ひとは、「カリスマ」というものを求める。絶対的な存在に、身をゆだねてしまいたくなる。その時、その人が絶対的な真実の人であれば、何の問題もないのだけれど、傍目で見ていても、「ちょっと待て」と思うことは少なくない。
人は、どのような人を「カリスマ」と感じるのだろう。
ここで、問題となるのは、「わからなさ」であろう。「カリスマ」は絶対的存在として認識されるものであるのだから、当然「凡人」たる自分と隔絶した存在でなければならない。それを人は「わからなさ」で計ってしまう。「強い意思表明」と「わからなさ」を併せ持つものを「カリスマ」と感じてしまうのではなかろうか。圧倒的に迫ってくる「強い意思表明」だけでは、なかなかその存在の力は評価されない。その中に、何か、自分では理解できぬものがある時、その力の中におぼれてしまいたくなる。熱狂したくなる。崇拝したくなる。
「わからなさ」が正しく、凡人の「凡才」を超えたものであるのなら、これまた何の問題もない。しかし、それは稀有である。多くのカリスマと呼ばれる人の「わからなさ」は、単にカリスマと呼ばれる人本人の「あいまいさ」でしかない。
それを、武器とする人もいる。真の力の凡庸さを誤魔化すために、「わからなさ」の要素をちりばめておくのである。「凡人」はそれに翻弄され、翻弄される快楽に翻弄される。似非カリスマの手法は、「強い意思表明」と「わからなさ」をいかにブレンドするかということに尽くされる。
「わからなさ」は、当然「わからないもの」であるのだから、正しいのか間違いなのか、高度か低度か、上等か下等か、観客には「わからない」。ゆえに判断は迷宮をさまようこととなる。
目覚めなさい。あなたが、「すっげえ」と思っていることは、本当にすごいのか。それは、あなたが「わからなさ」に翻弄されている結果ではないのか。「わからなさ」を、いかに評価するのかを考えるという面倒な作業を放棄した結果のものではないのか。
考えること、問い直すことは、面倒なことである。人はいつも絶対的な波に洗われ、飲み込まれるエクスタシーを心待ちにしている。
だが、だがである。もっとも危険なものが、その海の底に潜んでいる。「わからなさ」が、まったくの空虚であることもあるのだ。飲み込まれた海の底は真っ暗な視界0の深海であることもあるのだ。
「カリスマ」の御輿に乗せられている人よ、目覚めなさい。あなたが、あなたの見下す「凡人」に「カリスマ」と思われているのは、ただ、あなたが自分の思考の浅さに「わからなさ」という煙幕を張っているからではないのか。問い直しなさい。あなたはあなたのすべてを、曖昧なものも含んですべてを、だれかれに向かって、お天道様の下で語っているのか。「人の子」として、だれかれに語ろうと努めているのか。
「本物」の真実は、「人の子」の言葉として語られる。「認められる」ためでなく、「伝える」ために、「わかっていただく」ために語られる。
キリストがマリアと大工の子でも、やっぱりキリストになれたんだろうか。
キリストがマグダラのマリアと恋仲でも、キリストになれたんだろうか。
キリストが復活しなくてもキリストになれたのだろうか。
なれたのだと思いたい。
キリストがキリストであるのは、奇蹟ゆえでなく、
キリストの言葉が、キリストをカリスマにしたのだと思いたい。
君よ、白百合の美しさは、誰にもわかる形で、ひとつの曖昧さもなく、世の中に送られているではないか。
人は、どのような人を「カリスマ」と感じるのだろう。
ここで、問題となるのは、「わからなさ」であろう。「カリスマ」は絶対的存在として認識されるものであるのだから、当然「凡人」たる自分と隔絶した存在でなければならない。それを人は「わからなさ」で計ってしまう。「強い意思表明」と「わからなさ」を併せ持つものを「カリスマ」と感じてしまうのではなかろうか。圧倒的に迫ってくる「強い意思表明」だけでは、なかなかその存在の力は評価されない。その中に、何か、自分では理解できぬものがある時、その力の中におぼれてしまいたくなる。熱狂したくなる。崇拝したくなる。
