たとえば私が、「あんたなんか、チビでデブでオバハンで育ちが悪くて偉ソブッテテ薄情で」って言われたら、私はきっととてもとても腹を立てるだろう。「ふざけんじゃねえ」と2.3発殴ってしまうかもしれない(現実はほとんど、こうやって言われたことはない。『何なら殴ったろか』光線がいつも私の周りにはゆらゆらしているからであろうか)
これらのことを言われて、何ゆえ腹を立てるか。「本当のこと」だからである。かつ「気にしている」からである。かつ「変えられない」からである。「本当のこと/気にしている/変えられない」この3要素が全て揃うと、致命傷になる。人によっては2つ揃っただけで、心の弦をでたらめに掻き鳴らされている気になって相手の胸倉をつかんだりする。こういう人は「奴は怒りっぽいぜ、触らぬ神にたたりナシだぜ」となる。また、地獄に繋がれたような気分になる人がいる。こういう人は「腫れ物に触るよう」と表現されたり、バカな奴に「言うと気にしておもしれーぜ」なんていじめられたりする。
「変えられない」 その理由はそれぞれであろう。たとえば、チビなんて、努力をしたって変えられるわけがない。育ちにしろ、生まれにしろ、当人の責任ではない。
また、人になんと言われようと変えられないこと、もある。忘れたい記憶を忘れられないのは、それがよかれ悪しかれ自分を育てたものであるからだろう。それがなくなってしまえば、自分は自分でなくなってしまう。それを乗り越えようとしたり、振り回されたりしながらも生きてきたのが、自分であるからだからである。「ウザイから違う性格になれ」と言われたって、そうは行かない。悪しき物であろうと、自分の過去を自分は抱えて生きているのだ。悪しき過去でも、自分にとっては自分の過去であり、性分は自分の性分だからである。それを愛するのは権利であり、尊厳である。他者にどうこう言われる筋合いのものではない。だから、「どうこう言うな」と言ってやればよい。
人は心の底に、「差別」の心を持っている。いや、少なくとも私は持っている。自らの何かしらを自慢するとき、私はそれと反対の物への差別の心を持っている。ああはなりたくない、と思うことは、「ああである人」への差別である。私は私の心の中の澱んだ物を覗き込む。じっと、暗い底を覗き込み、そんな心を持ちながら、あごを引いて歩く。見届けなければならない。自分がこんな澱んだ心を持ちながら、どこまで、自分と向き合いつつ、どこまで、目をそらさずに歩いていけるか。否定してはならない。目を閉じて見えない振りをしてはならない。私は被害者で、加害者だ。
これらのことを言われて、何ゆえ腹を立てるか。「本当のこと」だからである。かつ「気にしている」からである。かつ「変えられない」からである。「本当のこと/気にしている/変えられない」この3要素が全て揃うと、致命傷になる。人によっては2つ揃っただけで、心の弦をでたらめに掻き鳴らされている気になって相手の胸倉をつかんだりする。こういう人は「奴は怒りっぽいぜ、触らぬ神にたたりナシだぜ」となる。また、地獄に繋がれたような気分になる人がいる。こういう人は「腫れ物に触るよう」と表現されたり、バカな奴に「言うと気にしておもしれーぜ」なんていじめられたりする。
「変えられない」 その理由はそれぞれであろう。たとえば、チビなんて、努力をしたって変えられるわけがない。育ちにしろ、生まれにしろ、当人の責任ではない。
また、人になんと言われようと変えられないこと、もある。忘れたい記憶を忘れられないのは、それがよかれ悪しかれ自分を育てたものであるからだろう。それがなくなってしまえば、自分は自分でなくなってしまう。それを乗り越えようとしたり、振り回されたりしながらも生きてきたのが、自分であるからだからである。「ウザイから違う性格になれ」と言われたって、そうは行かない。悪しき物であろうと、自分の過去を自分は抱えて生きているのだ。悪しき過去でも、自分にとっては自分の過去であり、性分は自分の性分だからである。それを愛するのは権利であり、尊厳である。他者にどうこう言われる筋合いのものではない。だから、「どうこう言うな」と言ってやればよい。
