さ」の両方があるとか、一見相反する考えを強く持つからこそ、何らかの判断をしなくてはいけないときに、長期・短期、過去の経緯と今後の見通し、得する人・損する人、などなど色んなことを考慮に入れた上で、最もその段階でいいと考えられる配合のバランスでその考えを融合させるんでしょうね。大変難しいことですよね・・・。はぁ、すごい。
ビジネスって本来お客様=人々のためにあって、人間がより幸せになったり、成長できたり、よりよくなれるためにあるものだし、その目的のために会社は商品やサービスを開発して提供していくのが根本にあるものだと思います。お客様から対価をもらうという緊張感を持ちながら、その対価で常に市場によりよい商品や物を出せるように改善する絶え間ないプロセスなのかな、と。その中でいい仕事をして、会社の持つ長期ビジョンに向かって世の中に価値を生んでいくには、経営者=トップの生き様のようなもの・どういった価値観を持って会社を運営しているのかというのはやはり重要だと思います。それが共に働くものには見えるし、とても影響を与えるものですよね。あぁ、昭和の優れた会社の創設者は皆素晴らしい方ばかりですよね。
個人的に、『南洲翁遺訓集』の第二十一ケ条はほんとに好きですね。『敬天愛人』の考え方、ほんとにしっくりきます。ピタって感じ。気に入っていただけてほんとに嬉しいです。いなばさんのブログを読んで、また興味を持ってくださる人もいるでしょうし、この本に書かれたバリューは、本当にいいと思うんですよ。全てということでなくてよくて、自分の心に刺さる箇所が年を追うごとに変化していくような気がします。
上野といなばさんのつながりもますます強くなっていきますね!
ちなみにこの本sを読んでから、私は憧れの鹿児島に行っちゃいました~。維新ふるさと館は特に素晴らしい。一日中遊べます。脱線。鹿児島いいですよね、大好き。
いやー、本&漫画の貸し借りが熱いですね!今度火の鳥&ブッダの感想を自分のところでも書きますよ!
つい熱くなってコメント長くなっちゃいました・・・読んでいただいてありがとうございました。
僕にとっても座右の書です。すぐに手が届くところに置いてあります。
陽明学の系譜で、彼自身もまた言志四録から抜き書きしていますね。それらもきっとその岩波のにもおさめられてますよね。
僕は「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ・・・」が特に好きです。
今度語りましょう。
熱いメッセージありがとう!文章から熱が伝わってきます。
稲盛さんのやり方は、確かにビジネスの現場では理解されにくいかもしれないけど、僕はああいう人大好きです。どんなに優秀な人とか頭切れる人とか学問的業績がある人より、人として情愛に満ちている人とか、人格を磨こうとしている人、やはりそういう人にこそついていきたいと思う。
三国志での劉備元徳という存在、子供のころは関羽、張飛、趙雲、諸葛亮とかに強く惹かれちゃうんだけど、やはりトップにたつのは徳がある人物なんでしょうねー。(脱線)
第1章の「無私」ということ。自分の利益追求している人が確かに多いんだけど、日々生死の臨床に携わっている自分としては、そんなことにどれほどの意味があるのかと思ってしまう。自分がいくら財をなして贅沢をしても、死ぬときは何も持たず死ぬものですよね。死ぬときに、全ての財はその人のものではなく、公共のものであるということがわかる。財は、ある場所に永遠に固定化されたものではなく、一時的にその人の預金口座に留まっただけだしね。
禅の言葉で、『人間本来無一物』って言葉がある。
人間はなにも持たず裸で生まれ、なにも持たずに裸で死んでゆく。
ま、それだけの事なんだけど、僕はかなり深いなーって思ったものです。
そう考えると、自分という存在もかなり自由になれる。
そういう発想と同時並行で、「無私」っていうのはすごく腑に落ちる。
