ことばは海のようだ、人を造り、育む。「はじめにことばありき」という神話を持つ人々もいる。何故その(たみびと)がそのように信じたのか諸説はあるが、私はその海の中に溺れ、漂い、泳いでいく。その先にある岸は何の国だろう。
「白鳥の王子」
幼いころ持っていた数少ない本のひとつがこれである。何度も何度も読んだ。その頃は国中がまだ貧しかったので、どんな本も際限なく買ってもらえることなどあり得ないことだった。「さあ、本を買ってやろう」と言われて何日も本屋に通っては迷ったものだ。町の商店街でただ一つの本屋で買ってもらったのだが、何故これを選んだのかは覚えていない。魔法で鳥にかえられてしまった7人の兄を人に戻すために、妹姫が衣を編む。それは、夜中に墓場の茨で編まなければならないというお話だった。当然ハッピーエンドなのだが、墓場・夜中・茨しか私の記憶に残っていない。
どんなにか姫は心細く怖かったことだろう。世の中で守ってくれる人は誰もいない。兄たちは夜中しか妹をはげますことができない。それも「ぐえっぐえっ」という鳥の声でしか。この領地の将来と兄たちの人生のすべてが、茨で荒れ、血だらけになった彼女の細い指にかかっているのだ。兄たちは人はよい(鳥はよい?)のだが、彼女の仕事の役には立たない。
なんという不条理!
最後に兄たちは人に戻り、彼女も姫に戻ってめでたしめでたしなのだが、結末部での彼女の印象は薄い。ひたすらに身を捧げることの似合う子なのだ。この手のお話では、男の子は「お馬鹿りん」が多い。人はいいのだが魔法をかけられてしまい(蛙さんにされてしまった要領の悪い奴もいる)、たいてい女の子が助けるということになってしまっている。女の子は助けるために夜のお仕事を余儀なくされる。なんか、今時の女子にもちょっと似通ってたりして。
しっかりしろ、兄たち、男たち。君たちに克服策はないのか!
この頃から、貴種流離譚っぽいものをよく読んだ。「日常は、貴種が正しく明かされ世に認められるための試練である」という発想が私の中でどんどん育っていってしまった。今考えるとこれは結構な危険思想なのだが、素直な子の私は一直線にその考えに進んでいった。「黄門様の印籠」「金さんの桜吹雪」「王家の紋章」がなければならぬ!と思ったわけだ。残念ながら私の家計も経済状況もそんな「印籠」とは縁のないところにあった。先祖も親の職業もフツーだったので、私は勉強をすることにした。幼い私にとって、それが「貴種」となる一番の早道に思えたからだ。
「幸福の王子」
アンデルセンのお話。これを読んだ時私は、ばっかじゃない!と思った。宝石を身に着けるような王子なら、まずそれを一つ売って、それで多くの困った人やら動物やらに分配すればいいのに。みんなが要るだけ分けてもらえば、オールハッピーだったはずなのに。王子は算数ができなかったんだろうか。いや、ヤンゴトナキ身の人はそんな細かい算数をしないものかもしれない。こう考えるのは貧乏人の発想かもしれない。そうやって王国は衰退していくのかもしれない。
お話自体も王子の親切を諸手をあげて賞賛していない気がする。アンデルセンも貧乏な子だったのかもね。
貴種を巡る別のお話。最近「一寸法師」を古文で読んだ(多分いろいろ写本があるのだろうが)。年老いた夫婦は神様に頼んで子を授かったが、いつまでたっても大きくならない。そこで疎ましく思った二人は夜中に「あの子は私たちへの神様からの災いなのか、あんな大きくならない子はいなくなってしまえばいいのに」と話をする。それを察した一寸法師が、居づらくなり都に出るというものだった。なんてかわいそうな一寸法師、一寸の身で頼れるのは老夫婦だけだったろうに。昔の人はなんとストレートで残酷なことでしょう。
「白鳥の王子」
幼いころ持っていた数少ない本のひとつがこれである。何度も何度も読んだ。その頃は国中がまだ貧しかったので、どんな本も際限なく買ってもらえることなどあり得ないことだった。「さあ、本を買ってやろう」と言われて何日も本屋に通っては迷ったものだ。町の商店街でただ一つの本屋で買ってもらったのだが、何故これを選んだのかは覚えていない。魔法で鳥にかえられてしまった7人の兄を人に戻すために、妹姫が衣を編む。それは、夜中に墓場の茨で編まなければならないというお話だった。当然ハッピーエンドなのだが、墓場・夜中・茨しか私の記憶に残っていない。
どんなにか姫は心細く怖かったことだろう。世の中で守ってくれる人は誰もいない。兄たちは夜中しか妹をはげますことができない。それも「ぐえっぐえっ」という鳥の声でしか。この領地の将来と兄たちの人生のすべてが、茨で荒れ、血だらけになった彼女の細い指にかかっているのだ。兄たちは人はよい(鳥はよい?)のだが、彼女の仕事の役には立たない。
なんという不条理!