人は心の底に、「差別」の心を持っている。いや、少なくとも私は持っている。自らの何かしらを自慢するとき、私はそれと反対の物への差別の心を持っている。ああはなりたくない、と思うことは、「ああである人」への差別である。私は私の心の中の澱んだ物を覗き込む。じっと、暗い底を覗き込み、そんな心を持ちながら、あごを引いて歩く。見届けなければならない。自分がこんな澱んだ心を持ちながら、どこまで、自分と向き合いつつ、どこまで、目をそらさずに歩いていけるか。否定してはならない。目を閉じて見えない振りをしてはならない。私は被害者で、加害者だ。
優しいバルタンさんはきっと人知れず心を痛めることがあるんだろうな。
私は、我知らず、傷つけてしまっていることが過去に多くあり、きっと今も多くあり、加害者でもあると言うことを心に刻んでいようと、いつも思っております。
言われたい言葉も、よくわかります。
自我に縛られ、他人に縛られ、葛藤していく私もいます。
最後の被害者でなく加害者だという言葉が脳裏に残ります。
もう一度、シャンパンを抜いて。
今日はちょっとゆっくりしましたよ。たまさんはいかがでしたか。
あなたの再びの船出と私たちに乾杯。
長い長い間、ご無沙汰しておりました。
わたし、無事、帰還しました。こちらの世界へ。
旅の間ずっと考え続けていました。あなたが残してくれたわたしのブログへのコメントの、ほんとうの意味を。
そしてたぶんわたしは、いま、それを理解できるところまで辿り着けた。そう思います。
あなたさまの存在に深謝します。
どうぞ今後とも末永く宜しくお願い申し上げます。
両手一杯の愛をこめて 介護人たまより。
絶対的に自分を認識することって難しい。ついついらくだから、人と比べてしまう。そんなん、比べられるわけないのに。安心したり、不安になったりする。自分の部をわきまえるのも、なかなか難しい。そういうとこが解ってて、素直に楽しめる人と話すと、自分もまっすぐに自分を見ようって思える。幼い人たちには、それが伝えられるといいと思う。ありがとうあきちゃん。さすが、あきちゃんや。オーダーメイドや。
そうやん。毎日楽しいと思っていられれば、それがその人の独自の道やん。ホントは、素直に楽しんだり、褒められて喜んだりがいい。そこに変な自尊心とかがにおうといやらしいけど。
私も気をつける。
無視されることもある。
優越感に浸っていると独自化が毒自化に!
気を付けよっと。
本当は日々の感動を伝えるブログにしたいんだけど惰性になっちゃってます。
昨日寒かったですね。朝ウキウキのの女性社員がいて訳を訊いてみると、「だって今日の天気素敵じゃない!?季節が移ろい今にも時雨れそうなこの変化って良くない?」と答えられました。そんな彼女を見ているとこちらもウキウキしてきました。自分も楽しんで廻りにパワーを与えられる存在になりたいですね。
うーん。重くて暗い。実際は結構、けろりと毎日を過ごしているんですがね。
今度は明るい記事を書きたいと思います。
私は件のテレビを見ていないのだけれど、
いやなところが自分にもあり、けして棚上げしない
たまには、逃げてみるけれど(だって明日も生きていくんですからね)やっぱり、見つめることをしていかなければ。そうやってしかダメだと思う。
私はけんちゃんのことをたくさん知っているわけではないけれど、あなたの歩き方を(当然私とは違うけれど)讃えたいと思う。
昔はいっぱい口や態度に表していたが今は自分を責めるばかりになっている。
他人から自分の厭な部分嫌いな部分を責められた時の対応を他人に見る時、嫌悪を感じると共に素の自分を受け入れて他の対応が出来ないものかと考える。
まともに受けることが辛いのでジョークで逃避してしまうが何の解決にもなってない。
今まで何度も繰り返した逃避行。真に強い人間はまともに受けるんだろうな~
昨夜のいじめに関するTV番組を見てそんなこと考えていた。大人の世界でもあるいじめは子供の世界のいじめより陰湿で根深い気がする。
ただただ発散する機会が大人の方に多いだけのことかもしれない。