ともこさんが言うように、無私って自分を否定することではなくて、自分と自分が一致していない状況にふと気づいたとき、自分が自分とぴたりと重なり、ありのままで素直に生きることを決意したとき、初めて自分という存在を一つ乗り越えることができると思うのよね。そうすると、自分っていうのは他者と厳密な境界線で区分けされたものではなくて、それは自意識の産物で、自分が勝手に境界線を引いていたことに気づく。
だから、そういう無意味な自意識っていう境界線をなくして、無私の領域で他者と接していく。それは、他者は自分であり、自分は他者であるというような、渾然一体となったつかみどころがない領域だと思う。これは言語的には矛盾するんだけど、感覚としてはわかる領域。
生死一如みたいなのと同じかもしれん。
第2章の「試練」での『リーダーとは、両極端の考え方を持っていながら、それを局面に応じて矛盾なく正しく発揮できる人』っていうのも同じだね。
一見矛盾して見える存在は、実は言語的に矛盾しているだけで、存在としては実は同一ものであることが多い。それはコインの表を見るか、裏を見るかの違いであって、コインそのものを見ると同じものだっていうのと同じなんだと思う。
「ビジネスって本来お客様=人々のためにある」
この発想はかなり大事だよね。結局、何のためにしたかったのかよくわからなくなることって多い。そして、利益とか利潤っていう、一見わかりやすいものを仮の目標にしてみるんだけど、それを追求しても、実は実態は何もなくて、欲望をどんどん膨らませてもその最果ては何もなく、ただ空しいだけ。
大金持ちが自家用ジャンボジェット買ったり、何百億のダイヤ見せびらかせたり、車を何十台も所有していたり、そんな映像をテレビでよく見るんだけど、あれもあの金持ちはいったい何がしたいのか全く意味不明。さらに、それを垂れ流すテレビ番組自体も意味不明だと思う。
ああいう人間性がない空しい時代は既に終わっていると思うね。僕らの世代は、時代に呼応して違う価値観を創り上げていかないんだと、激しく思いますねー。
「ビジネスって本来お客様=人々のためにある」のと同様、医学も本来人々のためにあるし、それは生老病死(仏教では四苦とされているけど)に寄り添うことでもある。これは他ジャンルを鏡として、自分の世界でも常に戒めないといかんことだと思います。
『南洲翁遺訓集』の第二十一ケ条、いいよねー。
薩摩の人って、『敬天愛人』の文字が家に飾ってある家は多い。わしの母方は鹿児島なんで、よく知ってます。そういう熱い志を持った人を、精神の支柱に支えることができる県民性っていいと思う。
維新ふるさと館、面白そうね。一回も行ったことない。今度熊本帰るから、時間あればKTMに会いに行くのも兼ねて覗きに行こうかなー。
火の鳥&ブッダ、深いよねー。
火の鳥なんて、凄すぎていまだにブログで感想書けないでいるけど、わしも今度書こうかな。手塚漫画から、人生にとって大切なことのほとんど学んだ気がする。笑
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>さくりば様
南洲翁遺訓第三十ケ条のとこ、確かにかっこいいよねー!
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして、国家の大業は成し得られぬなり。」
最初、そんな人は仕末に困るもの也と言っていて、でもね。そんな人とじゃないと国を動かすような大きなことは絶対できないよ。ってかぶせてくる。この言い回しもかっこいいと思う。
さくりば君に言われて気づいたんだけど、これって岩波で出てるのね。
→『西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文』 (岩波文庫)
西郷隆盛の南洲遺訓に書かれていることをまず理解することから初めて、そしてそれを頭の中での理解にとどめず、ちゃんと実行して実践していくこと。30代ってのは、実行や実践の時期なんでしょうねー!
そして、ちゃんと実践されているかを、南洲遺訓を読んだ人同士でお互いに注意し、確認しあいながら生きていくことが、西郷さんも含め、「呼応」していくってことだと思いますね。