最後に兄たちは人に戻り、彼女も姫に戻ってめでたしめでたしなのだが、結末部での彼女の印象は薄い。ひたすらに身を捧げることの似合う子なのだ。この手のお話では、男の子は「お馬鹿りん」が多い。人はいいのだが魔法をかけられてしまい(蛙さんにされてしまった要領の悪い奴もいる)、たいてい女の子が助けるということになってしまっている。女の子は助けるために夜のお仕事を余儀なくされる。なんか、今時の女子にもちょっと似通ってたりして。
しっかりしろ、兄たち、男たち。君たちに克服策はないのか!
この頃から、貴種流離譚っぽいものをよく読んだ。「日常は、貴種が正しく明かされ世に認められるための試練である」という発想が私の中でどんどん育っていってしまった。今考えるとこれは結構な危険思想なのだが、素直な子の私は一直線にその考えに進んでいった。「黄門様の印籠」「金さんの桜吹雪」「王家の紋章」がなければならぬ!と思ったわけだ。残念ながら私の家計も経済状況もそんな「印籠」とは縁のないところにあった。先祖も親の職業もフツーだったので、私は勉強をすることにした。幼い私にとって、それが「貴種」となる一番の早道に思えたからだ。
「幸福の王子」
アンデルセンのお話。これを読んだ時私は、ばっかじゃない!と思った。宝石を身に着けるような王子なら、まずそれを一つ売って、それで多くの困った人やら動物やらに分配すればいいのに。みんなが要るだけ分けてもらえば、オールハッピーだったはずなのに。王子は算数ができなかったんだろうか。いや、ヤンゴトナキ身の人はそんな細かい算数をしないものかもしれない。こう考えるのは貧乏人の発想かもしれない。そうやって王国は衰退していくのかもしれない。
お話自体も王子の親切を諸手をあげて賞賛していない気がする。アンデルセンも貧乏な子だったのかもね。
貴種を巡る別のお話。最近「一寸法師」を古文で読んだ(多分いろいろ写本があるのだろうが)。年老いた夫婦は神様に頼んで子を授かったが、いつまでたっても大きくならない。そこで疎ましく思った二人は夜中に「あの子は私たちへの神様からの災いなのか、あんな大きくならない子はいなくなってしまえばいいのに」と話をする。それを察した一寸法師が、居づらくなり都に出るというものだった。なんてかわいそうな一寸法師、一寸の身で頼れるのは老夫婦だけだったろうに。昔の人はなんとストレートで残酷なことでしょう。
わたしもブログして
よかったです。
ちょっとリハビリみたいです。
社会復帰できそうです。
嫌いな人は作りたくないです、ブログしてよかったです。
「修行」は大切なものです。ただ、子どもが「頼むところ」なく生きているのは、許してはいけないことだと思います。世の中すべてに「一寸」と言われようと、たった一人でいいから、「寄る辺」と思えるところがあればいいのに。
私も本当に不思議だと思います。冬にはぜんぜん知らない人だったのに。こちらこそ、「苦言」言っていただけるとうれしいです。
少しきつかったかなって、、、、
人間生きているって面白いです、こうしてうさとさんとPCを通してお話させてもらっている意見の交換させてもらっているのが嬉しいです。
人間十人いれば十人の正義があり十人の悪があります、だから十人十色だと思います。
これからも適切なご意見お待ちしています。
人をひきつけるか?敬遠されるか?その言葉ひとつにかかっていると思います。
言霊って言葉があるくらいです、その言葉自体が力を持っていると思います。
物語の内容についてではありませんが、ヨーロッパでは、足を滑らせても口は滑らせるなって言葉があるくらいだから、、、