「わからなさ」が正しく、凡人の「凡才」を超えたものであるのなら、これまた何の問題もない。しかし、それは稀有である。多くのカリスマと呼ばれる人の「わからなさ」は、単にカリスマと呼ばれる人本人の「あいまいさ」でしかない。
それを、武器とする人もいる。真の力の凡庸さを誤魔化すために、「わからなさ」の要素をちりばめておくのである。「凡人」はそれに翻弄され、翻弄される快楽に翻弄される。似非カリスマの手法は、「強い意思表明」と「わからなさ」をいかにブレンドするかということに尽くされる。
「わからなさ」は、当然「わからないもの」であるのだから、正しいのか間違いなのか、高度か低度か、上等か下等か、観客には「わからない」。ゆえに判断は迷宮をさまようこととなる。
目覚めなさい。あなたが、「すっげえ」と思っていることは、本当にすごいのか。それは、あなたが「わからなさ」に翻弄されている結果ではないのか。「わからなさ」を、いかに評価するのかを考えるという面倒な作業を放棄した結果のものではないのか。
考えること、問い直すことは、面倒なことである。人はいつも絶対的な波に洗われ、飲み込まれるエクスタシーを心待ちにしている。
だが、だがである。もっとも危険なものが、その海の底に潜んでいる。「わからなさ」が、まったくの空虚であることもあるのだ。飲み込まれた海の底は真っ暗な視界0の深海であることもあるのだ。
「カリスマ」の御輿に乗せられている人よ、目覚めなさい。あなたが、あなたの見下す「凡人」に「カリスマ」と思われているのは、ただ、あなたが自分の思考の浅さに「わからなさ」という煙幕を張っているからではないのか。問い直しなさい。あなたはあなたのすべてを、曖昧なものも含んですべてを、だれかれに向かって、お天道様の下で語っているのか。「人の子」として、だれかれに語ろうと努めているのか。
「本物」の真実は、「人の子」の言葉として語られる。「認められる」ためでなく、「伝える」ために、「わかっていただく」ために語られる。
キリストがマリアと大工の子でも、やっぱりキリストになれたんだろうか。
キリストがマグダラのマリアと恋仲でも、キリストになれたんだろうか。
キリストが復活しなくてもキリストになれたのだろうか。
なれたのだと思いたい。
キリストがキリストであるのは、奇蹟ゆえでなく、
キリストの言葉が、キリストをカリスマにしたのだと思いたい。
君よ、白百合の美しさは、誰にもわかる形で、ひとつの曖昧さもなく、世の中に送られているではないか。
感情が先走る。それはそれで良い。
雲上のものに見えるものを手中にしたいと思った時に分析すれば良い。
けれど世の中分析しない鵜呑みの情報(情報とは言えないと思う)が飛び交い噂話に尾ひれがついて時にはまるで違った事象が現実に起きているように伝わってしまう。
感情というものは変えがたいが、事実事象を淡々と捉えていくことが楽で良い。
そんな理系人間が人生をつまらなくしている気がすることもある。
「何でもあり」ってことは脱ぎ捨てようが着飾ろうが本質は変わらない。素のままで生きよう!
ずいぶんエキサイティングだと思うけど。
わからないことを考えるのをやめちゃうのは、
らくちんだけれど、
それでいいのか、それでいいのかと、
私は唱えて生きています。
らくちんが大好きなのは自分が一番よく知っている。
素のままで生きられない私であるというのもよく知っている。
うむ、来年の課題です。
監督の品位の問題でしょうか。
多少のカリスマ性は必要に思いました。
通俗の中のカリスマ性こそが本物ではないかと思いますが、いかがでしょう。
ちなみに、ご存知のように、私は通俗的です。今年のお付き合い、ありがとうございました。来る年もよろしくお願いいたします。