うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

青いところとこころ

2008年11月10日 | お出かけ
京都駅に着いたのはまだ11時前だった。だから、私は歩いていこうって思ったさ。江戸時代の庶民の願いは、死ぬ前の、伊勢参り・金毘羅参り・京六参り。京六ってのは、京都六条にある、西本願寺、東本願寺を参ること。わたしゃ、お伊勢さん金毘羅さん西本願寺さんは行ったことあるよ。だから、お東さんでコンプリート。京都駅からお東まではまっすぐだ。ゆっくり歩いたって、すぐ着いてしまう。案内所の若いお坊様に「大人がやってもいいんですか」と聞いて、お東さんスタンプラリーもやってみる。スタンプラリーにはクイズもついてるよ。○○○○はシンラン ほらほら楽勝だ! 完成すると、ほとけさまの鉛筆がいただける。実はお目当ては、渉成園。東本願寺の離れ庭園だ。協力金500円の庭園は、町の中でぽっかりと空に向かって開く池と木々との別天地。たっぷり1時間歩いてみる。
一人で歩いてみる。
六条の次は五条。文子天神さん。
辿り着いたのは五条橋。かかるネオンは、五條楽園。どきどきしながら歌舞練場を見に行く。昼間のイケナイ場所は、ひっそりとしながらその奥に潜むもののコトリと動く音が聞こえる気のするような、湿った渇いた場所だ。立派な唐破風のその下の上がり口にちんまりと座る人がいるのに気づき、目をあわさぬように通りすぎた。私はこの場所が、どんなところか知りもせず、ただただ、通りかかった観光客ですよ、って振りをしているつもりだけれど、小心な胸は波打っている。
大通りを渡れば、見上げるほどの「鮒鶴」
「フランソワ」は行列のできる混みようで、少し上がって「ソワレ」に入る。青い「ソワレ」 ミルクに浮かぶ色とりどりのゼリー。


一人が好きだ。行き場所も決めず、一人で歩き、思いついたところに立ち寄り、ほおとおうちを見上げる。名前を剥がれ、氏素性を消され、一人で歩くのが好きだ。
最近、世の中がうるさくって、みんな、ほんとに面白くって笑っているのかなあ、って思えちゃう。楽しくしなきゃいけないみたいな、楽しくなきゃ、儲からないような、商売にならないような、で、わたしはつまんない。
名前を知らぬ人ばかりの人波の中をぬって歩く。君達は、本当に、そんなに面白がっているんですか。私はこうやって、名無しで歩いているのが、好きだったんだって、今、思い出したよ。
世の中が求めているのは、空欄に名前を埋めることであって、その名が何でも構わないんじゃないだろうか。そんな時代でありはしないのか。取替え可能な空欄に、書いた名前は通番とおんなじで、生きたその人ではないんじゃないのかな。
職人は仕事に名前を記さなかったけれど、その仕事はその人以外の何者でもなかった。私達は、仕事にはんこを押すけれで、明日その名が変わっても大丈夫なシステムの中にある。世の中は、意味もなく急いでいて、取替え可能な空欄しか用意しない、そんな時代になってしまったんじゃないの? 私がかけがえのないものとして書く欄だと、人は思いたいものだけれど、そんな猶予を時代は持っておらず、時代は空虚に焦っているんじゃないの?「たった一つの花」とアジテートせねばならぬほどに、世の中は「たった一つ」を求めていない。「たった一つ」に仕事をさせれば、高リスクで低効率だからね。
そんな世の中であるのならば、名無しで、一人で、歩く。それは私のささやかな逆襲で、名無しになって、そうして、わたしの名前を取り戻すのだ。


コメント (4)
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