うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

美徳の美

2007年06月06日 | ことばを巡る色色
いつだか、あなたのブログはよくある、「うまいもんとか行ったとこ」とかではないのでいいよ、とお褒めいただいたことがあった。最近のわたしのは、「うまいもんとか行ったとこ」とかになってしまっており、心密かに反省したり、恥じ入ったりしている。そんなことは、更新の少ない理由にするのも恥ずかしいことなのだけれどね。
という訳で、先の日曜の「行ったとこ」は、明治村。春からわたしは明治村の村民(年間パスポートなのだ。わたしは明治村的には『5丁目67番地帝国ホテル』に住んでいる)なので、ちょっと時間があると明治村を訪れている。明治村は今、トリエンナーレという、アマチュアの方のパフォーマンスを見る催しがある。日曜は、聖ザビエル天主堂で、男声コーラスを聞いた。高い高い丸天井に響く男声は心を慰撫する。男声コーラスはやっぱ、教会で聞くべきだなって思う。これも一種の「荘厳」なのだろう。歌うといのはとても原初的な行為だ。声は、言葉というコミュニケーションツールを乗せる役割から離れ、体は神を荘厳する楽器となる。教会建築はそのために蝙蝠の屋根を持つ。
次は森鴎外と夏目漱石の住んだ家。薩摩琵琶をやっておられた。そこで、平家敦盛の段を聴く。唄は、声明となり、言葉になり、を繰り返しながら唱えられる。いたわしや、敦盛は二十に満たぬ若きみそらで首をかかれり。
言葉とは、デジタルなものである。情報伝達の器であり、記号である。しかし、言葉を発することは、アナログな行為となる時がある。音を出すためだけの行為となる。伝えられるのは、記号でなく、音の塊となる。人が人であるのは、自らが手にした言葉という記号を、記号のままにはしておけぬ点であろう。それは祈りであり、ゲイジツであろう。
そのために、ゲイジツは過剰を目指す。過剰はトランスを呼ぶからだ。トランスは捧げることから発する。言葉という記号を越え、過剰に唱えることは、神やらなんやらに身を捧げることであり、捧げ尽くせば、混沌でありながら真空の佳境となる。記号のみで語ることの浅薄さを知る。
制御された記号の中で生きる現代の人たちではあるが、身体のどこかにそれからの解放を望んでいる部分がある。
捧げぬことを知らぬゲージツは傲慢だろう。わたしが西洋の少なからぬ物を、傲慢でつまんない、って思うのは、その故だ。正しく写し取ろうとすること、正しくあらわそうということのなんと、傲慢なことよ。
明治村にあるのは、偽西洋建築ってやつだ。それらはかわいらしい。そこには「憧れ」というかわいらしい感情があるからだ。記号で割り切り、描こうとする物にはないものだ。若冲の持つトランス感も、仏を含む万物への「憧れ」と描くという行為に身を捧げつくしたかわいらしさがある。森羅万象に比ぶれば、己のなんとちっぽけなことよ、という気持ちのよさがある。それは、美しい国の美徳であったろう。
早い話が、西洋ゲージツ、すかしてんじゃねーよ、って思うのだ、私は。
狩野派がどんどん詰まんなくなっちゃったのは、西洋ゲージツが詰まんないのと似てる。生まれながらに征服者である者のために、ゲイジツの征服者が作った物のなんて、欠伸物なのだ。
そう、最近の「かわいい」にまつわる美徳の話を。
世の中には、「王子」に浮かれる老男女。皆さん、「かわいい」とおっしゃる。あまり美しくない姿だな、ってわたしは思う。ゆうちゃんも、りょうくんも、まおちゃんも、みきてぃも、みんなみんな、「かわいい」と言ってる皆さんより、過酷な練習をし、目には見えぬものと戦い、厳しい毎日を送っている。それを、格下で庇護してやらねばならぬ者を見るように、「かわいい」と言うのはおかしくなかろうか。言ってる方々よりは、きっと数段スーパーな人で、戦いの毎日を過ごしているのだと思う。そこに思いをはせるべきではなかろうか。謙虚に彼らを讃えるのが、美しい国の美徳であろうと思うよ。
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